黄金のアゲハ蝶。


 就活氷河期、少子高齢化、大気汚染。


そんな、とても大げさな事までも要因ではないかと疑いたくなるような状態だった。この数か月の間に僕は11の会社の面接に落ちた。その内7つは、不採用の連絡すらよこさなかった。着々と削れていく金。

 結局僕は、間借りしたアパートから数分の大通りから少し離れた小さな飲食店で雇ってもらう事になる。

 この業種が万年人員不足なのは知っていた。受ければ採用してもらえる確信もあった。その店は「キッチン」という名のカウンターと4人掛けのテーブル席が3つあるだけの小さな店で、今ではすっかり人気自営配信者になってしまったご子息の代わりになる労働力が欲しかったそうだ。

 無口なオーナーとひょうきん物の奥さんは哀れなほど、愛想良くする事が沁みついている。そんな店、キッチンに訪れる客は、どれもろくなものではなく。耳障りな来客のベルが営業時間外に鳴る度に僕を心底うんざりさせた。

 

 客たちのどれもが朝から晩までしつこく絡み、過去を探ろうとして。時にはカウンターを超えてわざわざ触れてくる酔っ払いや、愚痴とアルコールとニコチンの混じった息で偉そうに政治や若者について見えない誰かに意見する酔っ払いだった。そんな輩が十数種類いる。


鈴森真莉愛と出会ったのは、この頃だった。

 

 真莉愛は、浮浪のような生活を送る軽い精神疾患を抱えた女で、都合の良い物件を見かけては、それらを活用し生活してると以前自分から仄めかしていた。

そして、僕は、部屋に住み着いたこの女が何なのか未だに図り切れずにいた。真莉愛は週に数度、勝手に部屋を訪れては、陶器の置物のように狭い部屋で座って読書をして。僕がシャワーを浴び終える間に占領したベッドの上で寝た。


 寝具というものは、肉体の疲れをいやすもので精神を癒してくれる事は決してない。

そんな屁理屈を思い浮かべながら、いつも冷たく固い床で不満無く寝ていたが。実のところ、この哀れな女に同情していた。そしてそれはこの日も同じだった。


 

微かに漂う消毒のような臭い、闇の奥から地獄に戻る。


僕をいつも起こすのは、この臭いではなく頭を乱暴に小突く足だった。

他人に起こされるのはとてもいい気分ではない。しかしその足がこの哀れな女のものと思えば、それほど不満は感じない。

「時間。早く行きな?」

魚のように低く冷たい声。締め切られたカーテンの向こう側は、暖かい光に包まれている。地獄の底から光へと続く道は長く、険しい。

 今日も、体が痛む。いつもと同じようにそのままの格好で搾りだされるように部屋を出た。

 通勤や通学の怒涛のような慌ただしさが収まる。朝でもない、昼でもない、この時間が一番都合が良い、人と遭いたくないからだ。中年の男に特に多いのだが、僕ごときに向けられる威圧的な態度や雰囲気は、すれ違うまでの短い時間であったとしても僕を息苦しい気分にさせた。僕に何ができるのか推し量ることができないから、無駄な虚勢を張って委縮させようとしている。猫だってネズミや蟻に威嚇したりはしない。僭越ながら、あの人たちは知性に欠けると評価せざるを得ない。

 その点、鈴森真莉愛の知性の針は他と比べ完全に、振り切っていた。

彼女は、初めから僕がどれほど愚かで弱いのかを知っていた。


 

 彼女の目標は、世界を平和にすることだった。誰もが一度は思い描いては、感覚的に不可能だと悟り諦める事だ。それはむしろ当然の事で十人の人間がいれば十人の異なる平和がそれぞれ同時に存在し、百人の人間がいれば同様に百人の異なる平和がそれぞれ存在するのだから、一人の手に、ましてや、浮浪の小娘などの手に負えるわけがない。誰も、彼女を助けたりはしない、ただ都合よく利用するのみである。


にも拘らず真莉愛は、そんなどうしようもないことを本気でどうにかしようと悩み絶望し、時には、ひどく不安定になって激しく嘔吐した。真面目さや努力など、所詮報われはしないのだ。そんなものは、権力者が無知なものを体よく利用するための華麗な大ウソに過ぎない。

 僕の部屋は彼女にとって、嘔吐するためだけの部屋だ。家でも公園でも学校でもどこにでも人はいる。世界平和を望む者は反吐すら自由に出せないのだろう。

 時折部屋に来て、嘔吐して、ドストエフスキーの原本を読んで、また嘔吐して、哀れに思った僕の頭皮揉みの寵愛を受けて、明日になったら忘れてしまうような困難な虫食い問題のような話をする。その下らない話に対して僕は常に無関心だった。

 ここに帰ってきたとき、すでに部屋にいたとしても、ポストにねじ込まれた、チラシ程の存在感しかなく。あの世に魂が引かれているのか、酷く不安定になっている時であっても水槽の中の魚が暴れている程度の印象で、僕の感情を揺らすことは一度もない、この哀れな女は僕にとって得にも害にもならない存在だった。


 最近、毎日の境界があいまいで記憶の中の出来事がいつだったのか分からない。

あのカップルがキッチンに来たのは昨日だったか5日前だったか、常連の一人が珍しく酒を熱燗にして飲んだのは今日だったか、また別の常連が開店から閉店までお通しだけの注文で酒を飲んだのは3日前だったか。明日が定休日で本当に良かった。意識の裏の限界が近づく頃、いつもきまって都合よく定休日が訪れる。

まるで、僕の為にあらかじめ用意されていたかのように。


 


 鈴森真莉愛はそこにいた。関節が曲がらない、陶器の置物のような冷たい肌。

手にする本は、ページ以外が空間に固定されているだろう。消毒と微かに残る嘔吐物の匂い。

この部屋の小さなキッチンに備え付けられた換気扇は小さく、役に立たない癖に耳障りな音を立てている。

 僕は、狭い廊下に買い置きされた材料を物色して、一週間分の食事を重ねて用意する。メニューはカレーだ。

ここでは、それ以外は作らない。面倒だと感じる工程など何一つない。いつの間にか準備された材料の入った鍋の底を丹念に木べらでこする。僕がこうしていないとなべ底が焦げてしまう。途中、真莉愛が急に立ち上がって僕の後ろを音も無くすり抜けてトイレに向かった。彼女の存在が消えうせた部屋は、先ほどと何も変わらない。終末を待つだけの殺風景な部屋から手元の鍋に向き直る。味見の必要はない。

僕は、定位置に戻り読書を再開した真莉愛のすぐ後ろにあるベッドに腰かけて、テレビのチャンネルを操作する気分で見た目よりも重そうなその頭をゆるゆると揉んだ。

「今日は。どうだったの?」

「うん。また常連さんが来たよ」

「帽子?禿げ?それとも斜視?」

真莉愛は、細かい細工のされたオルゴールのような動きで本のページを捲った。

「ううん、熱燗の人」

「2週間ぶりね」

「お孫さんの所に行ってたみたい」

僕はだんだん飽きてきて、揉み方のパターンを僅かに変えた。

「それで?」

「少子化」

定休日の前日は、常連の暇な老人たちが入れ替わるように来店しては、この世の終わりが訪れるかのような悲観的な態度で、彼らの手には決して負えないような大きな問題について語るのだ。

もちろん、僕はその話を半分も覚えてはいない。いつも決まって覚えているのは、常に視界の数パーセントかを占有する酔っ払いに対する疎ましさと、この老人たちの予想通りに世の中がひっくり返る事への淡い期待だった。

「心配ないよ」

僕は指先にかかる圧力を少し抜いて尋ねた。

「どうして?」

「それは、私の化粧が薄くて。きーたんが料理が得意な事と同じ理由よ。だから、そんなことは心配しなくても平気」

「別に得意じゃないよ」

 子供が減って未来の働き手が少なくなって働く時間がどんどん増えて行ってしまう事と真莉愛の化粧や料理の事との関連をぼんやりと結びつけようとしたが。少し悩むうちにすっかり疑問の出発地点を見失い、思考の糸は、たちまち散り散りになってしまった。

「それと、北極の氷が解けてこの辺りはその内沈むかもしれないって」

「それは、大変」

オルゴールはまたしても精巧に動いて本のページをちょうど一枚捲った。

「スイカって知ってる?」

「野菜の?」

「そう」

「知ってるよ」

指先に少し強めに力を込める。

「じゃぁ、2+2は?」

「5」

「驚いた・・・」

「4」

「意外と博識ね。じゃぁスイカを氷水で冷やして、それからスイカが溶けたらどうなる?」

「西瓜は、溶けないよ」

「そう。じゃぁ大丈夫ね」

「どういう事?」

「目に見えてる物だけが全部じゃないのよ」

話すのは、いつもその日にあった出来事だけだった。真莉愛は、キッチンに訪れる多くの馴れ馴れしい客や、初対面の時から僕にろくでもない人間に対する態度を崩さないオーナーの奥さんらと違い。過去の出来事を意地でも聞き出そうとはしない。そして、自らの事を口にしない、真莉愛の態度から推し量るに彼女もまた、ろくでもない素性の持ち主であることは想像にたやすい。

「でも、そうね」

真莉愛はそう呟いて、本を1ページ進めた。

「希望は、私たちの中にあるのかも」

希望だの私の化粧だなんだの、僕にはロマンチストの戯言にしか聞こえない。

きっと彼女は、団体の中に属していてもいつもこうなのだろう、周りから気味悪がれ、そして誰からも相手にされはしないのだ。にも拘らず、正しいのは、常に自分で賢いのも自分だけだと思っている。そして何より最後に勝つのは自分だと確信しているものだから、何度も何度も席を譲り続けて自己満足に浸っている偽善者だ。思い上がりだ。その逆なのだ。僕たちの中には希望も何もありはしない。あるのは、先の見えない不安と。このままただ老いてゆくという事実だけだ。


と、自らの歪な軌跡を基にぶちまけてやりたくなる気持ちをすんでで抑えた。

今日は何かがおかしい。


 僕は、頭皮揉みにすっかり飽きて、前頭部の辺りの髪を弄ぶ。細長く豊かな髪にはタバコと消毒液の匂いが微かに残っていた。


「どう?」

段々と眠くなり始めて、手を止めるきっかけに彼女の豊かな髪を結う。

これで、部屋に抜け落ちる髪の毛が減るのなら大した手間とは言えない。

真莉愛は、読んでいた本から目を離すと、はだけたカーテンから覗く漆黒を見つめた。

「もう少し大人っぽく」

今度は、首の後ろ辺りでゆったりと結いなおす。

髪には、いつもより艶がある。

「どう?」

彼女は、再び読書を邪魔されたが。嫌なそぶりを見せることなく窓に映し出された自らの姿をちらりと確認した。

「まぁまぁね」

僕たちの間にはこれ以上の評価もこれ以下の評価も存在しなかった。

同じ労働には、毎回同じ価値しか存在しないのだ。

 もう寝る時間だ。明日、一日いる予定の場所に強引に体を滑り込ませ。剛性がまるで足りない薄い座布団を二つ折りにして後頭部に引いた。部屋の電気は消さないし、暖房も消さない、ベッドも、毛布も1セットしかない。そしてそれは、真莉愛が使う。

 安物のカーペットが引かれただけの床は、硬くて冷たいが、楽な仕事で疲労していない体には、それでも十分すぎると思っている。それに、明日は、一日中この場所にいるのだから尚の事だ。あと、5センチでも前に移動してくれれば、お互い窮屈な思いをせずに済むというのに。微睡みながら、そんなことを考えた。

「あなた、ちんこ付いてるの?」

あの鬱陶しい子供と言い、なぜそんなことに興味を持つのか。バカバカしい。

僕はもう眠ってしまった事にして答えない。


ぺらりぺらりとページを捲る音が何度か聞こえて意識が闇の奥へと消えていく。

「私ね。今日誕生日なの」


口に出して直ぐに後悔する。それは紛れもない、個人に対する質問だった。

「何日?」


彼女はすぐには答えない。あたかも本を読みなれていない小娘の様な下手くそな演技で、年季の入ったページをぺらぺら鳴らした。そうして、無言のメッセージを一言二言虚空に飛ばし、漸くページを捲った。

「1月12日」

年が明けて、正月の話題から次第に天気や日常の孤独でつまらない話題に切り替わる頃。それが1月12日。良く知っている。その日は、僕の誕生日でもあった。しかしその事は、黙っていた。後から言えば真似をしたようで話を合わせたようで何より、思いのままにコントロールされている気がしたからだ。しかし、心臓の鼓動を感じてしまった。僕を動かすのはいつも突発的な偶然のエネルギー、そのたびにいつもいつも後悔してきたというのに。

「きーたんは?」

日めくりカレンダーを出鱈目に言い当てるような365分の1の奇跡その一致。脳裏に浮かぶのは、神経締めをされた鮃の姿だった。

「それと・・・私ね」

今度は、なんだというのだ。無言のまま寝返りで答える。

「カレー嫌いなの」


思わず、ベッドと真莉愛との隙間を擦らせて上体を持ち上げる。

 

なんだと?


何年、少なくとも2年以上黙っていたというのか。なぜ黙っていた、なぜ今日告白した、なぜこれから寝るというのにそんなことを言った。なぜだ?

「何が嫌なの?」

「カレーって、カレーの味しかしないんだもの」

当たり前だろう。何を言っている。まさか、素材本来の味だの化学調味料に頼らない自然のうまみや材料それぞれの特徴を生かした調和こそ料理の本懐でありそこにこそ真の味が有るとでも言うのか?美味いものは美味いそれは、長年多くの人間に食され続けている実績が証明している。アウトローを気取るのも結構だがそれが味覚にまで及ぶとなると漸く部屋から追い出さなければならなくなる。

 真莉愛は、依然として本から目を離さない。いつもと同じように僕に少しも関心を持っていない。ばかばかしい。だから何だというのか、別に彼女の為に作ったわけでもないのだから、今更嫌いだというのならそれはそれで一向に構わない、嫌いならば食べなければいいだけの事だ。

理が輪になって繋がると、水に墨を垂らした様なぐったりとした疲労が体全体に回ってくる。

ぐるりと廻りかけた目玉を落ち着かせ真莉愛に背を向け、ベッドの方を向いて横になる。

「おやすみ」


「・・・・・お休みなさい」

僕はそれから一瞬で闇の奥へと落ちて行った。

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