オラクル
金曜日の夜だった。本来ならばあり得ない。幸せそうな人達がそこら中にひしめき合って、無意識の刃で自分よりも恵まれていない人間を探し出して死なない程度に痛めつける。僕は決して彼等に見つからないように身を潜めて窓からそれを眺めていた。
これが、彼らの平和。
キッチンで起きた食中毒騒ぎの後、店はすぐに数日間の業務停止命令を受けた。
仕事は休みになり、その間給料も支払われる事も無い。
足で起こされる事も無く、真莉愛も部屋から姿を消していた。
僕は、昨日や一昨日そうしていたように。固い床の上で横になって過ごしていた。
朝になり、夕方になり、朝になり、また夕方になり、外の幸せに憂鬱がまじりあう頃に、静かに部屋の扉が開かれ、真莉愛が部屋にやってきた。そして、唐突に僕を自らの友人のところに連れて行くと言い出した。もうすでに約束をしてしまったから、と。当然、行く気などない。
すると真莉愛は軽度の障害を持つというその友人がとても悲しむかもしれないと僕を脅した。
誰の役にも立てない、しかし、せめて誰かを悲しませるような事をしたくなかった。
なので僕は渋々、真莉愛の要求に応えて出かけることにした。もし、この部屋に住み着く者が増えようものならば別の場所に引っ越してしまえばいいだけの事だ。少し前を歩く真莉愛の後姿を眺めてぼんやりとそんなことを考える。真莉愛の歩はゆっくりで、その姿は都会の湿った汚い空気や、無意識の刃の中であってもやはり可憐そのものだった。
さらに、今日の彼女は美しい衣装や化粧で着飾っていた。それはまるで武装のようであり、そのおかげで彼女の周りは平和そのものだった。誰もが彼女を一目見て、ひれ伏すか、憧れの目を向けているように感じたのはとんだ思い上がりだろう。
街灯と月明かりが薄暗く照らす住宅街の庭などを近道だと言って通り抜けて、電車に乗って、車窓から見える生活の暖かな光を眺めていると段々世間に対して無関心でいられなくなってくる。離れたところに座る若い男女。眉間にしわを寄せて、くたびれた新聞を覗き込む中年男性。先程からずっと真莉愛の姿を盗み見ている背の高い、スーツ姿の若いサラリーマン達、腕には高そうな時計がはめられ。髪型はいかにも遊びなれている。
新たな駅に到着する度、徐々に人影が減っていき、その事を見計らうかのように二人のサラリーマンは、真莉愛の方に体を向けて偉そうな話をして時折派手に笑いあった。
僕は、怖くて仕方がなかった。途中の駅で何度も降りて帰ってしまおうとも思った。
しかし、そうしなかったのは、真莉愛が泣いているように見えたからだった。そう錯覚させたのは、頬にうっすらと塗られた細かいきらめきを放つ化粧と、薄紅色に塗られた目元だった。
電車を降りて、4足の靴底で石畳を鳴らして街灯の明かりを目印にするように歩き続ける。
先ほどのサラリーマンは、声こそかけることは無かったが。わざわざ真莉愛の近くの扉まで大きな足音を立てて寄ってきて、自らの影で真莉愛を覆うようにしてから降りて行った。車内には、僕たちと不愉快な香水の匂いだけが残った。
人気のない公園を通り過ぎたあたりから街の明かりが目に見えて暗くなってくる。道沿いの民家は、何日もシャッターを空けていないかつての個人商店が数件ごとに点在していた。
いまは、人が住んでいる気配すら感じられない。靴屋、カメラ屋、食堂、床屋の赤と青と白の回転装置は斜めに傾いて内側まで土埃で汚れたいた。そして、そのどれもが色を失っていた。
放置された植木やそこから道路へと垂れ下がる蔦。ひび割れたコンクリート、消えかけてとぎれとぎれになった道路の白線。塗装の禿げたポスト。
低水準な雰囲気が妙に心地よい。人の視線や笑顔の無い静寂に包まれた平和。
袋小路を予感させる細道の先にある、大きく古い使われていない工場のような建物の駐車場のど真ん中を横切ると、建物の入り口が見えてくる。すっかり生け垣が伸びて、そこら中に影を作って、それらが人の影のように伸びていたが周りには誰もいなかった。
近づく事で異様さを増す建物の窓ガラスは殆ど破れて内側から木の板ようなものを打ち付けてあった。この建物が、上部に窓がある天井の高い建物なのか、それとも、地上複数階建ての建物なのかも分からない。ここから分かるのは、古く不便そうな印象を与える四角い外観と、屋上から下に向かって斜めに伸びて、途中で途切れている赤くさびた階段だけだった。
入り口の隣で、季節外れの薄着姿の男が、小さな椅子にうなだれるように座っていた。影の中から浮かび上がったその男は、筋骨隆々で露出された腕のほとんどの部分に丁寧な入れ墨がされていた。
「こんばんは、キング」
「そいつは?」
キングと呼ばれるこの男は、うなだれたままで答えた。その声には、威圧感こそないが危険な響きを宿している。
「ゲスト」
キングはうなだれたまま親指と人差し指を付けては離す動作を2回繰り返した。
すると、真莉愛がジャケットの内側からタバコケースを取り出し、その中から一本を指に、もう一本をキングの口にくわえさせ点火した。安物のライターの火は、下を向いたままの虚ろな瞳を掠めるように映し出された。
立ち上る細い煙が、男の目元に刻まれた皺の隙間を縫って空中に広がりゆっくりと悶えた。
ゆっくりと扉が開かれて中からは地響きのような音が聞こえてくる。
今まで、真莉愛の事をまともではないと疑い続けていた。それが確信に変わる。
だから、なんだというのだ。
僕たちは、煙をまといながら建物の中に体を滑り込ませた。
煙と、酒と、埃と、汗と、鉛筆削りと、微かな排せつ物の匂い、止まる事無い騒音とフィルターをかけた原色の嵐。完全に閉じられた空間にむせ返るほどの人間の気配。
広い室内を薄板で無理やり区切って作られた通路は狭く、大勢のろくでなし達がただでさえ狭い通路を更に狭めていた。通路の切れ目には、左右の大きさがまるであっていないスイングドアーが備え付けられていて、寡黙に前を行く真莉愛が音も無くそれを開けた。中の会議室程度の空間には重厚な装置やランプを搭載した四角い金属製の箱が所々に打ち捨てられていたが、それらは明らかにガラクタで本来の用途は既に失われて、テーブルや椅子や背もたれの代わりに使用されていた。壁や天井には、三角推の物体がびっしりと敷き詰められていて、その壁に埋もれるように幾人かが酔いつぶれていた。敷き詰められているものはスポンジのように柔らかいようだった。
入り口から向かって正面の奥には貨物船やトラックが運搬するような大きな箱がすっぽりと収められていてその奥は妙に暗がりになっていた。
そこら中に転がる空き瓶と共に楽しそうにタバコを吸い語り合う者たちは、年齢も性別も一貫性が無かったが会話の内容や振る舞いからまともで無い。という点に関しては誰もが一致しているように見えた。隅にある錆びた階段から上がれる2階ギャラリーは、1階の大体半分くらいの所まで覆ったところで急に途切れていて落下防止用の柵などは見当たらない。それどころか、ひしめき合う人々の動きに合わせて原色の照明を床の穴から1階に届けていた。僕は、息をする度に胸がざわついて、込み上げる吐き気に耐えていた。
突如、真莉愛が振り返りジャケットを僕に手渡した。それから真莉愛は拘束されていた細い髪を片手でほぐし部屋の奥のコンテナの上によじ登る。それを見計らったかのように、奥の暗がりからマイクが手渡されて、戸惑うことなく真莉愛は調律するように一声響かせた。
時の概念が崩れ去り、脳のスイッチを押されたように次の声を渇望する。
もっと響けと。
操られるように部屋中に散らばっていたゴミたちが顔を上げ次々と真莉愛の前に集結した。真莉愛はいつものように置物の姿になり、ゴミたちのざわめき、服の擦れる音、命の鼓動さえも、鳴りを潜めてしまうのを確信めいて待っていた。
束の間の静寂の後、突如夜明けのように始まる演奏は、緩やかな爆発に近かった。建物を下から持ち上げるような旋律が体の芯を静かに揺らした。心臓を無理やり握る手が、全身に血を送り出すような暴力的な音の連打。
やがて、何かに耐えきれなくなった人間たちが、建物が、縦に横にとぐらぐら揺れて、狂ったように騒ぎ出す。狂気の先には、虚ろな隙間から世界を眺めて、柄にもなく一生懸命に歌う真莉愛がいた。僕は、周りの雰囲気にもみくちゃにされ、目も耳も情報を集めることを放棄して頭だけがその場に浮遊しているような高揚感に浸っていた。
その場の誰もが、好き勝手に騒いで、暴れて、手を振り上げる。
ところが、ステージの上で歌う彼女は微塵も怯まない。それどころか、一層大きく赤い音色を響かせた。すべてが揺れているその場所で、僕は立っているだけで精いっぱいだった。
乱痴気騒ぎは留まることを知らない。そこら中から靴や帽子やゴミがステージ上の真莉愛に向けて情け容赦無く投げつけられる。ゴミたちは、真莉愛を黙らせようとしているわけでは決して無い。感情を正しく出力する術を持たないだけなのだ。そして、あの真莉愛も。
暴れて、騒いで、2階が壊れて、すぐ隣にゴミに紛れて酸っぱい匂いを纏った太った男が降ってくる、僕は少しも気にならない。男はすぐに立ち上がり狂ったように元気に騒ぎ出した。
僕の体は指一本も動かない。ただ一点のみを目に焼き付けるように全身の細胞を目にして真莉愛を見つめていた。
やがて、演奏に、歌声で悲しみの色が塗られていく。とてもとてもゆっくりと。
部屋いっぱいの不良品たちは、紙芝居に必死に食らいつく子供のように固唾をのんでそれを見守った。いつの間にか暗くなっていた照明が音も無く真莉愛を照らしだす。その姿はまるでガラクタの山に舞い降りた真っ赤な天使のようだった。
まるで、宇宙が生まれ落ちる直前のような静寂は、膨張し、増殖し、次の爆発が起きた時。僕は、意識を失った。
最後に確かに目に焼き付けたのは、頬の化粧でごまかされた涙だった。
自覚できるほど深く、熟睡したのはいつぶりだっただろうか、廃工場の一室はあの時の熱気を全て、打ち壊された窓から放出して、悪臭のカオスは朝のコンクリートの匂いに変わっていた。
身体の関節が妙に軋んだが何故だかそれがひどく心地が良かった。久しぶりに感じる健康的な空腹に突き動かされて立ち上がる。周りには誰もいない。
薄板で作られた板もスイングドアーも姿を消して、不自然に広くなった部屋を最短距離で後にした。
外は、腹が立つほど晴れていて、少し離れたプレハブ小屋の前で人の姿に戻った真莉愛と、キングと数名がバケツを囲んでタバコを吸っていた。これほど快晴が似合わない者たちはそうはいない。
キングの腕が真莉愛の腰に回されて真莉愛は抱き寄せられた。二人は見つめ合った。
僕は彼らを邪魔しないように、工場の裏手に回り、一人駅へと向かう事にした。
昨夜通った時の終末的な通りの印象は、あたりが明るくなったことでより一層その色を濃くしていた。
駅で手持ちの金がなくなっていた事に気が付く。当然だろう。
幸い、金以外のものはそのままだった。
その後、何とか頭を日常に戻そうと努めたが耳にも鼻の奥の方にも目の奥にも昨夜のすさまじい体験が染みついてしまっていて逃れられなかった。すっかり頭がおかしくなりそうだ。
あの時、一緒に靴を投げなかったせいだろうか。それとも最後まで見届けられなかったからなのか。あの幻を思い出してはいけない気がぼんやりとする。
どちらにせよ酷く腹が減っていた。
なぜ、あの時一声も上げられなかったのか、なぜ指一本上げる事さえできなかったのか思い出そうとするたびに同時に罪悪感が込み上げる。
部屋に戻ると僕は、すぐに食事の準備に取り掛かった。
意識をしないと熱気が蘇り手が止まる。包丁で指を切りそうになって何度もひやりとさせられて、これでは危ないと思い、普段よりも二回りも小さいナイフのような包丁に持ち替えたが、結局指を大きく切った。ドーム状に膨らむ艶のある赤。
昨日の出来事を思い出すことを阻む者はもう何もなかった。
あたまのなかで音楽が鳴りやまない。隣の部屋から聞こえてくる昼間のやけにテンションの高いテレビの声が生み出す空気の振動で、ふらふらになる。
立っているのもばかばかしい。今日はもう休むことにする。
暗くなってから真莉愛が部屋にやってくる、彼女は知らないうちに部屋の鍵まで複製していた。
真莉愛は静寂の中、当たり前のようにお湯を沸かして食事をとり。いつもの様にぺらぺらと本を読み始めた。
僕は、ベッドに横になりその様子をしっかりと監視していた。音楽が鳴りやまず、それを思い出せずに酷くもどかしい。
真莉愛は、姿こそ昨日と同じだったが今朝工場から出荷されて来た人形の様に小奇麗だった。
しかし、後ろに降ろした細長い髪の一部がわずかにべた付いていた。彼女はそれに気づいていない。ゆっくりと無限に動くオルゴールは、たまにぺらぺらとページを捲るだけだった。
僕は、瞬き一つせず辛抱強く待った。
窓側に向けられた足先が、沁み込んでくる夜の空気にさらされて冷たくなり始めた頃。
ふいに、思い出したように夜の鶯みたいな綺麗な声の鼻歌が聞こえてくる。
僕は、しばらくそれを聞いていた。
「ねぇ真莉愛」
手紙付きの風船を飛ばすみたいに淡い期待を込めて虚空に飛ばす。
「どうして君はそんなに優しいの?」
この質問では届かない気がした。
優しい人と呼ばれる人間を何人か見て来た。中学までの集団生活の中でそう言った評価を受けるのは大体男で、偽りに満ちていた。僕にとって無関心で冷たい彼女の、社会に対する態度は、誰よりも優しく見えていた。
僕は少しも身じろぎせず、瞬きもせずに返答を待った。
聞こえてなかったのか?
真莉愛はさっきから6ページも本を読み進めたが一言も発しなかった。あの鼻歌さえも。
僕は我慢をしない。
「君がその気になれば、きっと誰にも負けないじゃないか」
足の指先が火照ってむず痒く、今にでも靴下を脱いでしまいたい。
だが、そのまま物音すら立てず横になって真莉愛の頸椎の辺りを眺めながら待った。
「何が。言いたいの?」
「君とセックスしたいんだ」
「嫌よ」
「そう」
このまま夜が明けて、先の見えない暮らしがこれからずっと続くのだ。
束の間の暇も育ちのいい連中のように有効に活用する事も無く、ただ老いて行き。毎日のように若者に怯えながら
彼女は、僕が何らかの方法で救済されるのを待ってくれている。決して甘やかしたりはしない。それはでは、僕が堕落してしまうから。
僕は痛む身体を少し起こして真莉愛を見た。
かつて、彼女は言った。希望は私たちの中にあるのだと。
ベッドから1歩進んで、べた付いた後ろ髪を整え、ゆっくりと結った。ゆっくりと丁寧に仕上がりは聞かない。
真莉愛が読んでいる本をそっと閉じて取り上げテーブルに置いた。僕を見上げる他人のように冷たい瞳は、深い緑色をしている。
右の耳にそっと触れて、美しい爪のついた手を取った。
存在を、賭けるだけの価値が確かにあった。
「お願いだ」
水槽の鱧をそっと水揚げする時みたいに、穏やかにその手を掬い上げて。横たわる体上に誘導した。
暖房のリモコンに伸ばした手を真莉愛が制止した。そして、身に着けていたジャケットが抜け落ちて床に落ちる。
触れている部分はとても冷たい。氷のように冷えた床にじっと座っていたからだ。毎日毎日、そんなことになぜ気づけなかったのか。僕を見下ろす悲し気な緑色の瞳になぜ気が付けなかったのか。手首に刻まれた傷跡になぜ気づけなかったのか。
都合のいい思い込みをしていた、彼女は無敵であると。その事が今までどれだけ君を傷つけてしまったのだろう。
「真莉愛、ごめんよ」
冷たい手にもう片方の手を重ねて温める。
「僕は、きっと誰でもいいんだ。だから。もし君が嫌なら」
真莉愛が乗っている場所から健康的な重さがいきなり発生して、肉が腰骨が剥がれそうになる。
真莉愛は僕の手を振りほどき、両手を手前でクロスさせて紅いドレスを勢い良くはぎ取った。
都会のそれと似つかわしく無い、豪快で活き活きとした原始的な動作だった。
白く眩しい膝が露出し視線が釘付けになった。赤いドレスは、見た目よりも大きな彼女の頭部で一旦止まり、それがちょうど目隠しのようになっていた。
やがてそれは、頭上で紅い光輪のようになり乱暴に投げ捨てられた。
主を無くしたドレスは、ほぼすべての輝きを失っていた。
直視できない程若く引き締まった美しい体を恐る恐る視線で塗りつぶしていく。
スマートな腰回り、石鹸のように滑らかな肌、複雑な刺繍が施された灰色の下着は意外にも横に広く、向こう側が透けていた。舐るような僕の視線を見計らうように目が合う前に真莉愛はすらりと立ち上がりキッチンの方に行ってしまった。その様子は、どこかの王族のように高貴で自信に満ち溢れていた。
体を動かせないまま後姿を目で追う、後ろも当然塗りつぶさなければならない。
タバコが点火され、芳香が部屋の中にゆっくりと立ち込める。香りの乗って昨日の出来事を思い出した。耳をすませば隣人のテレビの音が聞こえてくる。
刹那、流しの下の収納が開かれて、真莉愛がこちらに戻ってきた。その手には、刃渡り24センチの包丁が握られていた。先程の位置に戻った真莉愛の手に持たれた鏡面仕上げの刃が眩しいほど光を反射した。
その刃は、ゆっくりと彼女の内腿を切り裂いて刃先は僕の腹に吸い込まれた。
僕の持つ包丁の中で一番高価な包丁だ。
「良く。切れるでしょ」
鱧を扱うように穏やかに、肩を上下させる真莉愛から包丁を取り上げ、ベッドと壁の隙間に考えうる最も安全な方法で収納した。
この包丁は、一度も使った事が無かったのに。
お互いの傷口からは、鮮烈な赤があふれ出していた。
指で触れて検めると幸いどちらの傷も見た目ほど深くない。
血で濡れた指先で、瑞々しい腰のくびれに触れ。そのまま胸の下まで赤く塗る。
彩られた体は、命を吹き込まれたように悩ましく悶えた。
やはり君には、赤が似合う。
その肌は、動物のように温かかった。
綿密に表情を観察し目に焼き付ける。その目は、何かが気になって焦点が定まらないように思えた。
そして、その限界はすぐに訪れ。再び、すらりと立ち上がった真莉愛は、ベッドにしっかり収納された包丁を引き抜き、元の流しの下の収納に戻し、人間みたいに上手に歩いて帰ってきて一安心したようにベッドのわきで落ち着いて、先程自分が刺した腹の傷の周りを短い音を立てて舐めた。
「僕、それ嫌なんだ」
「どうして?」
「ふざけているみたいで嫌なんだ。すごく」
「嫌ヨ嫌ヨも好キのうちって言うでしょ?」
「なら。本当に嫌な時は、どうすれば。いいの?」
「それは暴力しかないわね」
緑の瞳は星よりも美しい。
宝石よりも、一月の雪よりも。ずっとずっときれいだ。
「やっぱり、そうなのかな?」
「・・・・。そうよ」
「ねえ。真莉愛。さっきの事なんだけど」
「気にしないわよ。私だってあそこの奴らと寝てるもの」
「本当かい?」
体の芯で歓喜が巻き起こる。真莉愛は、柔らかい唇を弾くように放して言った。
「皆とヤッたわ」
つまりそれは、普通の事なのだ。誰もがひたむきに必死に、その為だけに日常のほとんどの労力を使って隠し通しているが実際は、薄壁や床板一枚を隔てた所ではそれこそが極々有り触れた情景なんだ。あの人や僕だけが特別なんじゃない。寧ろ、指を切ったら血が出たりするみたいに当然の事なんだ。
喉の奥で小さく喘いだ声が一度だけ部屋に響いた。真莉愛がぬるりと上がってきて唇に唇で触れて舌で舌を掘り返して絡ませた。食材の牛タンとは似ても似つかない、小さくてかわいらしい舌は熱く、血の味がする。
引き締まった重みのある腰をそっと抱き寄せて、身に着けた武装をひとつづつ解除する。
こんなものは、今の僕達には必要ない。結った髪も一緒にほどいてしまう。
身体の奥がざわついて、胸がときめく。もう一度腰を抱き寄せると徐々に重量感が伝わってくる。僕は嬉しくてたまらない。膝から腋腹まで、傷口も容赦なく撫で上げる。
張りのある、若い肌。撫で上げるたび頭はだんだん反り返る。惑星を透過し、その向こうの星空まで覗き込むエメラルドの瞳。
君はとても美しい。
画用紙に出鱈目に絵具を塗りたくった絵のような感情を僕は言葉で伝えることができない。
しだいに、膨れ上がる感情は暴力に近く、真莉愛はそれを、いなすことなく受けた。
理不尽な責め苦に苛まれながら、彼女は、弱音一つ上げず口を堅く結びそれに耐えていた。
あの時のステージの上での彼女の姿と重なった。あの時は何もできなかったのだ。僕はこんな方法でしか君に伝えることができない。
滑らかに良く曲がる関節を限界まで曲げる、本当によく曲がる。
左手で握られた指は、羨ましくなるほど細い。このまま、折ってやろう。
そう思ったが、彼女の細指からは想像もできないほどの力で握り返され、望む時に、望む場所に正確に加えられる力に恐怖し、叉、歓喜した。そして、やがてどちらの指かも分からなくなっていた。
お互いの容器に、水を注ぎ合う。そんな儀式のような行いはやがてどちらも一滴で溢れてしまうところにまで到達する。
それを伝えるかのように一瞬、アイコンタクトを交わした。
先に仕掛けたのは、真莉愛だった。
彼女は、空いている手で口元を隠して目をつむって横を向いた。長い睫毛とその周りの涙の煌めきが強調される。
そして、喉の奥で一度だけ小さく喘いだ。
僕の動きは反射に近く、腰に回した手で背中まで撫で上げ、それから爪を立てて固定した。
真莉愛は、僕の中で風船みたいに2度3度破裂しそうなくらい膨らんでやがて、固く握られた手以外もどちらの物なのか境界が曖昧になっていった。
身体を、虫が這っている。
「・・・・・・・!」
まただ、ゴキブリかも知れない。
「・・・・・・・!・・ょ・・・」
起きたくない。
「・・・・ぁー!・・う・・しょ」
あんなに素晴らしい瞬間を汚したくない。
「うんしょうんよ」
また虫だ。
「わぁあああああ」
意識が、捻じれながら鮮明になっていく。
白目になりたがる眼球を必死で制御して目を開くと、真莉愛が僕の尻の隣あたりで千切れたタバコを小さな人形のようにして弄んでいた。
「うんしょうんしょ」
タバコは、僕の骨盤の側面あたりから下腹部にかけて這うように上って来る。
これの、せいだったか。
「わあああああああ」
「何やってるの?」
真莉愛は化粧を落としていつもよりもシンプルな顔をしていた、深い緑色の瞳も黒色に変わり、僕が塗りつけた血液は綺麗に拭き取られて内腿の切り傷には、包帯のようなものが巻かれていた。
「うんしょうんしょ」
千切れたタバコの大部分は、ベッドのどこかに散らばってしまった事だろう。そしてその散らばったタバコ屑が自然に消滅することは決してない。
そんな心配をよそに真莉愛は続ける。
「『こんにちは、僕はタバコ君。自分の銘柄が思い出せないんだー。南と北どちらかに行けば思い出せる気がするけど。どっちに行こうかなぁ』タバコ君は、先ずは南にいってみる事にしました。」
主演千切れたタバコによる人形劇。物語の舞台は僕。僕は何時ぶりか優しい気持ちになって顛末を見守った。
「『うぅん。ここはとっても暗いなぁ。ここはどこだろう?』タバコ君は、手さぐりで前に進みましたがこれでは何が何だかわかりません。『暗いよぉここはどこ?』」
タバコは乳首の周りを執拗に周回し、気が住むと結局へその辺りまで戻っていった。シャツの中に侵入したことによって、タバコは先ほどよりもさらに短く体長を削り落としていた。
「今度は北へ向かおうとした時です、タバコ君はおヘソにはまったライター君に出会いました」
鮮やかな紫色のライターがヘソに捻じ込まれる。
いてて。
「ライター君は、模様のせいで捨てられてしまったのでした。」
ライターは、ヘソに丁度良くはまり込み、固定され、しっかりと自立した。
歓喜が共鳴して、静かに風に乗った。
・・・風?
「ライター君が居ればあの暗闇も照らせるかもしれません。『ライター君!僕と一緒に来てくれない?』ライター君は言いました。『ここから出してくれたらいいよぉ!』タバコ君は友達が出来きて大喜びです。『うんしょうんしょ。わぁぬけた!』『ありがとうタバコ君、でもすごく言いにくいんだけど実は僕ガス切れなんだ・・・。捨てられた時に壊れれちゃったみたいで黙っていてごめんよ。ガスの切れたライターなんて役に立たないよね・・・?』すっかり落ち込んだライター君は、またおへそに戻ろうとしました。」
鮮やかな紫色のライターには、白いポップ調の太文字で「シャングリラ」と書かれている。
「『待ってよ!ライター君待って!』タバコ君は、慌ててライター君を引き止めました。『君が火をつけられなくても僕は少しも気にしないよ。さぁ、涙を拭いて僕のそばにおいで』『ありがとう・・・。タバコ君』『一緒に行こ。まずは、あのちんげみたいな木が生えた森を目指そ?』二人はしばらく身を寄せあいそれから北へと向かいました。おしまい。」
束の間、ライターとタバコは、本来の姿に戻り。真莉愛はそれらをジャケットにそっとしまった。
「ねぇ、きーたん」
「なに?」
「マヴィたんって呼んで。お願い」
「どうしたの?マヴィたん」
「世界のどこかに。同じようにこうしてる人たちがいるのかな?」
「きっと、いてほしいと思うよ」
「きっといてほしいね」
「うん。ねぇマヴィたん」
「なに?」
「今日は、どうして窓を開けたの?」
「きーたんがシチューを作ったからよ」
「お風呂の石鹸、いつも変えてくれてたね。トイレの紙も」
「そうよ」
「真莉愛、結婚しよう」
「・・・・なんですって・・・?・・・・なんですって!?・・・いや!嫌よ!!頭おかしいんじゃないの!?急に!!大体、大体!結婚式いくらかかるか分かっていってるの?それに、今のあなたの収入じゃ結婚したってずっとずっと貧乏じゃない!もし子供が出来たらどうするつもり?子供にもあなたと同じように貧しい惨めな思いさせる気なの?私にだって!なに?結婚指輪も用意してない癖に!嫌!絶対に嫌!!・・・いやよ」
僕は、服を着て、下駄箱の中に置いてあったポーチをもって外に出た。
外には人がたくさんいる、いつもは絶対近づかない商店街の真ん中くらいのところにつながる細い道。人影は無いが人の気配に満ちている。使い込まれた沢山の自転車、そこら中から聞こえるテレビの声、丸々と太った野良猫、季節外れの風鈴。
場所を知っていたのは、よく真莉愛から聞いたからだ。
もしも、キッチンがダメだったら、ここの近くのレストランで働こうと思っていた。
そこに、真莉愛のクラスメイト達が目的もなく集まっているらしい。そのレストランの向かいの宝石店。
水に浮かんだ西瓜は、水が多ければ多いほど良く浮かぶ、そして、決して溶けることは無いのだ。だが、押し込めば水に潜ることだってできる。
汚い格好だ、宝石店の中は足の裏まで照らすように明るい。
金の使い道など、よくわからなかったが、きっと今日の為にあったのだ。
幸いほかの客はいない、中年のベテランと言った雰囲気の店員に結婚指輪が欲しいのだ。と。必死に、今にも心臓が口から飛び出そうな様子で伝える。
店員さんは、とても落ち着いた様子で。親戚が訪ねて来た時のような自然な態度で窓側のテーブルに僕を誘導してお茶を入れてくれた。
邪険な態度をとられなかったことに心底安堵しながら、僕は慌ててそれを飲み干した。それどころではないのだ。窓の外の商店街の様子を確認し誰もこちらを気にしていないことを確かめる。その様子をベテラン店員さんは不思議そうに眺めて向かいの席に着いた。
そして僕が、再び騒ぎ出す前に僕に聞いた。
真莉愛の事を。
僕は、それは、もう、必死だった。彼女のすばらしさを。纏う空気、声の残響、魂の潔癖さ、山ほどの教養、深い優しさ。きちんと重みが有る事まで僅かでも間違えないように説明した。
沢山たくさん、数えきれない程、説明した。
一通り話し終えた後、僕はもう一杯お茶を飲んだ。
話の内容が参考になったかわからないが、店員さんは僕の前に綺麗な、本当に綺麗な、ケースに入った指輪を持ってきた。とても、シンプルな見た目で値段もタツミに取られた金よりもちょっと多いくらいだ。迷わず、購入する。その際、メッセージカードを作成するかどうかで聞かれたがそれは断った。それは、僕が真莉愛に伝えるべきだと思ったからだ。なんてことない、一つ頼みごとをするだけだ。
西瓜の浮力は強く、走らずにはいられない。
都会で暮らす人々の様子を観察せずにはいられない。
僕も、すぐにそちらに行くのだから。
どたどたと階段を駆け上がり、カギを開けて部屋に入りすぐに鍵をかけポーチをもとの場所に戻した。
部屋に、外のコンクリートの匂いが混じっている。
いつもの場所で、変わらず本を読む真莉愛。少し前、取り乱していたのがうそのように難しい本を読んでいた。
僕は、彼女の手を取り、ベッドの上の、窓から差し込む光の中に座らせる。細い足首をもってつま先をそろえ左に向けて真莉愛の手を取った。僕の手が暑すぎるのかもしれない。彼女の冷たい手を温めるように両手で包み、黒くて大きな夜のような瞳を見つめる。
「真莉愛。僕の願いは、一つだけ。結婚しよう」
そのまましばらく、一瞬だったかもしれない。真莉愛の手が温まり始めた頃。
「お馬鹿さん・・・。ふふ。ウフフ・・・」
真莉愛は、顔を真っ赤にして少し笑った。笑ったのだ。黒い瞳は、潤いを増して一層煌めいた。
「笑うの?君は?笑うのかい?」
「笑うわよ、嬉しければだれだって」
手の中身は、確認されることなく脱ぎ捨てられたドレスの小さなポケットにしまわれた。
幸せそうな真莉愛の横顔を眺めているとどうしようもなく痒くなる。
酷く恥ずかしくなって、逃げるようにバスルームに駆け込んだ、気が付かなかったが口の周りには昨日の血の跡が薄っすら残っているし、シャツの内側は、タバコの葉っぱで一杯だった。体中をよく洗う、自分の体を労わろうなどと思ったのは何時ぶりだろうか、そして今そう思うのは何故なのか。それを考えると求婚を断られるかもしれないという不安が沸々と湧いてくる。真莉愛の言う通り僕に経済的な長所は無い。結婚生活にお金は必要無いという人間もいるだろうが僕はそうは思わない。
金を無くしては、標準的な生活を送ることもむずかしい。その事は、世間の無自覚な敵意に曝される場合に、防衛手段を持たない事に直結する。直接的ではないだけで社会には人間たちによる見えない攻撃が溢れている。そしてそれは、度々個人に向けられ居場所を奪うのだ。そういったケースで純粋に頼りになるのが金の存在だ。
高価な品物や貴重品を身に着け一種の武装をすることで、他者からの攻撃をある程度抑止することが出来る。たとえ窮地に陥ったとしても、人混みを避け安全を保障された環境で悠々自適な生活を送るという選択肢を取る事も出来る。
女性に限らず、多くの時間を共有するパートナーになる相手に高いインカムを求めることは極々当たり前の事だ。
そう思うと猶更不安になってきて身体を拭く手も自然と早く雑になった。
バスルームを出ると部屋の空気はひんやり寒い。
ベッドの1歩前のいつもの位置に彼女は、座って本を読んでいた。
箱から出した陶器の置物のように動かない。
洗濯の為にベランダに出ようと思ったが妙に気になって、真莉愛の尻の下に薄い座布団2枚と枕を敷いた。
その時、真莉愛が本のページの真ん中に指輪を挟んでいたのに気づいたが、知らないふりをして暖房をつけた。
すぐに真莉愛が反応して、音を立てて本を閉じてテーブルに置いた。
それから、すぐそばに寄って来てゆるゆると僕からリモコンを取り上げて暖房のスイッチを切った。
「要らないわよエアコンなんて。毛布一枚あればいいんだから。失礼だと思わないの?」
化粧をしていない彼女は、どこか活きがいい。少しだけ挑発的だ。
「何の本を読んでいたの?」
僕は胸いっぱいの誇らしさで尋ねた。
「明日は、チャウダーがいいな。鱈と蛤の」
「今日は?」
「きーたんの事聞かせて」
それから僕らは一枚の毛布にくるまって語り合った。
毛布というのは信じがたいことに、包まっているだけで驚異的に温かい。あっという間に時間が過ぎ、途中互いに耐えがたい空腹や眠気を感じたが。僕たちはそのまま眠りに落ちるまで話を辞めなかった。
僕の話はつまらない、真莉愛の話もまた、つまらない。どこにいても居心地が悪くて息が苦しくて、逃げた先でもこれから逃げる先でも感情が痛まない場所は無いのだろうと。
お互いの心の中にしか楽園は存在しないのだろうと。
ぷにぷにと柔らかい彼女の頬に頬を摺り寄せながら、再び訪れる世界との対峙の時を思い恐怖した。
太陽と月が同居する夜になる前の夕方が、怖い。
生活感を纏った人々で溢れかえる駅や、スーパーが怖い。
薄暗闇で増長した図々しさは不快で、気持ちが悪いとも感じる。この感情の根幹は、同じように振舞う事の出来ない嫉妬と劣等感からだ。自らを無理やり肯定するために、それ以外を「気持ちの悪い物」と決めつける事で自らを防衛する。そうしなければ、あの適度にくたびれた背広や母親が握る小さな手や、初々しい若い男女の姿は効きすぎる。
僕は、ああしたいのに。出来ない。してしまえば、昨日までの僕や真莉愛を殺すことになるのだから。集団は常に個人に容赦がない。それに耐えられないのなら個を辞めて集団に属するほかない。しかし。
天国は、きっとある。
そして、アリコーンだってきっといる。
タバコとライターで戯れる者たちだって、きっと世界の何処かにいてほしいのだと思うのだから。
家に帰る真莉愛を見送った。
玄関まで、階段の踊り場まで、古いコンクリート製のアパートのセントラルポストまで。
それから、帰らないでくれと哀願した。
真莉愛は、月光で透き通りながら世界の終わりじゃないんだからと優しく笑って、何度か振り返りながら暖かな光が浮かび始める冷たい闇に消えていった。
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