小林さんちのザクロ

 人込みを避けて、川沿いの土手を進み、人のいない屋根のある建物の中でたまに眠って。

食事は、どうしていたのかよく覚えていない。ここよりは、ましだと言う事だけが前に進む理由だった。夏が来て冬が来て夏が来て。今頃、きっとみんなは成功しているだろうから、とても戻れない。公園で水を飲んで、中で休もうと思った廃車の中で暮らすホームレスたちにチョコレートをもらい、山を越えて、橋を渡り、

道に落ちたザクロを食べた。ザクロは、近くの民家の外壁からはみ出した木にいくつも成っていた。

弾けて中身が見えている。白いザクロだった。白色のザクロは珍しい。

 周りを見渡して、誰もいないことを確認する。

木になっている物も幾つか採っても構わないだろう。

口の中は、まだ酸っぱい。

生きる為の悪事は、正当化される。

ならば、僕はこのザクロを盗ってはいけないに決まっている。


 空気が、明らかに変わり。忘れていた体中のかゆみが久方ぶりに蘇る。

漸く、この世の隅にたどり着く。

 耳がおかしくなってしまったかと思われたのは、波の音で。体のどこかが腐り始めたかと思われたのは打ち上げられた魚たちの腐臭だった。

間に合ったことに心の底から安堵する。

 ガタガタにタイヤの擦り切れたスーツケースは買い替えるごとに安物になっていきこれは、5個目だった。

 近道をしてでも、真莉愛が見たかった終焉の景色を目に焼き付ける。

やがて、水平線の向こうから、オレンジ色の太陽が昇ってくる。登りたての太陽は、固まる前の卵を思わせる液状で、やがて段々火が通って、沈み。明日になったらまた新たな太陽が昇ってくるのだ。

 隅は、とても落ち着く。なぜなら、ここに訪れるのはきっと似た境遇を持つ敗北者、弱者、底辺その類。そのせいか、この辺りに人の気配はまるでない。過剰な潮の匂いが鼻につくがここはいい。とても落ち着く。

 水面からスローモーションで分離する太陽を眺めていると最後くらいは、無理にでも、まともな人物を演じてみたくなる。スーツケースの中の、父の葬式の時にだけ身に着けたスーツを取り出し、着替えた。ぶかぶかだったスーツは、経年劣化で縮んだのかそれなりに着心地がいい。それから、半日かけて紙とペンを買って来る。この辺りは、冬だと言うのに暖かい。どうして、こうなったのか、誰かに伝える必要があるのだ。

 正直に、「みんな死んでしまえばいい」と思っていると書くべきか。真莉愛の事を書くべきか。姉や妹などに向けたメッセージを書くべきか悩んでいるうちに。新たな液状の太陽が水平線から滴り落ちてくる。あれは、並ぶもののない最強の存在。

 この期に及んで、恥をかくことに途方もない恐れを感じる。その事が、筆を遅らせていたと言いたいが。実際のところ無い頭を搾ったところで出てくるものは、荒唐無稽な自己弁護と浅知恵だけだった。

そうしているうちに、水平線からもう一滴、灼熱の命が滴り落ちる。


 思わず、生きて居たくなって、そうする理由がどこにもなかったことを思い出す。

さらさらと、難しい漢字は使わない。

日に焼けて、赤くなってしまった両手はまだ生きたがっている。僕は、真莉愛のもとに行きたいと言うのに。


 幸い、その日の夜は急激に冷え込んだ。


3度も見た海岸へ一歩一歩と踏み込んで、足が付かなくなって、やがてどちらが上か下か右か左かもわからなくなってくる。にも拘らず足や指先には、暖かさを感じる。塩辛い水が鼻から侵入し指が段々動かなくなってきて至福の時が訪れる。今まで散々上手く行かなかったのだから、今回だって上手く行かないに決まっている。そうなったら、また朝日を見て、もう一度挑戦しよう。

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