落とし物

「あついあつい!あついヨ!いいか?!ちょっと、貸してみろ貸せって!」

親方は、僕から包丁を取り上げるとそのまま体を押しのけてマグロの切り身を正面にとらえた。

「この柵一本から17切れ取るんだよ!いいか?これだとあつすぎる。こんなんじゃせいぜい13~4しか取れねぇこれじゃぁ駄目だ」

ラッパのような号令が止み、親方の手と包丁がそして足と床が一体となる。

刃全体で切るように引かれた包丁は、早く、鋭い。柵から切り離された刺身は、とても自然で。初めからこの形だったと自ら主張しているようだ。

「残りを計算に入れれば大体このあつさだ」

親方は、包丁を改めながら切り身の前のスペースを空けた。

元の場所に戻り、親方が切った刺身のあつさを入念に確認した。

近くから見ることが重要だ、よく見えるし余計なものが映らない。近くから見ることがとても重要なんだ。

「遅い遅い遅い!遅いよ!とっとと切るんだよ!鮮度が落ちちゃうだろうが!」

親方は、先程よりも乱暴に僕を押しのけて一切れ二切れと次々に刺身を引いて行った。刺身たちの主張が。どんどんと増える。

多少の理不尽さなど気になどしない。

僕がここに立っていられるのは、親方と、仕事のできる角田君のおかげなのだから。

親方は、ピッタリ17切れの刺身を引いた後わずかに残った切れ端を勢いよく口に放り込んだ。

「ちょっと水っぺぇな」

昨日もその前も僕は見ているだけだった。でも、無意味だなんて思わない。

佑馬が夕食の一品を提供する代わりに少しだけ多めに魚の切り身を除けておいてくれているからだ。僕は、親方が帰った後この切り身をネタにして。余ったごはんでお寿司を握るのだ。するとどこからともなく調理場の人間たちが代わる代わる訪れて握ったそばから寿司を攫っていくものだから、このお寿司たちが僕の口に入ることは滅多にない。でも気にしない。

片付けをして手入れをして、すっかり空腹になって。塩を付けただけのおにぎりを齧って一日が静かに終わっていって。明日からまた花火みたいな一日が始まる。でもこんな毎日を望んでいけない。まだここは通過点に過ぎない、ずっと長くてつらい毎日が、今日の薄皮の向こうに永遠と横たわっているはずだから。

 火を落とした調理場は、だんだんと冷えてくる。この感覚に未だに慣れることができない。流行りの熱が覚めるような、何かにすっかり失望してしまうような。暖かいものが冷たくなるのは何時だって寂しい。

 電気を消すと不気味さすら感じてしまう。廊下からの明かりが届く範囲の向こうは暗闇で、その空間の所々に赤い光がぼやぼや浮かび、唸り声のような音が床や壁に跳ね返っていろいろな方向から聞こえてくる。

 赤い光は冷蔵庫の計器のランプで、唸り声はそのラジエーターが唸っているだけなのだが。いつもいつも、寒気と共に訪れるそれらを不気味に思わない日は一日として無い。

 調理場の鍵をかけてエレベーターで管理部に向かう。

 たかが1階、上に上がるだけだ。それでも人気のないバックヤードは、やはり不気味だ。この時間を除いて、このエレベーターに一人で乗る事は、滅多にない。いつだってこのエレベーターには誰かしら乗っているのだ、それ程までに旅館の仕事というのは忙しない。

扉が開く少しの間、宿泊客の耳に入らないように無理やり押し殺した怒鳴り声が聞こえた。


「これ以上は、無理です!こんな仕事ですから、日常生活が多少犠牲になるのは仕方ありませんけど、限度ってもんがありますよ!」

エッジの利いた声、親方だ。こんな時間まで一体何をしていたのか。

「ううーん。でもねぇ・・・。前にテツさんっていたよね?あんな出来る人、すんなり辞めさせちゃってさぁそのせいで手が足りなくなったとも言えるよね?」

「それは・・!それは関係ないと、思いますけど・・。現にお客様からのクレームだって最近じゃむしろ減ったくらいで・・・」

「減ってないよぉ」

あの情けない椅子のきしむ音がした。


「親方さ。インターネットの評価とか見てる?ひどいよ?うちの料理の評判。だから、いろいろ大変だと思うけど。それと、原価率の軒と滞在の献立とベジタリアン用の献立の新しいやつ。アレルギー対応の献立と子供用のディナープレートもそろそろ新しくしないといい加減古臭いよね?それから、寮に住んでる子達に節電するようよく言っといてよ。特に夏ね。嵐兎君だっけ?勝手にエアコン着けちゃったの?困るよ、電気だってただじゃないんだから。親方明日出勤?」

「はい」

「じゃぁ、献立は明日の昼でいいから。お疲れさまでした」

「はい。お疲れ様です」

僕はエレベーターを出てすぐ左にある鍵掛けに静かに鍵を帰し、急いで下に降りて寮に戻った。

3階の部屋に戻るまでの階段の踊り場の日窓からこっそり来た道を覗いてみる。しばらくするとがっくりと肩を落とした親方が出てきて、山をくりぬいただけの場所にある駐車場の方へと消えていった。僕が感じたことを親方はわからない。僕も、親方が感じたことをわからない。


今日は、風呂に入りたい気分ではなかった。


「ねぇねぇお母さん!これあげる!!」


「あら、ありがとう。ほぉら、さくちゃーん、似合いまちゅねぇ」


「ちがうよ・・・!。お母さんにあげたんだよ?さくちゃんにあげたんじゃないよ!」


「いいじゃなぁい。無くなるもんじゃないし。あなたは”お兄ちゃん”なんだから」


「嫌だよ。さくちゃんの為に作ったんじゃないもん。お母さんの為に作ったのに・・・」


「うるさいね!アナタは。ねちねちねちねち細かい事ばっかり気にして!!」


「・・・ごめんなさい」


「え?なに?!」


「・・・・ごめんなさい。・・・・・ごめんなさい」



外は雨だった。

寒いのに、まだ冬だというのにこの雨は雨だった。寮から、調理場に移動する僅かな距離。きっと濡れてしまうだろう。本来ならば今日は2連休の二日目、行かなくてもいいかもしれない。少し楽な仕事を選んでもいいかもしれない。だって本来なら休みなのだから。

暖かい布団の中で何度も寝返りをうちながら脳裏にちらついたのは昨夜の親方の姿だった。


 朝食をすべて出し終えた頃、親方はやってきた。いつもと変わらない、今日は雨が降っていて寒かった。だから、緑茶ではなくほうじ茶を入れる。着替えた服は肩のあたりが少し濡れているので出来るだけ暖房の風の当たるところに掛ける。タバコに火をつけて魚の水洗いに戻る。何も変わらない。鮃の神経締めも、いつもみたいに背骨が寒い。きっとこれでいいはずなのに。

「酷いよ?うちの料理の評判」

耳の裏にこびり付いて離れない。鯛も鰆も鮃も鰺もいつもの様に。

鯛は、鱗に特に気を付ける。鰆は、身割れさせないように出来るだけ触らない。

鮃と鰺は水洗いさえ綺麗に出来ていれば丁寧におろすだけ。いつもと何も変わらない。ただ僕は、心の何処かで聞きたがっている。今日は、知りたがっていた。

そんなどこか落ち着かない、そわそわとした、卒業式の朝のような。馴れ馴れしさが表に現れるたびにそのたびに、ひっくり返した。

「瑞樹。お前今日休みだろ」

親方の発声は、いつでも緊急事態だ。

「はい」

手を止めて、親方の咥えたタバコを見る。まだ長い。

「たまには休め。仕事してばっかだといい料理人に成れねぇぞ」

いきなり、足元に穴があってそこに落ちたような。ひんやりとした喜び。

「はい」

急いでそれをかき消した。

「武藤!おい武藤!」

ラッパのような声は、いつもと殆ど変わらない。

それなのに、音の最後にしぼんだ風船のような音が混じる気がするのは、気のせいかもしれない。

ムトウが、4個のガス台の火を止めて、こちらにのそのそ寄ってくる。

親方に呼ばれたのだからもっと早く来ればいいのに。

「ふぁい」

仕事中のムトウは、夏だろうが冬だろうが汗だくだ。拭くべきだ。

「今日は、俺の分の飯いらないから。俺が上がったら若い奴らから先に休憩入れてやれ」

「ふぁい」

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