おじいちゃんさようなら。
ひたむきに、弱音など。その言葉の意味すら知らないように、列車は前に進んでいく。
一番初めの駅のホームに立ってから、頭の考える機能をどこかに忘れてきてしまったみたいに、これから先の事を考えては不安になって、その事ばかりを何度も繰り返している。
そして、たまに明日の朝から5時に起きなくていいだとか、ラントに殴られなくていいだとか、魚やエビを殺さなくていい、だとかいう。クソみたいに小さな幸せで出鱈目に繕って、1分もたたないうちに嫌になって、僅かに齎された安寧を、皮をはぐみたいに破り捨てていた。
やがて、空気が変わった事に気が付いた。
僕の故郷は、旅館があった山の中よりもずっと寒い。
音もなく走る、新幹線の窓から見える空は広大で、どんよりと大きな雲に覆われていたが、その隙間から覗く空は信じられないほど青かった。涙が、溢れる。いったい誰に、帰ったことを報告すればいいのか。それさえ、解らない。
駅では、どこから聞きつけたのか知らないが叔父が待っていた。
少し後退した額に海苔のように若作りされた頭髪、ゴルフかなんかで日焼けした浅黒い肌。そして、すぐ脇には、ピカピカの高級そうな車が止められていた。
「乗れ」
手荷物を抱えたまま、車に乗り込む。扉を閉めて確信する高級感。
機械が何かをしゃべると車は音も無く発進した。
この人は、社会的地位も高く、自らの子供たちも立派に育て上げた人物だ。
そう思うと、口を利くのもおこがましい。
信号機の必要性を疑問に思う閑静な町中を抜けて、知らないうちに歩道が石畳に改修された橋を渡り、人影まばらな商業区画を抜ける。愚かさを装った気を使った質問には、ただ一言ステーキとだけ答えた。
叔父の家でも、店の跡地でも僕の生家でもないところに僕は降ろされた。
うすら笑いを浮かべる叔父は、僕を馬鹿にしているようだ。
「明日、知り合いの旅館の親方に会いに行くから。朝10時に迎えに行く。いいな?」
そう言い残して叔父は、夕方の帰宅中の車が増え始めた県道に滑稽なほど高級そうな車で合流していった。
体中から、汗が噴き出る。決して暑いわけではない。にも拘らず、理不尽な体力テストの後のように息が上がり、心臓が鞭で打撃を受けているように鋭く伸縮した。
叔父の言葉は、恐怖を想起させるには十分すぎた。行く気など無くていい。そもそも約束などしていないし頼んだ覚えもない。金が尽きるまでは、家に閉じこもり。それから先は、それから先は。
家で、出迎えてくれたのは、妹の桜だった。
高校生になったはずの妹は、少しも成長していないように見えた。
その足元には、50センチくらいの子供がおぼつかない足取りで付いて回っている。
「お兄、お帰りー。仕事辞めたんだって?じゃぁ、ニートであたし以下だね」
ちっとも変っていない恐怖を知らない不快な笑顔だ、見たくもない。
「僕の部屋は?」
「物置になってるけど、布団ひくくらいならできるんじゃない?それとこの子見てー!お姉ちゃんの子供の亮くん!可愛くない?」
「部屋、入らないでね。叔父さん来たら居ないって言っといて」
「お兄ちゃんまだおじさん嫌いなのぉ?ウケる」
妹が子供の頭に手を乗せ撫でた。ビー玉のような瞳は先ほどからずっと僕を監視していた。
「ねぇ、じいちゃんとばあちゃんも会いたがってると思うよ?あとのりちゃん達も。そそ、のりちゃん結婚したんだよ!?」
「黙って」
「ええ?うん。晩御飯何か作ってよ。昔みたいに。カレーがいいな」
此方は、きっと平和だったのだ。そうに違いない、父と母がいないだけで。のんびりとした日々が続いて、僕は退屈という譜面に落ちた汚らしい塵芥に過ぎない。
だから、そのまま平和に暮らしていればいい。互いに干渉せず勝手に、そうしていればいい。暫く、部屋にこもって放蕩するのもいいだろう。とにかく今は、自分の事を聞かれることを極力避けて居たい。
疲労困憊のはずなのに、少しも眠ることができない。扉の向こうで隙あらばこの部屋に侵入を試みる邪魔もののおかげでだ。
子供というものは暇で時間を持て余している。鍵の無いこの部屋は、扉を抑えていないとすぐに存在を許してしまうはずだ。
やがて、夜になり。姉が車で帰宅すると邪魔者は一目散に姉の元へ走り去っていったようだ。頭の中は、明日の叔父の訪問をどう躱すか、その事で一杯だった。あの、閉塞的な、油と魚の混ざった陰湿な場所に戻るなど考えたくもない。狭い部屋を音もたてずにのたうち回り、何か良いアイデアが浮かぶことを期待したが。明日の事を考えただけですぐに馬鹿らしくなって、冷えた足を温める方法を思案していた時だった。
足音が、近づいてくる。どうか、別の用事であってくれと思ったが足音はやはり、部屋の前で立ち止まった。
「子供寝たから、あんた風呂入っていいよ」
姉の声だった、懐かしさなど微塵も感じない顔も見たくもない。むしろ、見せたく無い。
足音が遠ざかり、遠くで扉の閉まる音を聞くと。僕は音も無く部屋を抜け出して真っ暗な廊下を影のようにすべり、風呂に向かった。
給湯器の電源を切られた風呂は、長時間浸かっていないと温まらない。
「みーちゃん」
痰と鼻水が絡みついたような子供が風呂の扉のすぐ向こうで僕を呼んだ。
すりガラスには、肌色が透けている。いったい何を考えている、気がふれているのではないか?そこに、妹の声が続く。
「亮ねぇ、ゲロ吐いちゃったんだって。風呂入れてくんない?」
了承も待たずに、亮が風呂場にペタペタと入ってくる。
何を考えている今すぐ消えろ。
「ちんちん、みせて」
僕は目を丸くして湯船に半分つかりながらその様子を見ていた。認めたくはなかったが認めざるを得ない、この小さな子供に自分を破滅させるだけの脅威を感じている。
脅威は、風呂から上がっても消え失せることなく、禿鷲のように離れない。弱り切って、僕があとどれだけ耐えられるのかを試している。その答えを待つ必要はない、親方やラントにされたように脅かして、追い出せばいい。そうすれば、永遠に追い払えるに違いない。かつての僕のように。
亮の頭頂部あたりをにらむ。子供は、僕の膝のあたりの隙間に目の辺りを擦り付けていた。
「みーちゃんのおへやさむい、ね。ぼくのおへやにしていぃい?」
僕は。
こんな子供にさえ。
そのまま、朝の5時に半分起きて、従事に必要なものと持ち帰った荷物を持って家を出た。
外は、顔面が引きつるほど寒く、太陽は山に遮られてまだ現れずにいた。
駅まで遠回りになると知りながらも、足は畑のある方へと向かった。
用水路に沿って、田んぼ二つ分離れた所にある桃畑の隣がうちの畑だ。
畑では祖父が鍬をサクサクさせて土を耕していた。前よりも大分しおれた祖父は、僕に気が付くと鍬を止めてその柄の先に両手を乗せて足元の土を少し均した。
「瑞樹君や。大変だったな」
力強い笑顔と話し方は少しも変わっていない。
「こっちは?」
「ううん、まぁいろいろな。あったぁな」
祖父は、あたりを囲む山の一つの頂上の方を見た。今の時期は、あの山の頂上あたりから朝日が昇るためだ。
「そう」
祖父の姿を見て、ここでの目的は、すべて果たせたような気がした。それに、お互い暫く黙って話したい事も特別無い。長居する理由が出来てしまう前に僕は歩き出す。
畑のそばの土には霜が降りていた。
「なぁ、瑞樹君。君はどこに行く?」
ゆっくりと、祖父の背後の山から日が昇って何本も深い横皺の入った禿げ頭を朝日が照らし、その脇に残った白くて細かい毛を、冷たい風がふっと揺らした。
駅。とだけ伝えて歩き出す。
「そうか、気をつけてな」
サクサクと音がする。僕もあの場にいられたら、どれだけいいだろう。
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