人類
季節外れに上昇する気温と魚のえらや内臓や骨を捨てたゴミ箱を二日間放置したよりもずっと濃い魚の匂い。幻聴のように鳴り続ける海の音。
そんな中、好きな物が出来ました。
昨日の老人と共に現れた、役場の人間。
不自然な頭髪を持つ脂ぎった赤黒い四角い顔を持つ壮年の斎藤とともに現れた。鉛筆や消しゴムのように実用的な美しさを持った女性。宮下さん。
余計なものは身に着けず、与えられた物のみで勇敢に挑み続ける逞しさと潔さ。立ちはだかる困難を物ともしない黄金の剛腕。僕と真莉愛が心の底から渇望し憧れた厚みを持った人だった。初めて目にした瞬間から僕は、彼女の虜となった。
「あの?あちらの方はどなたでしょうか?」
「んあぁに、道に迷った旅人じゃぃ。名前は、なんつったかの?田牧・・・?んだっけ?」
「
玄関先で突っ立ったまま話しは続けられた。家の中は、とてもゆっくりと話し合いができる状況で無い事をこの場の全員が知っていた。
「こいつに、この家貸すことにした。子供っこは、おいの養子にしてこいつに面倒見させるつもりじゃぃ」
「ぇぇえ?!ちょっとそれは急すぎるんじゃないですか・・?それに、この方は、田牧さんでしたっけ?
宮下さんは、顔を少し上気させて懸命に抗議した。この質問は、老人に投げかけられた物だから、僕は横を向いた彼女のとても単純にまとめられた後ろ髪とその周りの空間を。ただ、眺めていた。
「知り合い、じゃぁな」
老人の答えは、遠くにある正解だと思った。
宮下さんはとても生真面目に老人に詰め寄る。
「本気で言っているのですか?もし何かあったら・・・!」
「分かりました」
宮下さんの美声を斎藤が遮り、始めから少しも崩さない顔面に張り付けたようなスマイルで僕の方を向いてお辞儀をした。
「役場のサイトーです。田牧さん、これからよろしくお願いします」
「んぁっ!面倒な事はこっちでやっから。明日ァ、また来るからな」
田舎者の閉塞的な環境で培われた性質は、どこに行こうが大して変わらない。隔離された小さな世界で自分だけが平穏で面倒ごとが無く、過剰に見下されなければ後はどうでもいいのだ。
この場で唯一納得の行かないない宮下さんは、最も真面目で、誠実で、一生懸命で、良識に満ちている。
敷地外に出たとたん彼女は僕にも聞こえる声で言った。
「何かあったらどうするつもりですか?!こんなこと言いたくありませんけど、とてもまともだとは思えませんよ!」
上の方が削れた塀からこちらを窺う彼女と目が合って、僕は、宮下さんの目の下にほくろが有る事に気が付いた。
「なぁに、そしたらそれはそれで。ぃいじゃねえぇ?家賃は、もう半年分もらっちまったしな。ハッ!」
去り際に老人は痰が絡まった喉を一度鳴らして清々しく笑った。
全てが去った後、僕は真莉愛を一瞬でも孤独にしてしまった事を心から悔いた。
そして、宮下さんの一生懸命さは思い出すだけでも僕の閉鎖的な思考を外側の世界から激しく揺さぶった。
吐きそうになる。
どうしようもなく腹が減っていた。
まだ冬だと言うのに気温は高く、日陰に入らなければじりじりと肌が焼けそうになる。
仕事があると老人は言っていたがこんな気候の中、この辺りの人々はどれ程働くのだろうか。
空腹を紛らわせるように少し縮まって、知らないうちにまた眠ってしまう。
思い出すのは、父の事、母の事、真莉愛の事。たまに見るならすぐに忘れてしまうのに毎日見るからその記憶はいつでも新鮮だった。
寝ている間も、ずっと波の音が聞こえる。立体的な波音は聞いているだけで酔いそうになる。
昨日までの決意は、出会った人の数だけぼやけてしまい。思い返せば、これまで満足いくまで物事をやり遂げた事など無かった事を思い出す。そうやって、また老いていくのだろう。
ざわざわと、いつまで経っても耳障りな波音に次第に苛立ってくる、立ち去るなり、昨日の続きをするなり出来たはずなのに。それら恥の上塗りを躊躇わせたのは、また、あの人に会えるかもしれない、と言う小さな確かな希望だった。
その小さな希望が有るからこそ、その下に、気付けない程大きな絶望が横たわっていることに気づかされる。いっその事何もなければ、楽なのだけれど。これ以上卑屈な姿を宮下さんに見せて嫌われたくなかった。また会いたい、また会って僕を正しく評価してください。陰気なろくでなしだと。言って下さい。
いつの間にか、昨日、あの子供らが有精卵を置いて行ったところに今度はキャラメルのようなものが置かれていた。包装紙が一度クシャクシャになり、その後鞣されたような独特な状態だった。
大切な宝物の包みを開いては閉じてを何度も繰り返したような状態だった。
そんなキャラメルのようなものが縁側の隅に2粒置かれていた。
舐めるな。
行って帰ってくるだけで半日近くかかるコンビニまで行って帰ってくる頃には、東の空が明らんで。誰もいないと思っていた海岸のいくつかの船着き場は静かな活気で満ちていた。
音も無く玄関から中に入り、土間からすぐ上がった廊下に『12粒入りのキャラメル大粒』を二箱置いて外に出た。
それから、キャラメルを二粒一緒に舐めた。
極度の空腹と疲労のおかげか。
大変悔しいが、世界で最もおいしいキャラメルを食べた気になる。
脳に糖類が回ったおかげか、近頃ずっと感じていた焦げる寸前の不安が随分と落ち着いた。すると、急に体が寒くなって、初めは知らぬふりをしていたが結局耐えきれなくなり膝を抱えて座った。
お腹一杯温かいご飯が食べたい。そんなことを考えないどこか遠くに行ってしまいたい。体中が千切れそうだ。
辺りが明るくなり、そこら中に影が伸び始めた頃。家の中で動きのある気配がする。
空腹で軽くなった体は、目覚めがいい、よく知っている。
今日は僕が寝ていないことを知っていたのか、それとも、もう3日目ですっかり慣れてしまったのか分からないが昨日まで二人が保っていた。意地でも気配を消そうとする気兼ねが今日は失せていた。
玄関の扉が開かれて鬱陶しい波音に無機質な音が鳴り響いた。
「キャラメル。ありがとう」
「・・・」
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