進撃
どれ程長い間、こんな生活を送ってきたのか知らないが。二人の遺恨の根は深かった。
二人は僕が仕事に出ている間、僕の荷物を漁り。昔買った色鉛筆のセットを持ち出して。
小さな本に好き勝手落書きをしていた。
これは、真莉愛が最後に読んでいた本だ。
ふと我に返って、過剰な期待をしていたことを心から悔いた。
こんな事をした理由を聞いたところで納得いく答えなど出るはずもない、やりたいからやったに決まっている。後日、クシャクシャになった本を回収してページを改めたが。その本の中には何もなかった。何も。泣き叫びたくなる気持ちをそっと抑えて、その日もまた食事の支度をする。
最近、いつもこの時間に思うのは、子供たちの食事を当たり前のように用意し続ける世の中の親たちの、ひいては、母親と呼ばれる者たちの偉大さだ。
僕の家やこの子達の親がそれを放棄した気持ちが毎日分かる。
特に、用意した食事を食べなかったときは最悪の気持ちにさせられる。
きっと、そういった積み重ねの上に現在の状況が作り出されてしまうのだ。だとすれば、こうなってしまったのも一概に大人達だけの責任とは言い切れないのかもしれない。どうでもいい。
月末に、あまりにも勢いよく金が減る。どうでもいい。
わずかでも食費の足しになればと思い、庭にある小さな花壇に生命力の強い香草を植えていた時だった。
宮下さんが、やってきた。
健康的な頬に丸くて少し厚い肩。鋭く光る眼に短い睫毛。真っ黒くて細い髪のショートボブを綺麗に風にそよがせて、宮下さんがやってきた。
「何をしているんですか?」
「パセリを。植えています」
宮下さんは、広めの眉間に少し皺を寄せてカラー用紙の束を僕に手渡した。
その紙の束は、沢山の児童保護施設の情報が記載されていた。
「再来月から、新学期が始まります。今日は、そのお話に参りました。甲斐さんは、無責任なこと言っていますけど私には、あの子たちに対して責任があります。田牧さんの事を悪く言うつもりはありませんが、最低限の教育も受けさせられないのであれば当然、二人は施設に入れてもらいます。」
真面目で、一生懸命で。
この人の言う事は、本当に正しい。
「僕はどうすればいいですか?」
「どうか、何もしないでください。」
「最近、ご飯の用意もしてあげているのですが、それもダメですか?」
どうでもいい話を、少しでも長引かせたかった。彼女の夕日に照らされる滑らかな頬は、一日中眺めていてもきっと飽きないだろう。
「それは・・・」
言いかけた時だった、家の中から二人が飛び出してきて宮下さんに罵声を浴びせたり物を投げつけたりして撃退した。逃げ去る宮下さんを急いで追いかけようとすると二人に手を引かれたが当然無視して彼女を追った。
あの粗末な家から少し離れたところで宮下さんは、目を赤くして少しだけ泣いていた。僕の存在に気が付くと慌てていつもの顔に戻ったが、それでも一度血行の良くなった頬は赤い。
「いつも、こんな感じなんです。誰が行っても。はじめの内はそれでも皆さん気を使っていたのですが。もう、こんなこと言いたくありませんが。あの子たちは鼻つまみ者です。それが、可愛そうで・・・」
「僕は、どうすればいいですか?」
「栄養のバランスを考えてあげてください」
宮下さんのその声は、波の音すらかき消している。きっと、魔法なのだ。
「おうち、とても綺麗になりましたね。では、また」
「今度はいつになりますか?」
「来月の同じ日にまた、お伺いします」
「待っています」
見えなくなるまで後姿を眺めて、それから一瞬でも真莉愛を孤独にしてしまった事を心から悔いた。同じことを繰り返す愚か者、その典型だ。
2月が終わろうとしていた、風呂も、虫の住処になっていた急須や湯飲みも綺麗にした。
二人はいまだに風呂にすら入ろうとしない。
二人が、学校に行かない理由がほかの子供たちに対する劣等感からだという事には薄々勘づいていた。人が少ないとはいえ近所に子供が全くいないわけでは断じて無い。二人は、その子供らと接触することを徹底的に避けていたからだ。
その理由は恐らくいくつか存在する。
まず、親がいない事、そして、家が貧しい事、風体が汚い事、悪い意味で目立つこと。思い当たるこれら4個の理由のうち、改善できそうなものは見た目に関する事くらいなので、しばらくの間どうすればいいのか、無い頭を搾って思案する。そして、思いついた簡単そうな事から実行する事にした。
後日、家の中にいくつか小さな鏡を設置した。
それから、毎朝二人から見えるところで顔を洗って歯を磨き。玄関の靴をそろえた。
伸びきった服を捨てて安物だが新しい下着を買って。何着か工場から借りて来た作業着とエプロンをアイロン掛けして壁に掛け出来るだけ文化的に振舞った。
そして、それを心から楽しんでいる風に演技をした。新品の風呂用タオルをひけらかし、良い匂いのする石鹸を置いた。それでも二人は終始頑固で、まるで釣れなかったが、おそろいの厚手の白いワンピースを買って帰ると態度が急変した。
この服にした理由は、上下セットで安価だったからだが、その事は黙っていた。
「・・・・ねぇ。みて・・!」
「うん、いいかも」
日差しが段々と春のものになる昼前の、都会の曇り一つなく磨かれた建物のガラスに映り込むお互いの姿を見て二人は、目を輝かせた。
同じくらいの歳の時、姉と妹と、ただ一人オシャレさせて貰えなかった当時の事を思い出し、胸が苦しくなる。あの時は二人が羨ましくて仕方がなかった。優越感を爆発させる二人は、その後いじけて母親から相手にされなくなった僕をしり目に、ソフトクリームを食べて、ファミレスでパフェを食べて。それから新しい靴を買ってもらっていた。
その結果、二人は猶更、快活になり、僕は卑屈になった。
二人に小遣いを持たせそれぞれ切符を買わせ、残った分はそのまま持たせておく。大した額では無いが、お金にどれだけの力があるのかを知るにはいい機会だ。それを知らなかったから、僕は、安給料で大変な仕事しか選べなくなってしまった。そして、その影響で失って来たもののことを考えると今でもすぐそちらに引き寄せられてしまいそうになる。
はしゃぐ二人が自分からはぐれないように縄で繫いでおきたいがそれは倫理的に許されない。
かといって、はぐれてしまえば保護者が悪とされてしまう。
世間の保護者達が常にこのようなジレンマを抱えながら子供たちと対峙しているかと思うと心の底から畏敬の念が湧いてくる。
少しだけ都会の街に二人は良く溶け込んでいた。
どうせ、たまにしか来ないのだから少し派手なくらいがいい。
異性とセックスするだけで人生の勝負が終わってしまう男性と違い。
女性の戦いは、おおよそ一生続く。これは、祖母や仲居たちを見ていて実感する。
ここで、最低限の戦い方を学ばなければ、二人はこれから先、死ぬまで負け続けることになるのだ。本来ならば、宮下さんから学ぶべきなのだが。彼女は、きっとご両親が素晴らしかったに違いない。無意識の内にそれを完璧に近い状態で身に着けていた。
無意識の物を他人に伝えることは、至難だ。
本人は、その概念にすら気が付いていないのだから。
きっと、白い目で見る人もいるだろう。批判もあるかもしれない、人の数ほどの感性が有って規範が有って倫理や道徳が有るのだから。それでも、それを避け続けることはできない事を誰もが思考のどこかで知っているはずだから。ほんの少しだけ図々しくなればいいんだ。
他人の為に自らを偽って透明になる演技をする事など最も賢く最も愚かであることに気が付くべきなのだ。
ソフトクリームを食べて、ファミレスでパフェを食べる。
二人が遠慮するとせっかくの遠出が台無しになるだろうから、同じものを食べた。
テーブルに運ばれた賑やかなパフェを前に、しばし互いをけん制し。
お互いがおおよそ同じ程度であることを認識すると、各々が好きなスタイルでそれを口に運んだ。
シリアルとホイップクリームと果物系のジャムとわずかな果実。そして、アイスクリームとビスケット系のお菓子が乗っただけでこのパフェというやつは心底生意気だった。
それは恐らく、普段使う事の無い、この変わった形のガラス容器と、まるで不便な細長いスプーンで不器用に食べるからだろう。小さなスプーンの上にそれぞれがうまく乗ったときの喜びもひとしおだ。
二人には、少しだけ大きすぎたかもしれない。服だけは汚すまいと言う気兼ねの元、口に運ばれるパフェは、テーブルにしばし垂れた。糖を含み、べた付くそれをそっとふき取ると、容器の底のシリアルを砕きながら一人が口を開いた。
「ねぇ、おじさん・・・?ってお金持ちなの?」
おじさんという言葉を、今まで気軽に使ってきたことを心から悔いた。
「瑞樹だよ」
「ねえ、瑞樹は。お金持ち?」
「ここにいる人達の中で、下から3番目くらいだと思うよ」
周りを見回してそう答えると、一人はクスクスと笑い。もう一人は、不機嫌そうな顔をした。
一度口を開くと二人は堰を切ったようによくしゃべる。
あれは何これは何、なぜそうなのかと、僕にだって半分もかわからない。
二人は子供らしく振舞ってはいたが、視界の隅に同年齢位の子供たちが少しでも映り込むと、いつもの様に戻り卑屈な態度をとった。
再び学校に行くようどう説得すればいいのか、一日かけて考えてはみたものの。いいアイデアなど当然浮かばなかった。
むしろ、学校になど行かなくてもいいのでは?などと言う、ふざけた考えばかりが二つ目三つ目あたりに浮かんできて。すぐに、似たようなことをしてきた自分がどうなってしまったのかを思い出し、姿の見えない同世代たちへの劣等感で一杯になり、子供の面倒を見る程。立派な人間ではないとつくづく思う。
こうして、情けない大人によって見捨てられた子供が集団生活で適応することができない大人へと成長して、代々苦しみ続ける血脈を生むのだ。
だとすれば、本当に僕たちは消えるべきなのかもしれない。
帰り道の軽トラの、助手席に無理やり乗った二人は疲れて眠っている。
夕方の暖かい光が白色のワンピースを茜色に染めていた。
このまま、防波堤から海に飛び込めば僕たちはもう、優良な人間たちによって苦しめられることは無くなるだろう。それが、お互いの為の最も幸せな選択なのかもしれない。
しかし、それを決めるのは僕ではない。
子供はよく眠っているので、起こしてしまうのが忍びなく。
買って来たばかりのブランケットを開封してかけてやる。身に着けるものの新品は、いつだってさらさらした手触りで心地いい。夕食の用意が出来たら様子を見に来て、まだ寝ているのならそのまま寝かしておこう。文明に触れた脳は、きっとオーバーヒートを起こしているだろうから。
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