墓穴

 きっと。誰かが望んだから、沢山の人たちがそう望んだから、真莉愛は死んでしまった。

バスルームで手首を切って自殺したという。僕が、追い込んでしまったのか?

突然部屋を訪れた警察の人間を名乗る二人の大男が、真莉愛の父が個人的に会いたがっている旨を僕に伝え、それから見た目とは似つかわしくない奇麗な字で書かれたメモと普段はこんなことはしないのだと何の役にも立たない情報を置いて行った。

それから、僕は待った。

 待てども待てども、彼女は部屋に訪れない。一向に減る事の無い鱈と蛤のチャウダーは造る度に腐っていく。たまに空腹に耐えきれずそれを食べ、激しく嘔吐した。

それから、バスルームと部屋中をひっくり返して探し回ってみたが髪の毛くらいしか見つからない。限界が近づいている事に気が付き始めた頃、僕はメモを手に取り、外に出た。

暗くなって、さらに雨が降るのを待っていた。出来るだけ人が少ない方がいい。今の状態は普段以上にまともで無い。

電柱に張り付けられた住所を頼りにたどり着いたのは、かつて真莉愛が近道に使っていた庭付きの立派な家だった。表札には確かに鈴森とある。見なければよかったのに、苗字に続く家族の名の連なりに真莉愛の文字を見つけた。

沢山の人を抱え込むこの都会に在って、唯一この家だけが冷え切っているような気がした。

カーテンの閉め切られた窓からは、画面の反射特有の激しい光の点滅が漏れている。2階の窓だ。

1階の様子はまるで分らない。冬を越した庭の雑草は既に伸び始め、庭の隅の植木は根元から切り落とされて切り口はかれこれ数年たっている。空き家の庭のような見捨てられた庭だ。真莉愛もそうだった、そして僕も。

なんといえばいい。

遅くに、すみませんと言おう。そうだそうしよう。

汝、一切の希望を捨てよ。

しかし、真莉愛はこうも言っていた。

希望は、私たちの中にあるのだと。それを捨てられるはずがない。

ベルを押す指が震えて吐きそうになる、それでもレンズ付きのそれを目一杯押し込んだ。


「どちら様ですか?今日は何の予定もないはずですが?」

落ち着いた、男性の声だ。

機械のノイズが乗っていて、さらに雨の中だと言うのに良く響くバリトンだった。

「あの、真莉愛さんの真莉愛さんにお世話になったものです」

何を聞こうというのだ、何をしようというのだ。何を言おうというのかもわからない癖に。

「少し待ちなさい」

電話を切るようにノイズが消えて玄関に明かりがともされる。西洋の古い建物をベースに派手になりすぎない程度に現代風にデザインされた扉や雨どいの装飾をうっすらと照らしながら扉が開かれた。背の高い、吸血鬼のような男性だ。目元や整った顔立ちや落ち着いた知的な雰囲気は、似ていた。

納得のいく懐かしさがこみ上げもうそれで満足しその場から立ち去りたくなる。

もう沢山だ。

「友人が訪ねてくるなんて珍しい。おや、雨が降っていたんだね。さぁ、中に入りなさい見てもらいたいものもあるんだ」

「お邪魔します」

薄暗い玄関は、外見よりもずっと広く、靴は一足も出ていない。

しかし、脱いだ靴のことなどどうでもいい。失礼を承知で、尋ねる。

「あの、真莉愛さんは?何処にいるんでしょうか?」

「なんだと?君は真莉愛のなんなんだね?いったい何をしにここに来た?そもそも、今日は誰とも会う予定はなかったはずだが?こんな雨の日にいったい何だと言うのかね」

真莉愛の父は、急に凶暴な眼差しになって、手すりに片手をかけたまま半身振り返えった。

ひりつくように声の高い音だけが、丈夫で隙間の無い建物の中で響く。

「来なさい」

「はい」

この人物の決してぬぐい切れない違和感。真莉愛は、本当に死んでしまったのだ。

廊下は不自然なほど暖かく、外の雨の音も聞こえない程の静寂に包まれ、明ける事の無い夜の中にその身を置いているようだった。

「あの子から、何か聞いたかい?」

廊下の電気は、人が近くに寄ると自動的に点灯し足元を仄暗く照らし、通り過ぎると音も無く静かに消えた。

「何も聞いていないと思います」

淀んだ空気の中を進むことによってかき混ぜられる匂いの中には、確かに彼女の髪に染みついていた消毒のにおいが混じっている。

「嘘はいけないよ。嘘つきは泥棒の始まりだぞ」

振り向かないまま、ゆっくりと階段を上り始める足取りは、不自然なほど軽い。

「噛みつかれなかったかい?」

足元の光量の小さい照明で照らされた優しい笑顔に嘘偽りは感じない。痛いほどの悲しみが込み上げてくる。

「沢山の事を教えてもらいました」

「ここだ。ここが最後の望みだった。既に失われたも同然だが、君が居ればもしかしたら・・・。部屋はそのままにしてある、気が住むまで見ていくと良い」

 部屋の扉はオーダーメイドで、造り上げた職人の顔まで見えてくるような丁寧で重厚なつくりをしていた。手を乗せただけで下がるノブをゆっくりと押して中に入る。

良く整頓された難しい本の並ぶ本棚、真莉愛の趣味とは到底思えない丈夫そうなベッドと机そして、椅子。部屋の隅には、使い古されて、それでいてピカピカに手入れされた電子ピアノが毛布のような柔らかそうな布を掛けられ、世界一の主を待っていた。

 机の上の透明な厚ガラスでこしらえられたペン立ての中には、ギリギリまでインクが使われた色のペンや鉛筆が刺さっていた。机の上に置かれた、ハートの栞の挟まった読みかけの本は、数週間前まで僕の部屋にあったものだ。生きている。きっと真莉愛は生きている。そんな確信があった。

僕は、注意深く、急な脅かしにも耐える準備をして机に近づいた。

机の引き出しには鍵がかかっていた。

もう片方の引き出しの中には、厚い日記帳が広い収納スペースを持て余して身を置いていた。

僕は引き出しをそっと閉めた。

他人の日記を読むなんて何があってもしてはいけない。

しかし本当は、怖かった。僕はどうしようもなく臆病だった。


 窓辺に置いてある小さな植木鉢には、土が入っているだけで命の気配は感じない。

隣に置かれた小便小僧を模った如雨露には、汚い字で「きーたん」と書かれていた。

真莉愛は、字が下手だった。

 何の花なのか気になって真ん中を掘り返すと、先端が楕円型をした小さなカギが埋まっていた。部屋を汚さないように鉢植えの中で土を軽く払い、それから机の引き出しの鍵穴に当ててみたが鍵は入り口で引っ掛かり、入りすらしなかった。

前にも進まず、後ろにも戻らない、そんな状況に胸をなでおろす。


 鍵を元あった植木鉢に戻すと、異物感があった。検めると植物の種が埋められていた。ヒマワリの種だ。

 こんな小さな鉢で育てるつもりだったのか?無知にもほどがある。

湧き上がるのは届く事の無い愛おしさ。

 植木鉢の隣に置かれたずんぐりとした砂時計は、芽が出る時間を図るためのものかもしれない。

 その砂時計には、逆さまになった、青と緑の鮮やかな街が描かれ、括れた中心部には、虹色の光を放つ太陽が描かれていた。

下部は、黒灰色の細かい砂で埋め尽くされていた、

 僕は、淡い期待を込めて砂時計をひっくり返した。星のように煌めく細かい砂は音も無く鮮やかな街を埋め尽くしていく、つい先ほどまで砂に埋もれていた場所に何かが描かれている様子は、今のところ覗えない。僕は待った。

 青と緑の街を埋め尽くし虹色の虹彩を埋め尽くし、やがては太陽を埋め尽くし。砂が落ち切った上部には、銀色のハート型の物体だけが残った。それは、砂時計の括れに引っ掛かり、永遠に、絶対に、鮮やかな街へとたどりつくことなどできない。

 この小さな砂時計に、真莉愛のすべてが詰まっているような気がした。

こんなものの無い所に彼女を連れて行きたかった。それを望んでいたはずなのに、僕が情けないばかりに彼女は、結局どこにも行くことが出来なかった。


 ふらふらと、椅子に腰かける。この椅子は、決して軋んだりしない。

椅子に座るくらい、当然許されるはずだ、だがいったい誰に。


意味もなく机の隅の緑色の傘のランプを点灯させて消灯させて点灯させた。

電子が蛍光灯内を駆け巡る音は、なんだか落ち着く。外の雨の音や冬の遠雷もとても落ち着く。

 ランプの隣のバレリーナの人形が乗ったオルゴールは、初めて見るのにとても懐かしい。一見、古いもののようで埃一つ、汚れ一つ、ついていない。

その台座の横の飴色の装飾の中に、楕円型の穴を発見した。

恐る恐る、先程の鍵を差し込んでみると奥までぴったりと入った。

視力が、限界を超え強化される。鍵は、音も無く廻り、オルゴールの台座にほんの微かな遊びを発生させた。

 鍵をゆっくり引くと、それは小さな引き出しのノブのように機能した。

中には、カラー写真が一枚入っていた。

写真には、顔や体に乾いた血液を散々付けた状態で安らかに眠る僕と、黒い瞳の真莉愛が写っていた。あの日の写真だ。

写真の裏面には、『種をあなたに』とだけ書かれていた。

緑のランプの光の下で僕が思い出したのは、彼女と交わした熱い口づけだった。


 真莉愛は本当に、居なくなってしまったのかもしれない。でも、どこかにいると思いたい。しかし、本心では彼女はもう存在しない事を認めつつあった。決して信じたくはない、そして、もしそうであったとしても、僕は、卑しくも死にたくないと、心の底で思っていることに気が付いていた。


 窓も閉まっていて、扉も閉まった密閉された空間で感じる、左の背後の辺りにある。

違和感。

 丈夫そうなベッドが押し付けられた壁に張られたポスター。

このポスターには、渋滞する車で溢れた六叉路と怒り狂う搭乗者たちが描かれていて

渋滞の中心には、道の真ん中で気持ちよさそうに眠る大きな猫が描かれていた。

かつて、真莉愛が言っていた「猫の心」の事を思い出す。


そのポスターの右下の角が風も無いのにぺらぺらと揺れていた。


この部分の壁だけが、特別薄いのか?


何気なくポスターの隅を捲る。



穴だ。



目だ。



口だ。



舌だ。



なんだこの部屋は。



穴から覗く汚らしく荒れた口は不敵に笑った。

僕は怖くなって、急いで部屋を出た。どうなっている、確かにあの部屋には真莉愛の痕跡があった、あの、あの穴は一体なんだ?


 転がるように階段をかけ下ると美しいスタイルの、細い髪に上品なウェーブをかけた女性が立っていた。

「あっ・・・。こんばんは、真莉愛の母です。あの子が、ずいぶんご迷惑おかけしたみたいですね。昔から、少し変わり者で・・・。頭はいい子だったんですけどね・・・・」

 明かりもつけずに、両手に持たれたお盆には、高価そうな金や銀の装飾を施されたティーセットが乗っていた、この香りはダージリン。お茶菓子は、焼きたてのスコーン。

女性は、いまだに何かを一人でしゃべっている。僕がこの人の話を少しも聞かないからだ。

何故ならば、細かい皺の入った、白くてきれいな手の指にはめられていたのは間違いなく真莉愛に贈った指輪だった。


 人のよさそうな笑顔の、その白い歯だけがハイライトされて闇に浮かんで映像として脳に送り込まれてくる。

 雨の音だけが耳から入る。僕の体はその場から逃げるように勝手に動いた。真莉愛の母を名乗る人物の隅を抜けるように玄関に駆け寄った。

すると、廊下の闇の中から突如真莉愛の父が現れ僕の腕をつかんだ、細腕にしては力があって強い痛みを感じる。

「また、いつでも来なさい」


これが、最後のつもりで尋ねる。

「真莉愛は、本当に居ないのですか?」

真莉愛の父を名乗る人物は動揺した信徒をなだめる神父のように優しく。

「居るとも。確かに」

そうだとしたら、存在そのものが矛盾している。

「君の心の中に。また来なさい、これは少ないが娘が世話になったお礼だ。また必ずきておくれ」

違う、そんなんじゃない!!

僕は、高ぶる感情とは裏腹に、そのまま行儀よく家を出た。


 帰り道、知らないうちに雨はやんでいた。

見通しのいい真っ直ぐな道の向こうから、7~8人の男女が楽しそうにこちらに向かって歩いてくる。若くて、育ちのよさそうな清潔な服を着て世界で最も幸せなのは、自分たちだと疑わない自信に満ちた態度。

 汚い僕とすれ違う、それだけで僕はズタズタにされてしまう。

受けた傷をごまかすのに思い出の中の真莉愛を使った、僕はどこまでも卑劣だった。

知らず知らずのうちにキッチンの前まで来てしまっていた。

営業は再開されてから一度もここには来ていない、扉にはめ込まれた小さなガラス窓から、慌ただしい中の様子が透けて見える。奥さんもご主人も虫のように働いていた。


 やがて僕の元に連絡が届くかもしれない、彼らに提出した連絡先は僕の生家だったからだ。

 それにしても早すぎる、古いアパートの2階の狭い廊下の僕の部屋の前、足元にお盆程のカバンを置いた人物が丁度、部屋のベルを鳴らそうとしていた。

部屋の住民が僕であることを悟られないようにすぐその場を立ち去ろうとしたが、その人物は、すでに僕の顔を知っていて満ち足りた笑顔で嬉しそうに発声した。

「田牧さん?田牧瑞樹たまきみずきさんですね?!良かったぁいらっしゃらないかと思いましたよ」

トウモロコシの髭のような質感の髪を茶色に染めて刈り上げた、如何にも働き盛りと言った様子の脂ののった青年は、お世話になった部活動の先輩を社会人になってから初めて訪ねて来たかのように親し気に嬉しそうな様子で笑った。

何がおかしい?

「僕、あなたの叔父さんの使いの武市と言いますぅ。これをお渡して内容の説明をするように言われてます」

青年は、カバンの中の小難しい書類の束から光沢のある厚紙に挟まれた冊子を取り出し僕に手渡した。

「あなたの生命保険です。受取人は、あなたの叔父になってます」

叔父は、僕が死ぬことを期待しているのか?

「あなたが居ない間にいろいろあったみたいで、瑞樹さんのお住まいが確認されましたので後日正義さんもこちらにいらっしゃると思います。細かいお話は追々になると思いますが・・・瑞樹さん因みにですが直近のお休みの日ですとか、お時間が開く日などありましたら。僕の方から正義さんにお伝えしておきたいのですが・・・」

「叔父が来るのですか?ここに?」

青年は、屈託ない笑顔で笑った。

「はい。そうすると仰せつかっています」

「来週の、日曜日。一日中家にいることにします」

これは嘘だ。

「来週の日曜日ですね。ではそれで取り計らいますぅ。遅くにすみませんでした」

「はい」


叔父が来るから。もちろんそれもある。成功者である叔父の事を父は、恐れていた。

「あんなにまずい寿司じゃ客なんて来ない」

僕もまた、叔父を恐れていた。

しかし、決定的だったのは、部屋から真莉愛の香りがすっかり失せてしまっていることに気が付いてしまったからだった。


 エアーの抜けた安ベッドと僅かな手荷物をまとめて、次の日曜日が来る前に部屋を引き払った。行先は、誰にも言わず。ただ、南を目指す。

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