ダイヤモンド密輸犯

甲斐老人は、軽トラ(田舎に多く見られる後部座席が露天の荷台になっている軽自動車)に乗ってやってきた。

その存在にとっくに気が付いていたというのに、外壁のすぐのところに停車した甲斐老人は軽トラ特有の甲高いクラクションを何度も執拗に鳴らし中の者を呼びつけた。

自然と早足になって、上機嫌な年寄りの元へと向う。

「おはようございます」


「んぁッ。おいが運転な?ダッシュボードにおいのもんけぇしといたからな」

老人は見た目に反して軽々と車から降りると助手席に乗りなおし満足そうにした。


どんな仕事をさせてもらえるのかはまるで分らない。けれど、よほど専門的な職種でなければ、不器用なりに最低限にこなせる気がした。これは、自惚れなどではなく、ただ単にこの老人が僕に対して。車の運転くらいしかできない奴。という、的確な評価をしていることに気が付いていたからだ。

老人の行為は一見無礼なようで、これくらい出来るだろうと妙に買いかぶられて、勝手に失望されるよりも、よほどましだった。


 整備の行き届いた車体は、クラッチペダルとアクセルペダルが非常良く調整されていてブレーキも良く効き、シートも新品のように柔らかかった。しかし、残りの寿命を十分に謳歌したいとは言え、狭い密室空間のすぐ隣で、あれやこれや騒がれたり、信号が変わった事や発車のタイミングを急かされるのは、とても気持ちのいいものではなく。老人が眉間に血管を浮き出させながら騒ぐたびに僕は、この車を搭乗者諸共海に放り投げてしまいたくなった。


 人気のほとんどない小さな港町の古くボロボロの町工場が立ち並ぶ区画から、もっと深く進んで、古い工場が細々と稼働している隅の方、プレハブ小屋を2個重ねたような小さな工場にたどり着く。

「ここじゃぃ。おいの知り合いがここで働いとる。おいよりちぃとわけぇが、おいと同じひょうきん者だかん気も合うじゃろ」


 車のエンジン音と久々の運転での緊張感で気が付かなかったが、この辺りは波の音があまり聞こえない。代わりに古い建物の合間を縫って聞こえるのは、気体が勢いよく噴射する音だったり重機が後進するときの警報だった。

 老人が助手席から降りると同時に外から、油の匂いとゴムが焦げる匂いが漂って来る。

しかしそんな事はどうでもいい。

僕はすぐにダッシュボードの中身。引いては、本のページを改めた。幸いな事に、この老人は、人の不幸を喜ぶような悪漢ではなかった。



「おーぃ、きんなの野郎連れて来たぞぉ。おーぃ」


 入り口の簡素なスライド扉は、カラカラと音を立てて滑らかに開いた。

奥から、作業服姿の初老の男性がやってきて、老人に頭を下げた。

背の高い、人のよさそうな男だ。僕の社会での就労生活は短く、とても立派なものではなかったがその中でも初めて出会う『布』の様な安定感を持つタイプの人物だった。

その人物は人のよさそうな笑顔を浮かべて、老人に軽く頭を下げた。

「甲斐先生、こんにちは。えっと田牧さん?だよね?一応この会社の社長の上路じょうじです」

 声が、真莉愛の父に似た低いバリトンだったので一瞬心臓が縮こまる。

溢れそうな記憶からすぐさま目をそらしたが追憶は、意識の裏側で既に永遠と続いていた。

 握手を求められた手を握り返すと、日に焼けた手はカサカサで力強かった。

料理人の手とは、まるで違うがこれは、長年の経験と勤勉さが幾重にも折り重なり造り上げられた最も基本的な道具そのものだった。

「うちの会社は、今はリフォーム系が主だけど。初めは、靴の修理をする会社だったんだ。前勤めてた人が定年で辞めてから、ずっと大学生のアルバイトの子に頑張ってもらってたんだけど、なかなか大変でね。結構遠くから来てもらってる子だし何せ一人しかいないから」

「靴屋辞めりゃいいじゃろが。ハッ!」

「そう言わないで下さい」

上路社長は、老人の粗放さを助長させるような人の良い顔で笑った。


「そいじゃ、おいは帰るからな。田牧君や。まぁ、ちゃんとやりなさい」

「はい。お世話になりました」

「なぁに、良いて。これから頼んだぞ。上路君も、まぁ大変だろうが頼んだぞ」

「はい、先生もどうか気をつけてお帰り下さい」

「んぁッ!」


 辺りの騒音が止んだわけでないのに、この小さな工場の中はしんと静まり返って。

明日、倒産してしまうかのような粛々とした雰囲気を帯びていた。

四角く狭い空間に短い息継ぎが響くと上路社長は先ほどの笑顔を僕へと向けた。

「じゃ、改めまして。これからよろしくお願いします」

「はい。よろしくお願いします」

それからすぐに、上路社長は奥の更衣室に僕を通すと、ロッカーに詰め込まれた段ボール箱の中を物色して、そこから取り出した着古しの作業着に着替えさせた。

「それが君の作業着だから、ちょっとばっちいけど。すぐに新しいのが届くから。なんなら自分で用意してもらっても全然かまわないから」

「はい」

「じゃ、次はこっち」

「はい」

 更衣室を後にする。その際、姿見に移り込む自分の姿に思わず目を奪われた。


仕事が、出来るのだ。



 その日の業務は、依頼者の靴を港に取りに行くことだった。

あの小さな工場『レフィート』の狭い作業場の中のだと思っていたものは。すべて修理依頼を受けた靴がしまわれた箱だという。予約は何年も先になると知りつつも依頼者たちは、あの小さな工場に履き古した大切な靴を送った。

 上路は、港までの車の中で自らの人生の経緯を、丸い球を転がすみたいにすらすらと角無く語った。

集荷場の書類にさらさらサインして、軽トラの荷台7割くらいの荷物を二人で運び入れ元来た道を戻った。

途中、食事に誘われたが断った。

 工場に戻ると、荷物をほどいて保管用の箱に一つ一つ詰めなおして日付などの情報を記入しそのほかの靴たちと同じように積んでおく。靴と共に送られて来た梱包材は、畳んで外の専用の倉庫に積んだ。これは後日収集業者が取りに来て処理することになっているという。

雑用が終わり漸く業務が始まると思われたとき、上路は、少し困ったように腰に手を当てて体を伸ばした。

「ううん。困ったなぁ。思ったよりも早く終わっちゃったね」

 僕ははじめ、何を言っているのかがまるで理解できなかったが、奥の部屋へ消えた上路が嬉しそうに、湯飲みと急須をもって現れたときに状況を理解した。

上路は慣れた態度でお菓子の包みを一つ破いて口に運んでとても幸福そうに目を細めて再び角の無い様子で語りだす。

「さっき言ったバイトの子なんだけど。今日は、非番なんだ。今、靴の修理は全部彼に任せちゃってるから。今日はここまでで明日またバイトの子、長谷川はせがわ君っていうんだけど。長谷川君に教えてもらう感じでお願いできるかな?今日は初日なんだし、良かったらお茶でも飲んでいってよ」

旅館でもキッチンでも就労の初日は、似たようなものだった気がする。

どちらの職場も第一印象は、そこまで大変ではなかった。

 それから、何時間か上路の話を聞いた。聞けば聞くほどこの男は人柄が良く、気さくだった。長い話は、退屈だがカウンター越しの酔っ払いたちとは、比べ物にならない程、気が和む。

そうしているうちに、遠くで定刻を知らせるサイレンが鳴った。

「ぁあ!もうこんな時間だね。今日は、ここまででいいよ。車は、君に預けておくから通勤で使う分のガソリン代は出るからね。途中、お店もあるし。明日は、僕は来れないけど長谷川君が来てくれると思うから、彼にいろいろ教えてもらってよ。年下になるんだけど、田牧さんそういうの気にするかな?」

「大丈夫です。明日もよろしくお願いします」

「お金は大丈夫?何なら、全額とはいかないけど前借してもらってもいいんだよ?」

というのは、給料を先払いして貰う事だ。僕は丁重にその提案を断った。


 目を凝らしてみなければ気が付かない程の、夕焼けに混ざったささやかな暮らしの明かりの中を、白く明るいヘッドライトを点灯させて軽トラを走らせた。道路沿いには、徒歩では見つける事の出来なかった生活用品や食料品を扱う店が点在し、ちらほらと人影も見えた。

何か、食べるものを買っていくべきか。

 どれ程、あの生活を送ってきたのか知らないが、急に同じ家に居候することになった者が作った手料理などあの子達は食べてくれるのだろうか。

そんな事よりも、ガスや水が出るのかどうかもわからない。張り切って材料を買って行っても火や水で調理が出来なければ無駄になってしまう。僕は、原始人ではないのだから。

 それに、急がなくても昨日与えた二箱のキャラメルで一日くらいは凌げる筈だ。

ふと、二人の首の後ろに浮き出た骨と皮を思い出し、もし、これから帰るまで商店が有れば寄ろうと思ったが。無慈悲にも、その機会は訪れなかった。


 ボロボロの小屋のような家は、夜になると不気味な程荒れ果てていた。

少し強めの風が吹くたびに、トタン屋根の隅が少し持ち上がるのを見ていると、台風が来たら屋根がめくれてしまうかも知れない。という不安に駆られる。

 それでも、今現在、僕が妙に安心していたのは。この家の居間に当たる場所にぼんやりと、オレンジ色の明かりがともっていたからだ。

 加えて、玄関の上がった所に置いておいたキャラメル12粒入り大粒二箱が無くなっていた。

それを見ると体も、脳も、いっぺんに疲労して、どうしようもない眠気に襲われる。

僕は何よりも大切なものをダッシュボードから取り出し元の場所に帰して、海に沈むよりも深く眠りに落ちた。

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