人の楽園の果実

この長谷川という青年は、充実した生活を送る学生を体現しているように思えた。

長谷川は、自然に伸びた細い髪をほんの少しだけ染め上げて、ニコニコと部品を崩すことによって、ハンサムな顔をあえて歪めていた。

の田牧さんですか?」

 不躾な質問に思わず少しむっとしてしまう。もちろん、それが出力されることは無い。こんな感情を抱いたのは一体何時ぶりだろう。

 長谷川は、一つの作業台で僕と隣り合わせになりブラウンの古びた革靴を一足用意し、その片割れを僕に渡した。

長い指が伸びて作業台に設置された照明を点灯させると、歳のわりに鋭い輪郭が強調される。

「田牧さん、この靴はから来ています。嗅いでみてください」

差し出された靴の中を恐る恐る嗅いでみた。無臭と言えば無臭だが革と言えば革だし黴臭いと言えばそうだった。

 長谷川が用意しておいてくれた2セット分のブラシと布と刷毛と薬品で入念に靴全体の埃や汚れやカビを落とす、やり方は、すぐ隣の長谷川の手順をそのまま真似た。

すると、それだけでくすんだ靴の横腹は鈍く輝く、この靴は、まだ終わらない。そう確信する。

「良いですね、結構器用なんですね。これは最後にやっても良いんですけど。汚れた靴を扱うと余計なとこまで汚れちゃいますから、俺はいつも初めに一回済ませちゃいます。次は、見てください。田牧さんの方は、大丈夫ですけどこの人、左側に体重が偏ってるのか俺の方の靴底はすり減って穴が開いています。これを修理しましょ」

長谷川は立ち上がると更衣室の隣の部屋に僕を誘導した。

 壁一面に小さな下駄箱のようなものが立ち並ぶその部屋には、多種多様な靴のパーツで部屋中がびっしりと埋め尽くされていた。

「ここから、出来るだけ同じものを探して貼り付けましょ。使ったやつはきちんとこのノートに書いておいてくださいね」

薄紫色と灰色のノートには、汚い字で№と枚数、日付、そして顧客の情報が細かに記載されていた。

「文字は、書けますね?」


 靴底を剥いで、コルクを剥いで、残った糸を取り除き。

最低限必要な所だけを取り換える。松脂をしみこませた太い糸で特にすり減った部分に皮を縫い付けし、接着剤で解いたコルクを丁寧に丁寧に塗り付ける。

何度も何度も、長谷川の物と見比べて出来るだけ同じように作業に没頭する。

「終りました?いいですね。後はこれをいったん乾燥させます」

一通りの工程を経て、靴は工場の中の風の通りが一番悪そうな場所に設置された熱式の乾燥機で、まるでグリルで焼かれでもするかのように照らされた。装置の側面は、透明なアクリル製で離れていても中の様子がよく見える。

自分なりに丁寧にやったつもりでも、こうして、一段明るい光に照らされるとまだまだ細かい傷や磨きムラが所々に見受けられる。

遠くの国の依頼主の為に、やり直す必要があるかもしれない。

しかし、長谷川は。

「さぁ田牧さん!乾くまで、休憩しましょ!」

などと言った。

長谷川は、子供のように無邪気な顔をして作業場と一体になった粗末な応接スペースの、革が痛んで、テープで補強されているボロボロの椅子に深々と腰かけた。


「乾くまで、別の靴の掃除とかはしないんですか?」

「田牧さん!あの靴の持ち主は。2年近く待ってるんですよ?ほかの人達もみんなそうです。そんな人たちが高々数週間遅れたところで気にする訳無いじゃないですか?俺たちに出来る事は、この恵まれた時間を活用して俺たちに出来る最高の仕事をする事ですよ」

それは詭弁だと思う。


それから、長谷川は楽しそうに長々と自己紹介をした。

嫌味こそまるで無かったが、時折爽やかに毒づく自己紹介は、恐ろしい事に仕事を終えてから立ち寄った商店の中まで続いていた。僕は初めからそれを、ほとんど聞いておらず、眩しいほど楽しそうなこの男の顔意外、ほとんど覚えていなかった。

そもそも、この商店に入ったのもこの男を撒くためだ。


 明日が近づき、これからどうするべきなのか。氷水みたいに冷たい不安に顔をつけて考えて居る時だった。

ふと、長谷川の話が耳に入ってくる。

「俺の母親、保育園で働いてるんですけど、なんか長年やってると親からあんまり構って貰えてない子供の事とかが分かるんですって!」

釣り上げられたように、楽しそうな顔を見た。この顔さえしていなければ、この男は恐ろしいほどハンサムだと言うのに。

「それで、そういう時はどうするんですか?」

座りなおすように胸を張って長谷川が答える。

「たーくさん、話しかけてやるんですって!」

「それだけでいいんですか?」

「それだけでいいんです」

 空のかごをもって騒がしく店内をうろつくだけの不審者二人組を今すぐにやめ。

使えそうな物をかごに入れレジを通過し長谷川を置き去りにして軽トラを走らせた。

本当に、それだけでいいのなら。

僕にだってできたはずだ。


 買い物袋をガサ付かせ、凱旋パレードのように堂々と居間に侵入する。

二人は部屋の隅で横になっていた。寝ていたかもしれない。

流しの蛇口からは、錆交じりの水が出た。それが落ち着くまで待って、ゴミだと確信を持てるものを片付けながら調理をする。

 材料をわざと、さり気なく見せびらかして作ることが重要だ。

水も出る、ガスも出る、火もついた、包丁は、まるで切れない。

話しかけるだけでいいと言うのなら、きっとこれでもいいはずだ。

先程から、片方が此方をちらちら盗み見しているが、気が付かないふりをする。


 このゴミの屋敷でありながら、あの二人にとってもご飯を炊くための炊飯器はやはり神聖なものだったようで、冷蔵庫や電子レンジが壊滅的な状態になっているにもかかわらず。古びた7合炊きの炊飯器は、外側に少し埃が付いた程度で問題なく機能した。


甘く、柔らかな、ご飯の香りがするはずだ。

慣れ親しんだ味では無いなかもしれないが、エキゾチックなスパイスィーな香りがするはずだ。

食器も、布巾も出来るだけきれいに洗っておく。

炊飯器の中のご飯は、窯の中でひっくり返してほぐしておく。

新雪の降った校庭で一番初めに足跡を残すのは全く持って忍びないからだ。

空腹の辛さは知っている、誰かが作った料理の美味しさだって知っているはずだ。

僕はもう、だめかもしれないけど、君たちはそうじゃ無い。

どんなに、捻じ曲げられた好意だとしても、それを無碍にしてしまえば君たちは一生苦しむ事になるんだ。二人きりで生き抜いて、それがわからない程馬鹿じゃないはずだ。


さぁ、出来た。


「カレー」

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