かわいいアイツ
合宿が長引いたこともあり、今月の料理に携わったのは数日程度と言ったところだろう。
月の初めは、毎回慌ただしい思いをするのだが、月末の1週間ほど前ともなれば、誰もが見違えるほどスムーズに料理を完成させていく。
この流れをいつも妨げるのが親方の仕事の一つだったが、今月はすっかり静かになって。宿泊客の台帳と自らのノートを行ったり来たりして眉毛をへの字に曲げていた。
この人がいつもこうなら僕たちは毎日しっかり休憩を取れるのだ。でも、どうなる?
予定より復帰が遅れた僕をラントは執拗に責めた。手を止めてしまうと、仕事が遅れてしまうから作業をしながら聞いていると、突然ラントは激高し、盛り箸で手の甲を突き挿された。突き立てられた盛り箸は、しばらくそのまま手の甲で真っ直ぐ立ち続け。やがて、持ち手の重さに従って倒れ、手の甲から抜けた。
いよいよ、ここまでされるようになってしまった。つい、この暴力行為の執着地点を予想してしまい、体中から冷や汗が噴き出るのを感じた。
深々と穿たれた穴から血と痛みがじわじわと湧いてくる。まだ、手の甲でよかった。
ああ。血を止めないと、せっかくの甘味についてしまう。
「ミズキさん!だ!大丈夫ですか?ちょ。いま絆創膏もってきますね」
他人が慌てたり感情的になると、とても落ち着く。
「きったねぇな。血がつぃちゃった!ほら」
ラントは悪びれる様子もなく、やはり少し通常と異なったイントネーションで文句を言った後、転がった盛り箸を素早く手に取ると僕の白衣の腕の部分に挿していない方も一緒に擦り付けて自らの持ち場に戻っていった。
拭き痕には、血以外の汚れもべっとりと付いていた。
「大丈夫、ちょっと驚いただけだから」
今にも泣き出しそうな顔をするこの浅黒い肌の大きな澄んだ瞳を持つ青年は、僕がいない間に新たにこの調理場に加わった新人の角田君だった。
「俺もびっくりしましたよぉ」
角田君は、細かく左右に足踏みをしてひょろ長い体を揺らしながら僕の手を覗き込み、どうせ半日しか張り付いていられない絆創膏を実に正確に傷口に張り付けた。刺されたのが手でよかった。これが目や耳だったらと思うと寒気がする。
「ありがとう、角田君」
反対の手で絆創膏をさすると少し痛む。
僕と、タツミの欠員を埋めていただけあって角田君はこの職場にとって、とても頼りになる存在だった。
仕事量で言うとタツミの数倍の量の仕事をこなしたうえで既に包丁を扱うような仕事にもどん欲に取り組んでいて、初めて一緒に仕事をした日に、何の躊躇もなく目の前で刺身の妻を打ち始めたときは驚きのあまり全てを忘れてしまった。
後に佑馬に聞いた話によると、なんと角田君は初日から刺身を引こうとしてそれを見た親方は壊れたラジオの様になってしまったらしい。狼狽した親方の威厳を保つために差し出された仕事が刺身のつまを切る仕事だったという。
角田君は、本当に頼りになる。彼の打つ刺身の妻はまだまだ細さにムラがある。
しかしながら、それでも彼がこの仕事を任されていることに変わりはない。
今日は仕事終わりに角田君が部屋に遊びに来る予定になっている。
親方とムトウがすでに帰宅した調理場で三橋と佑馬と僕と角田君の4名が明日の仕込みと打ち合わせと、夕食を同時に行っていた。年齢の事を考えればラントもこのメンバーに加わらなければいけないような気もするが、ラントはいつもムトウの帰宅後、すぐに先輩である三橋の所に来て、やはりにやけながら軽く頭を下げて早々に寮に引き上げていってしまう。
この事について三橋は苦言を呈すようなことは殆どなかったが、ただ一度だけ。
それは、ラントが新しいポジションを任された時だった。三橋は、いつもと変わらない態度を見て。深いため息をつきながら
「ラント明日本当に大丈夫なのかよ?」と馬の様にいい声で呟いた。
三橋の心配は不幸にも的中し、次の日、ラントは15人分の蒸し物の調理に失敗し、そのポジションを1日で外されてしまった。
ラントは、仕事のやり直しを命じられる事も多かった。言われた通りのやり方よりももっと効率のいいやり方を自ら勝手に実行してしまうことが主な原因だった。
他の調理場の事は知らないがここでは効率のいいやり方は、雑な仕事と扱われ叱責の対象になる。やり直しを手伝うのは僕だった。礼を言われたことは一度もない。ラントは反省するどころか親方への不満をその都度口にした。僕は、その事がいつ親方の耳に入るか怯え乍ら自らの仕事を遅らせて、それを手伝った。
「ほんとに腹立つ!なんですかアイツあの言い方!俺の包丁も研いどけよ。ですって」
明日の休日を前に今夜の角田君は少し気性が荒かった。
一日の仕事を終え風呂に入り、こうして部屋で談笑する頃には、日付はすでに変わりつつあった。
「しかも、おやっさんのより切れるようにしとけよ?ですって」
「角田君に命令したわけじゃないし、そんなにダメかな?」
煙草をくわえ言葉尻をあいまいにしながら不満そうに角田君が言う。
「なおさら腹が立ちますよ・・・」
と言うよりも、君はまだ未成年じゃないか。もちろんそんなつまらないことを指摘する輩は僕を含めて一切いない。
角田君がライターを取り出す前にライターを取り出して目の前で点火した。
3畳の部屋は狭く少し体を乗り出せばすぐに手が届く。
「あぁ。すみません」
部屋の空気が微かに照らされて熱を帯びる。
「うん」
角田君は、ライターに火をつけてあげると、とても美味そうにそして嬉しそうにタバコを吸った。これくらいなんでもない。
「でもあれは絶対、やりすぎですよ。この前だってあり得ませんよあんな事。普通やりすぎたと思って謝りますよね?頭おかしいんじゃないかな」
なぜ君がそこまで。目の前に灰皿をゆっくり差し出す。
「・・・・」
「すみません、どおも熱くなりすぎました」
それから角田君はしばらく何も言わなくなってしまった。
僕は、角田君を許す意味も込めて2本目のタバコに点火しながら彼に尋ねた。
「角田君、どうしたいんだったっけ?」
この時も角田君はニヤリとして嬉しそうに答えた。瞳に輝きが宿る。
「俺、パン屋になりたいんです!って何回目でしたっけ?」
堂々と恥ずかしそうにキラキラと角田君には夢があった。
「どうだったかな」
僕は、壁に寄りかかるように座りなおした。ここからは、長くなるかも知れない。
「俺、ここで料理の基本一通り覚えたらパン屋で働いて、地元で何時か店だしたいと思ってるんです。だから、少しでも早くここの仕事できるようになって・・・」
君は、知らないかもしれないけど。
「それで実家が洋食屋なんですけど、そこで仕入れてたパン屋のパンが本当においしくって。親には飲食はキツイから絶対やめとけ!って言われたけど。絶対!迷惑かけないからって無理やりここの旅館の求人探して卒業前にこっち来たんです」
誰にも教えることはできないのだけれど。
「少しでも早い方がいいですからね!そしたらテレビで予約が取れない旅館とかいう特集にここの旅館がランキング1位で乗ってたとかであんなに反対してた親もうれしくなったみたいで、もう帰ってこなくていいぞ、ですって」
あの人にもキラキラした夢があるんだよ?
「すみません、ちょっと寄るだけのつもりだったのに」
もうすっかり日付が変わってしまった。お互い休むべきだろう。
「ううん、また聞かせてよ」
角田君は、僕の事を聞いたりしない。
つまらなそうだからとかではなく、気を使って敢えて聞かないようにしているような、そんな気がした。だから僕も、自分の事は話さない。
「ミズキさんは明日出るんですか?」
「午後だけ出ようかな」
「そうですか。本当は俺も出ないといけないんですけど、明日はちょっとデートに行ってきます」
玄関のドアを出てすぐのところで角田君は恥ずかしそうに体をくねらせた。
「うん、楽しんでおいで。気を付けて」
遊ぶのも仕事の内だと親方はよく言っている。僕にはいまいち理解できないことだけれど、角田君は、何をしても正しい方向に真っ直ぐに向かうような気がした。それはきっと、彼の高潔さゆえだろう。
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