濡れた紫陽花

昼食後、親方の様子が気になった。

生意気だ。と、自ら思いもしたものの、僕を除いた調理場の人間が休憩に入った後に、僕はエレベーターの上の階のボタンを押した。

 総務部に特に用事などない、何か尋ねられたら郵便物の確認に来たとでも言っておけば問題ないだろう。これは、角田君がよくやっていることだ。

 僕がここで働き始めて、もう3年以上が経つ。実家から僕宛に便りが届いたことは一度もない。思い返してみれば電話さえ一度も掛けたこともなかった。掛けて、何を話せというのか。

急に、胸のあたりが寂しくなる。

 

 総務部に着くとやはり薄壁一枚隔てたところからくぐもった声が聞こえてくる。打ち合わせの最中のようだ。

 真面目な話に何故か落ち着いてほっとして、急に午後の準備の心配が押し寄せてきて。

いつ誰かに見られてもいいように住み込み従業員用の郵便物の束を弄ぶ。

 それらは、各種料金の支払い確認の通知や保険の案内などのちゃんとした便りが殆どだ。

すらすらとめくって下の方まで探してみる。もちろん、自分の物ではなく角田君あての郵便物だ。そして見つけた。

郵便物の束の下の方に僕宛の便りを見つけた。

まだ届いて間もないはずだ。なんだか嬉しくなって、便りを頂いていく旨を総務部の者たちに聞こえるように伝えたい気持ちが込み上げた。

しかし、そんなことをしている者など誰一人いない。

 なので、他のものと同じように、当然。と言った様子で僕宛の便りを体に着けるように持ってエレベーターを呼んだ。その頃になると親方のことなど既にどうでも良くなっていた。到着したエレベーターには、3婆の一人である和子さんが乗っていた。

 和子さんは、3婆の中では一番若くとりわけ良く仕事をこなすといった印象で、入ってきたばかりの仲居たちを熱心に『修正』している姿をよく見かける。

「ちょっとやだぁ。上で押さないでよぉ」

仲居は皆、声が、大きいのだ。

「す、すみません」

 このエレベーターは、どういうわけか4階での操作が最優先で実行されるようにできている。和子さんはきっと下の階に行きたかったのに僕がタイミング悪くボタンを操作したおかげで上の階に来てしまったのだろう。

「もぉう。瑞樹さん、何階?3階でいいの?」

和子さんは、僕が乗り込む前から扉を閉めるボタンと3階と1階のボタンを押していた。

「はい、お願いします」

4階から3階に降りるまでの僅かな時間。和子さんは、世話しなく上下に揺れていた。

「今日は、自分で取りに来たんだ?」

3階に到着し扉が開く。

「え?」

エレベーターから降りて、和子さんを見ると和子さんは着物の帯のあたりに手を当てて力強く笑っていた。

「よかったね」

「・・・はい」

 何故か、とても恥ずかしい。

急いでいるのならすぐに降りて行けばいいのに。

そんな僕の気持ちを見透かしたように、和子さんは大きく踏み出して僕のお尻を叩いた。

そして颯爽と、左右の扉の向こうに消えていった。

 

 意味の無いものだと知りながら湧き上がる、ときめきと懐かしさ。

こんな小さな封筒が僕に与えてくれるものは計り知れない。

寮の部屋に戻り、部屋の壁にぴったり付けた小さなテーブルの上で封筒を手で破いて開いた。鋏の類ももちろんある、しかし、中の物に僅かな傷もつけたくなかった。

接着された紙が不規則に破かれるのは見ていてとても不安になる。

完全に隅まで破かれた封筒の開封口から中を覗くと中には数枚の便箋が入っていた。それ以外には何もない、何もいらない。

便箋は、3つ折りにされていて少し汚れているように見えた。

中から明るい色の便箋を一枚取り出した。

綺麗で読みやすい、お母さんの字だ。


 瑞樹へ。

先日お母さんの一回忌がありました。

叔父さんに頼んで私と、桜で段取りをしました。

あなたのお陰で本当に嫌な思いをしました。

前もそうだったけど、電話一本の連絡もないということは、もうこっちに帰る気がないということでいいんですね?遺品整理の時にお母さんがあなたにあてた手紙を見つけました。手紙の内容は、自分勝手であなたにとって酷な内容でしたので、捨ててしまおうかと思いましたが。

あなたに贈ることにします。      桔梗



何の事を言っているのか。一回忌。遺品整理。父と間違えているのではないか?

そもそも、間違えているのは僕で、この手紙の差出人は姉だった。

封筒に押された消印は、つい最近のものだ。


とりあえず、休憩をしないと。

午後の仕事までに僅かでも休憩をしておかないと。

時計を見ると、アラームの7分前だった。

7分経ったら、また調理場に降りて行かないと。

7分ではろくに休めはしない。

だから。


封筒に残された便箋は、何年も放置されて忘れ去られていたような雰囲気を醸し出していた。とても嫌な予感がする。でもこれは、きっと母からの紛れもない便りに違いない。

少し、色褪せて汚れたように見える便箋を引き抜いて広げた。

微かに埃の匂いがする。


瑞樹、そちらの様子はどうですか?

お母さんはあなたが心配で仕方がありません。この前、親戚の集まりでお義姉さんが言っていました。うちは、もう老後の心配をしなくていいだけのたくわえをしてある。と。

お父さんが居なくなったお店は、どんどん古くなっていくというのに、直すだけのお金はありません。あのお店はもうダメです。なので近い内に手放すことにしました。

あなたの従兄の勝則くんは、消防士になりました。今では結婚して子供もいます。

弟の貴大くんは、医療機器の会社に就職するそうです。あなたは一体何をしていたんですか?桔梗は、必死に入れたあげた看護師の専門学校に入学早々、子供が出来て休学してしまいました。お義姉さんが羨ましいです。

あなたも、公務員になればよかったのに。





アラームの音で、意識が戻り。視界が鮮明になった。

やかましい時計をつかんでアラームを止める。しかし、それでは気が済まず。

電池を無理やり引っこ抜き投げ捨てた。電池は壁にぶつかってくるくる回って止まった。

何かがおかしい。

動力を失った時計は、休憩時間終了の15分前で止まっている。

誰かが、大声で泣き叫んでいる。あたりを見回して探すと、それはぴたりとやんでしまうのだ。

部屋に鍵をかけて、寮の階段を降りていく。

犬のおまわりさんを口遊みながら。


 ここに来てから、初めての感覚。これがやる気が無いと言う事だとわかるまで時間はかからなかった。

刺身のつまも、前菜の盛り付けも焼き物のソースの掛け方も皿の向きもどうでもいい。

盛り箸を持つ手が震えて皿に当たってガチガチ鳴って。不安そうに僕の顔を覗き込む奴ら。

たまらず。調理場から出た。

本来は、今日は非番なのだから当然許されるはずだ。

許されなければならないはずだ。さもなくば、許せない。


いつの間にか、仲居の集団が調理場の前に集まっていた。これは、毎日の恒例業務だ。

仲居たちは、調理場の人間たちに、自らが担当する宿泊客たちの留意事項を報告し、ホワイトボードに記入していく。

その集団の中に里美を見つけた。

 里美は周りに数名の若い仲居を引き連れて集団にとてもよく馴染んでいた。

仲居たちは、調理場の中に入っても親方のプレッシャーに負けて談笑を辞めたり変に真面目ぶったりしない。仕事を完ぺきにこなす彼女たちは、常に堂々として凛々しい。今の僕のありさまを目の当たりにしたら彼女たちはきっと嫌な思いをするだろう、その自覚があった。

 しかし今は、どうしても優しい言葉が欲しかった。

浮かび上がりそうな体を一歩また一歩と進めていく、さながら絞首台に向かう罪人の様に、半分死んでいるかの様に。死んでいるのは、きっと半分どころではないのだ。


「あの・・・里美さん?」

里美と周りの仲居が僕の方を見た。不覚にも他の者がいるというのに里美に近づきすぎてしまった。数名の仲居たち同様に里美の顔もひきつってしまっている。

「・・・・ぅん?どうしたの?」

 里美は、視界の隅で周りを見渡たした。里美はいつもと変わらない、清潔でいい匂いがしてきっと温かいはずだ。その筈なのに、何かがおかしい。

里美から感じる、そのほかの存在と同じ波長と余所行き用の声。

その態度は、店に客がいるときの両親の対応と重なった。

 怯えと威嚇、自らに損失を与える恐れのある存在に向けられる懐疑の眼差し。

見ず知らずの女性をお母さんとだと勘違いして抱き着いた、幼子に向けられる冷たい目。

間違えを、直感する。打開策は、まるで思いつかなかった。

「・・・・ごめん、私ボード描いてこないと、今度ね!」

里美はきっと変わらない、変わってしまったのは。僕の方に違いない。

 

治す方法を考えてみたが、どうにもずっとずっとずっと大声で泣き叫ぶ声がうるさくて、仕方がない。だから仲居たちの隙間を縫って。いつまでたっても男の子と同じパートを歌わされる音楽の授業みたいな気まずさで狭く柔らかく残酷になってしまった廊下を抜けて。トイレに逃げ込んだ。当然、尿意も便意もない出るのはへどだけだ。

 心の奥底で憐れまれたい欲求がどこからともなく湧いてきて、場当たり的な騒ぎを起こす計画を思いつく。血液がタールと溶岩を練ったものに変わってしまった気がするが手はトイレの水が温かく思えるほど冷えている。この冷えた手なら、刺身も寿司もきっとうまく作れるだろう。思考の尻尾の付け根のあたりに壁に頭をたたきつけたくなる衝動が付いてくる。それでも、何もすることができない。

完璧に冷静になって。

 鼻歌を歌いながらトイレから出ると出口の目の前にラントが立っていた。

眼は虚ろで僕の姿を確認するなり頬を平手打ちされた。

心からの予想外の出来事に遭遇した時、思考は完全に停止していた。

「どうしたんですか?」

僕との距離は過剰に近い。

「どぉしたじゃねぇだろ。お前、キレたわ」

「きれて、ませんけど」

距離の近いラントは、とても大きく派手に舌打ちをして僕の白衣の襟を両手でつかんで下方向に引っ張った。首が、熱い。

「ぉ前、ぶち殺すぞマジで?」

 何かかおかしいはずなのに、体を縛る恐怖だけはいつもと変わらない。

いつもと何かが違うとすれば、今日は、そのことがどうしようもなく悔しくてたまらない。

ラントはそのまま僕を振り回して、投げつけた。痛みは無いが、廊下と壁はすっかり冷えていて、背中と尻にじわじわ冷気が沁みてくる。

「お前よ?どうやって甘やかされたらそうなんの?親の顔を見てみたいですよ!わかります?!」


酷いと思う。


「おい、何やってんだよ?仕事中だぞ?」

レース直後の馬の用に必死な顔で駆け付けたのは三橋だった。

表情は怒りと呆れが入り交ざった、うんざりとした様子だ。

「あ。すみません、三橋さぁんこいつサボってんすよ」

 実際のところ、このラントという人間に失望しきっていた。だから、どんなことをされても仕方がないと思って来た。しかしながら、それは間違いで、豹変するラントの態度と、にやついた顔により一層失望してしまった。

「まぁ、どうでもいいけどさ。仕事中なんだから。ちゃんとやれよ」

三橋は冷静になって、いつもの落ち着いた語り口に成ってはいたが依然として薄い顔のわりに濃い眉毛を必死そうに釣り上げていた。


 3人で調理場に戻る、調理場の扉は分厚い木でできた自動ドア、重みで前後にガタガタ揺れながら開くのが特徴だ。この時間、この位置からの景色は見慣れない。初めてここに来た時の事を思い出す。猜疑心に満ちた瞳、親方の不機嫌そうな顔。

あの時がどうだったかは解らないが、今日の親方は不機嫌そうな顔の裏に怯えがあるように見えた。一体なにに怯えているのか。

「大丈夫なのかよ?」

ラッパの音色はいつもと変わらない。

「はい、ちょっと疲れてただけみたいです」

三橋は、相変わらず的外れな事を言う、僕は少しも疲れてなどいない。何もする気が起きないから休んでいただけだ。

「うす。さぼってたやつ連れ戻してきました」

なにを。大した事も、していないくせに偉そうに。

「ラントお前はもういいょ。瑞樹、ちょっとお前こっち来い」

怒号のように発音されるが、言葉尻は空気の抜けた風船みたいに決して破裂することは無く、情けなく萎むようだった。

「はい」

親方に、言いたいことがあるのだ。これでようやく。


親方の元へ歩き出した時だった。


背後から、ラントが僕の尻を蹴った。


身体に、信じられないほどの活力がみなぎる。僕はラントにつかみかかりそのまま食器棚に押し込んだ。ずっと、ずっとこうしたかった。暴力は、人に復讐するのは。気持ちいい。

何だか騒がしい気もするが聞こえない、心臓の弁がパカパカ開くたびにそこから暗くて冷たい快感があふれ出す。それとも熱が吸われているのか。

ともあれ、このまま殺してやろう。

鱧や、海老や、サザエや、アワビや、鮃と大して変わらない。

首をひねる最中にムトウがラントから僕を千切り取ってぶん投げた。

一瞬で、調理場の端の冷蔵庫の前まで吹っ飛んで、愉悦する。

「お前らいい加減にしろよ!仕事中だぞ!?」

体勢を立て直しながら、ラントがこちらに向かってくるのが見えた。手には刃渡り27センチの牛刀握られていた。ラントは僕の目の前まで来て立ち止まった。

目に迷いがある。それゆえに事の顛末を予見できるものは誰もいなかった。

僕は怖くて仕方がない、握られた牛刀の先の尖った所に目が釘付けになる。あの包丁は、最近研いでいないから良く切れないかもしれない、しかしそのことがかえって大きな痛みを齎すかもしれない。運が良ければ避けられるかも知れない。悪くても、頭を切り落とした魚みたいに暫くは動けるかもしれない。

そうしたら続きをしよう。

 

だが、救いの手は意外な所から差し伸べられた。

結婚し、男の子が生まれた普段は大人しい三橋が、ラントの前に立ち塞がり物凄い剣幕で静止を促しながらラントから包丁を取り上げた。三橋は、いつも疲れて真っ白い顔をして、失敗ばかりして。怒られてばかりでいつも最後まで仕事が終わらない癖に、僕を救ったのは、三橋だった。

残念さと、安堵、それから、三橋を嘲笑する感情が、氷水を頭から掛けたみたいに体を駆け巡る。僕はもう、ダメかもしれない。


勝手に立ち上がって、みんなの合間を縫ってエレベーターに乗り込んだ。

引き止められても構わずそうするつもりだったが、誰も引き留めるものはいなかったのは、面倒ごとが一つ減って有難い。

突き付ける手紙かナイフでも持ってくればよかったのに、狡猾な常務相手に僕は非武装だった。

 廊下をそのまま部署にしたような、窮屈な総務部の一番手前の個室に常務はいた。

僕の姿をとらえるなり常務は、数度尻を上げて座り直した。それは、迎撃態勢を整えたかのように見えた。この男の狡賢さは知っていた、そうでなくては。

「あの、常務お話があるんですけど」

 もう止めますと言えば済む話、どんな妨害を駆使しようとも立場のせいで加減さざるを得ないはずだから、何一つ心配なことなど無い。

「瑞樹君さ、君この前の年始の時に非常口の前で居眠りしてたでしょ?」


今年の冬はとてもとても寒かった。その時の記憶がよみがえる。

 

 年末年始の間は、市場が休業になるため大量の材料を備蓄しておく必要がある、さらに輪をかけて31日から4日まで毎日異なる献立になるため、その量は膨大で、倉庫に入りきらない材料は、調理場裏の客室廊下の非常階段の踊り場に保管していた。

僕は、毎年それらの材料の在庫を見る係で今年も例年通り在庫係を任された。

 しかし、今年の冬は一層冷え込みが激しく、短い時間でも外に出ていられなかった。

だから、効率が悪いと自覚しながら、数種類の在庫を見たら、屋内に戻り在庫を記入しまた確認しに出ては戻りを繰り返していた。

そんな非効率的なやり方を実行してしまったのは、恐らく去年までと違い精神的に余裕があったからだと思う。

 非常口は、旅館の景観を損なわないため隠し扉で隠されていて、その隙間の畳1畳にも満たないスペースに当時僕がどれだけ救われたかは言うまでもない。

 それから3往復程して、最後の在庫を記入するとき僕はうっかり座ってしまった。

隙間は、区画的には客室廊下と同じになっていたらしく、深夜だというのに暖房が効いていてとても暖かい。そして客室用の廊下の畳は、吸い付くように柔らかかった。膝を抱えると僕は一瞬で眠りに落ちてしまった。

 懐中電灯の明かりを顔に当てられて目覚めると、名前も知らない作務衣姿の年配の夜警が不審そうに顔を覗き込んでいた。僕は慌てて立ち上がると、言葉も交わさず逃げるように調理場に戻った。

調理場の中では、佑馬と三橋がいつもの様に談笑していた。

あの夜警は、存外お喋りだったようだ。

「まぁ、仕方ないよねぇ。仕事も遅くまで大変だし、この間だって調理場の子達ずっと親方に怒られてたでしょ。何かこうしてほしいとか、親方のこういうところが嫌だとか言ってくれれば俺の方から言ってあげるよ?」

卑怯者め、親方を追い込んでそうさせている張本人は自分だろうに。むしろ、滑稽だ。

「そういうのではないです」

椅子が、情けない音を立てる。

「じゃぁ、君さ、ラウンジやってみない?お客さんと直接やり取りできるしたまにはそういう違ったやりがいのある仕事やってみるのも良いんじゃない?」

貌と話しが、コロコロすり替わって不快極まりない。

「ラウンジは、お給料も少し上げられ・・・」


1息でもここの空気を吸っていたくない。そう思った。

「僕、もう辞めたいんです」

常務は目つきを険しくする演技をした。

「ねぇ、僕まだしゃべってるんだけど?部署は違うって言っても君の上司にあたるんだからさ。いきなり来て、僕辞めますって、はいそうですかどうぞどうぞって。あまりにも失礼だと思わない?常識ってあるでしょ?社会人なんだから常識のある行動取るのが当たり前だよね?で?何?どうしてだって?」

常務は、ワックスでてかった髪を撫で上げると、不快さを隠さず威圧的な態度で僕を見た。

「もう、辞めたいんです」

その先に。何があるのかを問われるのが怖くて仕方がない。

理由は、きっとたくさんあった。しかし、もし、その事で調理場の人たちが虐げられてしまうかも知れないと思うとこの人にそれを言う気には到底なれなかった。

「ふーん、ああそう」

常務はすっかり不貞腐れたように冷たい態度で小さな机の沢山の書類に向き直る、完全に僕から関心を失って。

「いっとっけど、急には無理だからね。一か月はやってもらうよ」

思っていたよりもずっと簡単に事が済んでしまい拍子抜けしてしまう。

こんなに簡単なら、もっと早くに言っておけばよかったかもしれない。

「それと・・・」

常務は、身をかがませて足元の書類入れから紙束のようなものを取り出して僕の前に雑に放り投げた。一目で、僕にあてられた手紙の類である事に気が付く。僕の心は、晴れやかだった。

「君が、ずっと取りに来ないから。保管しといた物、返しとくからねー」

 常務はすでに僕を見る事さえしなかった。僕は、紙束を手に取り無言で頭を下げ、狭い部屋を後にした。エレベーターを待つ間、総務部の面々に僕の悪行を言い聞かせるように罵倒する声が高々に聞こえた。


 調理場の人たちに、迷惑が掛からないといいのだけれど、無理かもしれない。その後の夕方の仕事は普通に出た。親方もラントも皆少しも変わらない。いつもと違うと言えば誰一人言葉を発しなかったことくらいだ。

 僕の口から直接言わなくても常務から聞くはずだから、親方には何も言わなかった。言えなかったと言った方が正しいかもしれない。

 いつもの下らない私語がないだけで、仕事は1時間も早く終わった。部屋に戻るのは2時間早い。

 冷たい布団に包まって止めておけば良いのに今日の出来事を振り返る。ラントに悪いことをしてしまった。一方的に感情的になって暴力をふるって、恥をかかせてしまった。

 この職場から消える僕と違いラントにはまだまだ先がある。今日の出来事は、どんなに記憶力がない人間でも早々簡単に忘れられはしないはずだ。現に、僕でさえ忘れられる気がまるでしない。あの、包丁の切っ先の黒くさびた所。血走ったラントの瞳。固く握られた汚い柄。思い出すだけで呼吸が苦しくなる。謝っておこうという気持ちが何処からともなく沸いてくる。彼らとの関わりも残り一月となると不思議と親近感がわいてきて。普段ならば考えられないような図々しい行動もできる気がする。僕が謝罪してラントと少しでも和解することが出来れば、あの恐怖を思い出す事がなくなるような気もしていた。

 階段を下る足取りは軽い、だが途中でこれから先の事を考えるとひどく憂鬱になって、不安になる。

 ラントの部屋は、少し扉が開いていて中の光が細く漏れていた。

何度も何度も引き返してしまおうと思いながら。そうしなかったのは、自分勝手な自己防衛意識からだ。

「ラントさん、こんばんは、少しお話が・・・」

この寮は古く、ドアをノックしただけでもほぼすべての部屋に聞こえてしまう。だから、朝彼らを起こす時も挨拶をして直接声をかける。今回も、同じようにした。

 部屋の中は、僕の部屋と大して変わりはしない。狭く、タバコの匂いの染みついた細長い部屋だ。違いと言えば、散らかったコンビニのごみ、畳に直接置かれた吸い殻で一杯の灰皿。脱ぎ捨てられた衣服。扉から正面の奥の方にラントが居てその上には里美が跨っていた。僕に気が付くと二人は、何が起きたのか理解できなかったのだろう。訳の解らない言葉を必死で口にしていたが少しも耳に入らない。

 僕は、まるで忘れ物を取りに戻るように素早くその場を立ち去った。

部屋に戻る途中の階段、降ってもいない雨の音がする。それも、土砂降りの。

 3階の洗面台で歯磨き用のコップで水を一杯飲むと体が内側から冷えてくる。

下の階が心なしか慌ただしい。喧騒が慟哭が、こちらに及ぶ前にそっと部屋に鍵をかけた。


 皮肉にも、求めていた安らぎがあった。終わりが見えているという事実は、この上ない精神安定剤だった。1か月誰からも相手にされず、言われたことだけ実行し。まるで切れない包丁で魚をおろして野菜を切って、シフト表通りに休みを取った。僕は、これらの行動が当然許されるはずだと確信している。

 ここを去る上で邪魔になるものは全て捨てた。その中に、生家からの手紙もあった。手元に、置いておく勇気がもとい、読む勇気がなかった。


 役割の移行は、佑馬と角田君によって滞りなくスムーズに行われるだろう。

事実、ここひと月の間、朝に誰も起こさなかった。角田君は、新しい仕事が増えてきっと喜んでいるに違いない。差し出がましくそんなことを考える。



季節がゆっくりと回転して冬が春に成ろうとしていた。


 今日、ここを去る。親方が必ずいるであろう時間に合わせて調理場に入る。普段着の僕は明らかに不純物だ。騒がしく、スムーズに流れる調理場を一歩一歩と突き進む。

角の椅子に親方の元へ行き簡単な、挨拶をした。

いつもよりも不機嫌そうで、隙あらば僕の言葉を遮るような膂力を見せていたが。無駄と悟った親方は目も合わせずに頷いた。


 調理場を出てすぐに親方の僕に対する罵倒が聞こえた。恩知らずだの。根性なしだの。馬鹿だの。無気力でやる気が無い奴だの。裏切者だの。そういった内容だ。

親方は、言いたいことを初めからずっと我慢していてくれたのだ。

 無責任にいなくなる僕と違い彼らには明日もあるし今日もある。僕一人が非難されることで団結が強まるのならせめてもの償いとして受け入れる事も出来る。

そのまま、ふわつく足で外に出た。総務部には、とても行く気にはなれなかった。


寮へ続く石階段を登り切ったところで里美と遭った。

あの光景が、鮮烈によみがえり。それを、何かの悲鳴がすぐにかき消した。

僕はこの人の本当の名前も知らない。

方向感覚が狂って、どこに行けばいいのかわからなくなる。

 知らぬ間に、里美はぼろぼろ泣いていた。こんな顔を見たことがないから、すっかり他人のような気になって通過する。

「ねぇ・・・!」

嗚咽交じりの獣の声。言葉が通じるとはとても思えない。

里美は、上下に小刻みに震えながら2度3度しゃっくりのように鼻をすすった。

「また・・・・」

僕は待った。

「また・・・・。デート、できるかな?」

 内心、犬のように喜んだ自分を棒かなんかで叩きのめし、言葉を交わしたい気持ちも触れたい欲求も必死で押し殺して駅に向かった。減る事の無い悲しみが増えていく。何かが僕の大切なものを端から八つ裂きにしていく。賢い奴だ。何もなければ悲しむ必要もない。

 駅までの坂道には、沢山の紫陽花が植えられているがこの花たちが美しく咲く姿を、もう見る事は出来ないだろう。僕は、あの花が好きなんだ。

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