すみっこの埃
「おい、兄ちゃん。起きんかぃ」
失敗した。
昨晩感じた体中の心地よさはどこかに消えさり、指一本曲げる事も出来ない上に身体が芯まで冷え切ってしまっていた。
臭い息の、禿げあがったおでこに数多の皺を寄せた薄汚い老人と太陽が重なって視界の焦点が合わず、吐きそうになるが塩気が強すぎる口内のおかげで少しも吐くことが出来なかった。
「おい、おまえさん。仕事があるぞ?」
僕は不覚にも老人のその言葉にほっとした。
世界の隅にはダストシュートのような穴がある。その穴は一人用で誰かに必要とされているうちは、入り口で引っ掛かってしまって入れない。
この老人にとってそれは僕で、僕にとってそれはこの老人だった。
老人の少し後ろを歩く汚れ切った体操着を身に着けた二人の娘は、二人だったからこそ穴の入り口で引っ掛かり瀬戸際ではあるもののこの世界に辛うじてとどまっているように思えた。
全く持って険悪な雰囲気から二人と老人は、他人に見えるし実際そうかも知れない。
小石がむき出しになっているコンクリートの派川のわき道を歩いて、人気のない見捨てられたようなぼろぼろの、潮風でトタンが半分錆びてしまった屋根が乗った、家々の間の道を進み、再び海の見える大きくカーブした道に出る。
期待を裏切られた荷物は、信じられないほど重く。濡れたままの衣服は、朝の日差しにさらされているとわいえ依然として冷たく、なおさら体温を下げていた。
波の音が耳障りで仕方がない。
振り向きもせず、何も聞きもしない老人らの、無関心極まりない態度を目の当たりにすると後頭部辺りから自分勝手ないら立ちが湧いてくる。
「ここじゃぃ」
集落から少し離れて、海岸線を湾曲しながら遠くまで伸びる道路のさらに海側の小さな土地に、建てられたというより設置された外壁の内側に置かれた。公園の遊具の一種のような簡単すぎる建物にたどり着く。
おおよそ、船の部品や漁で使う網などの修理でもやらされるのだ。
やったことは無いが一度それが終わってしまえば、正月にだけ手伝いに来る流れ者の料理人のように行先も告げずに消えてしまうつもりだった。しかし、この小屋は、漁師の倉庫などではなく居住地だった。
玄関のマス目ガラスが埋め込まれた引き戸は、所々ガラスが割れていてその状況を引き起こしたと思われる大きめな石が、泥や草やゴミだらけの土間にいくつも落ちたままになっていた。家の中は、真っ暗で使われていない公衆便所のような雰囲気を醸し出していて犬小屋のような強い臭いがした。
「きたねぇのぉ・・・」
老人は、玄関から先に上がる気は全くないようで、足元に転がったゴミの詰まったビニール袋を奥の廊下の暗がりに向けて適当に放り投げて悪態をついた。
二人の娘は、僕に一瞥もくれずに玄関で乱暴に靴を脱ぎ棄てて老人が投げ捨てたゴミとは別の方向にある暗がりに音も無く消えていった。二人ともがりがりに痩せているおかげで首の後ろから骨が浮き出ていた。その事が妙に印象に残った。
押し付けられる仕事がなんなのか、薄々感づき始めた頃。
「明日、立会人を挟んでちゃああんと説明すっから。逃げんじゃねぇぞ?あんたの身分証明書やらは預かっとくからな」
老人は、そういって瘤が取れた爺さんのようにシャキシャキ歩いて集落に溶け込んでいった。あの年寄りは、見た目通り大変老獪な性質で。身分を証明する物や財布に僕が大して執着していないことを知っていた。濡らさないようにスーツケースの内ポケットの中に入れておいた。一冊の本がなくなっていた。
それに気が付いたとき全身から冷や汗が出て身体が急にガタガタ震えたような気がする。
すぐに、家の中にあの子供たちが居ることを思い出して、見られたくない一心で外に飛び出し今度は、明るい場所でもう一度スーツケースの中身を見てみるが、やはり本は見つからなかった。
いっそのこと、ここを離れてもう一度挑戦すべきか。
陽だまりの縁側でそんなことを考えているうちにいつの間にか眠てしまう。
明け方、太陽が昇る前。
脳だけが、はっきりと覚醒する。角材を連ねた造りの縁側はとても寝心地のいいものではなく全身の肉という肉に痛みが走る。急に目が覚めたのには理由があった。家の中からあの子供たちがこっそりと抜け出して行ったからだ。
この状態から抜け出すとすれば、この時を除きほかに無かった。しかし僕は、あの本だけは、たとえ、老人を殺してでも取り返さなければならないと。一晩かけて心に固く誓いを立てていた。
指一本でも動かしてしまえば勢いそのまま立ち上がれたのかもしれない、その僅かなきっかけが起こる偶然を待っている。
しかし、当たり前のようにそれは起ることなく日が昇った。
この辺りは冬がとても短い、昨日の朝までが冬でそれ以降からはすっかり春のような温かさになっている。指先や、足の裏など普段血が通わないところに血が通い始めるのはあまりいい気持ではない。それに、実際に数を数えたわけでは無いが、気温が上がり始めると世の中の人の流れは、より活発になり他人の眼を逃れることが難しくなる。
その事を考えるのであれば、南に来たのは間違いだったのかもしれない。
かといって、北に向かえばどうしても故郷や以前勤めた旅館のそばを通らなければならなくなる。どうしてもそれだけは、避けたかった。
うだうだとしているうちに時間だけがいたずらに過ぎていく、このまま跡形もなく消えてしまえば楽だと言うのに、物事がそう都合よく出来ているわけがない。
そうしているうちに外壁の向こうから、軽やかな足音が聞こえて来たので、瞼だけをそっと閉じてあたかも別の次元にいるかのように振舞った。
「まだ寝てるのかな」
「・・・うん」
はやく、失せろ。
「私たち以外、みんな消えちゃえばいいのにね」
「・・・うん」
用心深く、二人がすっかり家に入り落ち着くまで待ってから起き上がると、寝ていた頭の上あたりに鶏卵が一つ置かれていた。
手に取るとそれは、まだ温かい。
ぼくは、それを全力で壁に投げつけた。
すると中から、未成熟の雛が現れた、まだ羽毛もろくに生えていない桜色の肌は微動だにしない。
閉じられた瞼から透けて見える両目には、きっと何も映ってなどいない。
罪悪感からか、この幸福な雛を縁側の下に埋めてやった。
人の住む建物が、これほど荒れ果てゴミだらけになるまで、毎日こんな事をしていたのか?消えるべきなのは、僕たちの方かもしれないと言うのに。
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