ジョンレノ・ムトウ

「警察は、入れられないからね。君にも責任あるんだから当然だよね?一応、寮の鍵も変えられるけどその分の費用は実費で出してもらわないといけないし、聞く限りじゃ鍵を盗まれた訳じゃないんだから、やらなくても・・・いいよね?それと、お金についてだけど会社としては金額を補填することは出来ません。これは第3者に盗まれた証拠がないから。君が使っちゃったのかもしれないしね」


 常務の業務スペースは畳一畳ほどの狭い部屋で、壁には沢山の紙がびっしりと張り付けられ部屋そのものを埋め尽くしているようだった。

壁一面に張られた紙には、宿泊客たちの、特にVIP待遇と呼ばれる特別な待遇を受けている客たちの好き嫌いなどの情報が事細かに記載されている。


 旅館の事実上の経営責任者でもある常務は、腰かけている安そうな椅子を90度回転させて、眼鏡の上部のフレームから覗き込むように僕を見てから、あらかじめ用意していたかのように滑らかにそう言った。


小柄な常務が少し身じろぐだけで椅子は情けない悲鳴を上げる。


 憎しみの込められた常務の瞳が気になって、内容は半分も理解できなかったが、酷いことを言っているという事だけは何となく理解ができた気がする。

何かを言っている最中、常務の眼は大きく開かれ、その額は皮膚から分泌された油で汚らしく、てかっていた。怒りにも呆れにもその両方にも捉えられる態度は、頑なに反論を許さない。


 そもそも、初めから反論など、なかったのかもしれない。


 山奥の、こんな閉塞的な所では『警察』など、言われるまで存在を忘れてしまっていたほどだ。

言われてみれば物を盗まれたのだから、警察に行くのは当然のことだ。

しかし、そうはしない。客たちには、いつも通り完璧な旅館でなければならないのだから。



 総務部のフロアから移動するエレベーターの中で、朝から一緒に説明に回っていた親方が、いつもと変わらない不機嫌な顔で鼻を一度鳴らした。

 今日は、何度も僕の下手な説明を隣で辛抱強く聞いていたが、次はこの人に説明しなければならない。今日だけで5回目になる。


 今日も変わらず、過剰なほど忙しい調理場を横切り、実に、何年かぶりに親方と狭い休憩所にたどり着く。

「座れよ」

いつもより低く静かに発せられた声に込められた感情がなんだったのかはわからない。

「失礼します」

 廊下から一歩入ったすぐの場所に正座する。足のつま先は部屋からはみ出してしまうが、それでも親方との距離は目元の小皺がはっきりと視認できるほど近い。

 親方は一言も発することなく、僕と目を合わせることもなく、近くに無造作に放りつけられたタバコを乱暴に一本咥えた。


 いつも通りに、ライターを取り出し点火しようと半分身を乗り出した時だった。

親方の眼が見開かれて、ノロノロと接近していた僕の手からライターを弾き落とした。

 

ライターは勢いよく壁にぶつかりどこかに飛んで行く。


親方が無言で僕を睨み付けている、その目には明らかな敵意があった。

結局自らのライターでタバコに点火した親方は、吸った煙を一度ため息の様に吐いてから呆れるような憐れむような眼を僕に向けた。

「・・・・お前は」

 時間が止まって、視界が狭まる。親方の顔の僅かな動きしか、頭で処理ができない、むしろ、それですら停まっているようだ。周囲を漂う薄い白煙が気流の残滓をうけ、漂っていた。

タバコの匂いで再び時が動き出す。


「本当に使えねぇな」


座っていた。しっかりと。しかし、両肩の高さの感覚がずれている。バランスを取ろうにも柔らかい。床が柔らかい。

何時からだ?きっと初めからずっとだ。

僕は、座っていた。


 まるで他人事のように、事の顛末を説明し終えた後。いつもと同じように業務に戻ると捨てられずに放置されていたゴミがゴミ箱から溢れていた。


 また、長い一日。さらに言うならば休みまでの、長い就労が始まる。調理場の油臭い空気を吸い込むと何をしたくてここにいるのかがぼやけてくる。

そう、母が待っているからだ。急がねば。


 見慣れたはずの調理場の人間の顔もまるで他人のように思えてしまう。命令を聞いているのは僕で、命令をしているのは誰だったのだろう。無意識に視界の隅に『サル顔のタツミ』を捕らえていた。


「たっちゃんじゃない?」


佑馬の放った何気ない言葉が耳から離れない。

僕はそんなことは考えていない。

サル顔のタツミは、不器用で、仕事が遅くて、空気が読めなくて、とても図々しいけど。

唯一部屋を訪れてくれる『友人』と呼べるものに近い存在だった。

確かめたい。怖いけど。確かめたい。

記憶する事を放棄した脳は、こんな状況でも普段と同じように僕の体を動かしてくれた。


 僕は、寿司酢とゴマを合わせたごはんと、軽く塩を振ったサーモンの切り身をもってタツミの前に移動した。これらは、手毬寿司の材料になる。

サーモンは僕が切ったもので、包む作業は手間がかかるため複数人でやることがほとんどだった。

 いつもと同じようなよどみのない行動だったが、周りの意識の流れが盛台を隔てたすぐ向こうにいる能天気な顔をしたこの人と、僕に。静かに収束していた。

「タツミさん、すみません。また一緒にやってもらっていいですか?」

自らの発言に威圧感がなかったか、一度口にした発言を頭の中で何度かリピートし確かめた。タツミはいつもの様に眠そうに、大根と人参に縒りを付けていた。

これらは、刺身に使われる。

「はい?いいですよ」

左右の目の焦点が合っていないこの男の前の職業がホストだったとは到底思えない。

僕は、疑っているのか?この人を。

「ねぇ。ミズキ?何してるの?」

 不穏な雰囲気を察知したのか僕とタツミの間に入ってきたのは、『空気の読めない三橋』だった。

 三橋は、ひげを濃くしたカワハギのような顔をしていて。最近子供が生まれたらしい。  

 僕と三橋は仕事が遅いので、みんなが帰った後よく一緒に仕事をする。そのおかげか、何かと面倒を見てくれてはくれるのだが、今はどうしようもなく邪魔な存在に思える。

「手毬ずしを手伝ってもらおうかと思って」

三橋は、ムトウの1歳年下の年齢になる。

二人はとても優秀な調理師であったが親方に対しては僕らと同じように頭が上がらなかった。

 それでも、3人は同門同士の仲なので親方が非番の日などは、ムトウと二人、やれやれと親方の愚痴をこぼしていた。


その後。

取り立てて何かを問い質した訳では無かった。


しかし、次の日、タツミは忽然と姿を消した。


ああ、仕事が間に合わない。そう思う傍ら、どうにも寂しい。


 

 姿を消したタツミの顔がぼやけて思い出せなくなる頃、彼の母親という人物が旅館を訪ねてきた。小さく青白い顔をして虚ろな目をした初老の女性だ、杖を突いて怠そうに歩く姿は健常者には見えない。

タツミは、こんな状態のお母さんが居るにもかかわらず、何処に行ってしまったというのか。彼に対して失望する。そして、そこまで追い詰められていた事に少しも気が付けなかったことに対しても又失望した。


 タツミの母は、三婆の一人である智子さんとの会話の後、僕のところにやってきて鳴きながら謝罪した。


僕は、タツミの母をなだめて


「タツミさんはきっと何もしていませんよ」


と、言った。


 それは願望に近い本心だった。それを見ていた智子さんは、優しい嘘を見抜いたような慈悲深い優しい女性の顔をして。迷惑ついでだからと、タツミの私物の搬送を僕に頼んだ。僕に断る理由は無い。


 部屋に残された物のほとんどは不要なもので、私物は両手で抱えて持てる大きさの段ボールに全てが収まった。最近出来た近くのコンビニまでタツミの母と移動し、そこで別れた。

 別れ際タツミの母は清々しい顔をしていた。まるですべての苦しみが終えたかのように、爽やかで、その様子を羨ましく感じた。


 寮に戻ると入り口のところでムトウが立っていてタツミの部屋の掃除のをいいわたされる。

状況が特殊なだけあってムトウは、武骨な軍人の様に毅然とした態度を貫いていたが。掃除が終盤になるにつれ、いよいよ堪忍袋の緒が緩んだようで。


「なんで俺たちがアイツの片付けなきゃいけねぇんだ。なぁおい?みぃちゃん」


とボソリと呟いた。


ぎょっとする反面、いつものムトウらしいうんざりとした態度を目の当たりにすると不思議とほっとした。

「でもムトウさん、あのお母さんの足だと大変だと思いますよ」

タツミの部屋は、4階にある。あの足ではのぼってくるだけでも大変だろう。

するとムトウは、少しうれしそうに僕を見た。

「たっちゃんの母ちゃん、たっちゃんが女のカツラ被ってきたみたいだったな」


それは、僕自身密かに抱いていた印象だった。


 置手紙やメッセージの類を密かに期待していたが当然と言った様子で部屋には何も残されていなかった。このころになると、僕のお金を盗んだのはほとんどタツミだったと思い込むようになっていた。

 それは、僕の名前の書かれた空の給料袋がタツミの部屋のゴミの中から見つかったからだ。もちろんその事はムトウには報告せずに、一番膨らんだ袋の底に丸めて沈めてしまった。


 せめて、パチンコとかキャバクラとかひと時の贅沢に使ってしまわず。何かもっと有意義なことに。例えば、これからの季節は寒くなるから暖かい上着を買うだとかに使ってくれればいいのだが。おそらく余計なお世話だろう。

彼は、そういった我慢をするタイプの人間ではない。


まるで初めから居なかったかのように、初めから何もなかったかのように。

不思議と思考は、爽やかだった。

「4階は」

 たあいもない、口に出す必要のない言葉。遠慮の網をすり抜けて零れ落ちた無意味な発言。

 無かったことに、しようと思ったが斜陽の差し込む窓辺を眺めて、ムトウがじっと次の言葉を待っていた。冷えた空気と無精ひげ、そして、高い鼻を持つフランスの映画俳優のようなムトウは、なかなか絵になる男だ。雰囲気が良い。

山肌から滑り込む冷たい空気が、空になった部屋のカーテンをまた持ち上げた。

「4階は、とても風通しがいいですね」

「たけぇからな。行くぞ」

「はい」

タツミさん、さようなら。きっと2度と会えない、そんな気がふっとした。

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