凱旋爪切り

目が覚めて、波の音を聞いて、ここが地獄で無い事を思い出す。だとすればここは、いったいどこなのだろうか。強く痙攣するような目覚めは、体に大きな負担がかかっていることを自覚させるが、そのおかげで身体の感覚は、指の先まではっきりして暖かいので悪い事ばかりではないと思う。


 昨日の餃子の羽の香ばしい匂いと、二人が放つ犬小屋のような臭いが混じったものは、朝から僕をげんなりさせた。


 朝食を用意しながら考える、今日の朝食はオムレツとシリアル。

どうすれば、二人が学校に行くだろうか、といた卵に少しだけ加えた片栗粉は昨日の餃子の羽を付けたそのあまり。

勉強が、出来ないからだろうか、プラスチック製の軽いワンプレートに焼きたてのオムレツを乗せていく。焼きたてのオムレツは、匂いを嗅ぐだけで満腹になる。

僕の分はいらなかった。

恐らくそんな理由ではない、さり気なく窓を開けて換気をしてシリアル入りのサラダボールに牛乳を注いだ。

それはきっと、最もありふれたものだろう。

「朝ごはん出来たよ」


 牛乳を入れたシリアルの栄養価は、恐ろしくバランスがいい。これだけを食べていればきっと健康的な体の状態を保つことも出来るはずだ。

しかし、僕を含め多くの人たちがそうしないのは、きっと食事にたいして健康を保つことよりも、もっと重要な役割を求めているからだ。

そう考えると、あの生意気なパフェの事が恋しくなった。


 あのパフェをちらつかせ二人を学校に行かせる謀略を思いつく。

僕はそれを、いざとなったら試してみるつもりだった。

二人は起きてきて、のそのそとテーブルに着いた。

細長い髪は、縮れて横に広がってしまっている。

「・・・スプーン」

声はかすれているし、顔は腫れて具合が悪そうだ。

「ごめん」

つけ忘れたスプーンを取って二人に手渡す。

まとめ買いで安価だったスプーンは、2~3本曲げても困りはしないだろう。

『いただきます』

本当は、もう少し野菜を食べたほうがいいのだけれど、サラダに使う様な野菜は、この辺りでは高いのだ。栄養価の高いシリアル方にも問題があった。

一つの器だけで完成してしまう料理は、どうしても早食いを誘発するのだ。

昨日の事もあって、どんぶり飯を飲むように食べていたムトウと昨日の二人の様子が重なってこの二人がいつか、ムトウのような巨体になってしまったらどうしようかと不安にかられる。

「よく噛んで、30回でいいから」

すぐに腹を空かせるこの二人が聞くはずもないのだ、見てれば空子は、良くて5~6回。もう一人の方は、3回くらいで飲み込んでいる。これは、シリアルを朝食に用意した僕にも責任があった。



人は暇を持て余すとロクな事をしない。


しかし、その事を少しも無駄とは思わない。

農作業の合間に奏でられる楽器や、子供たちが干からびた作物を投げ合って遊ぶことは、長い時間をかけて積み重なって、やがて文化と言える程の物になる。

生きて行くための生産活動を予測し、余剰分の時間を使って様々な可能性を探すのだ。


これも一つの可能性。


僕は、実に十数年ぶりに算数のドリルと対面していた。

その情報量に圧倒される、一年という長い期間を通して習得するとしても他の教科もある事を考えれば当時の僕に同情してしまう。


自然と軽くなる尻を抑え込んで、せめて1時間だけはここに座り、出来る限り理解を深めようと固く誓った。

1問目の、七宝模様の内側の面積を求める問題が分からない。

頭をひねって考えて限界を迎えて時計を見るとまだ5分もたっていない。

時の天才の事を思い出す。

仕方なく、教科書を探してそれを基に解いてみる。

計算すると答えが違う、途中で計算が間違えているからだった。しかし、やり方はあっている。

だから、正解という事にして次の問題も解いてみる、時計を見ると15分経っていた。


1時間を目前に、頭はパンク寸前だったが、それでも三角形の面積や円の面積の求め方くらいは、答えを出せるようになっていた。

もっとも、なぜそうなるのかは、まるで理解はできない。


久しぶりに、背伸びをして肺一杯に空気を吸った、吸引される空気にはやはり犬小屋のような臭いが混じっている。

遠くで鳴り続ける波の音が急に気になって、その音は蛇腹を折りたたんだみたいに側頭に立体的な動きでまとわりついて殺到した。

お尻が痛くて空気が淀んで生温い。

それに、余計な時間を過ごしたせいか身近なとても些細な、例えば足の爪が少し伸びて居たり、手の爪の一部が、靴の補修作業中に欠けていてそのまま放っておかれていたことだったり。

この前買った雑誌に、風邪予防のために換気を定期的に行うよう書かれていた事だったり。

昼ごはんと、晩御飯と、その先に続く朝ごはんの事が気になって。


再びパンクしそうな頭を持ち上げて、庭に続く居間の大窓を開いて、朝と昼の真ん中の陽だまりの中で5月下旬のような危機感を感じる程の暖かで濃い潮風の中。


誇らしげに爪を切った。

たとえ、1時間でも勉強を頑張ったことを誰かに褒めてもらいたい。そんなことを考える。

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