暖かな火
昨日から降り続けている雨は、生真面目な労働者の様に僅かな休憩時間を挟みはするものの、依然として止む気配はなかった。
何事も時間をかけることは偉大で、あの頼りないストーブは、一日をかけてこの狭い部屋を十分に暖めてくれていた。
それとも、この部屋を暖めたのは僕たち二人の熱だったのか。
里美を寮から連れ出す決心はしたものの、この人に着せる服に難儀していた。
部屋の隅に投げ捨てられた後悔の塊は、当然空気に触れているところが微かに乾いている程度で、とても身に着けられるような状態ではない。加えてこの雨だ。
当の里美は、寮の男たちが仕事で出払ってしまった事を聞くと、呑気に布団の中で鼻歌を口ずさんでいた。
そして、僕はこの人をいち早くここから退避させなければいけない身でありながら、その歌のたった一人のリスナーに甘んじている。
根底から、許されない事なのだが。油の切れたエンジンを無理やり回すような毎日の中に訪れた。平穏、そのものだった。
だとすれば、平穏は許されないものなのか。
明日には、事情の説明に追われることになるだろう。
何度も何度も。
そして彼らの意見は最終的には僕の不注意が招いた結果だと統一されるだろう。
それが、正しいことだと知りながら考えただけで嫌になる。
誰だって、この平穏を手にするために幼いうちから努力をし、他人を押しのけ時には騙して。
それを拒否した者に訪れる甘えた平穏は、歪んだ物なのだろうか。甘えはあってはならない者なのだろうか。
一生、油を挿せず焼け付く歯車が歪んで零れ落ちてもなお、生きて行かねばならないのか。
人生の先輩である、この女性はそのことをどう思っているのか。今度機会があったら聞いてみたい。今度でいい、今は聞きたくなんかない。
何故ならば、今は。この歌を聞いていたいから。
「なんていう歌ですか?」
何か発しなければまた寝てしまいそうだった。
聞いたところでどうせ知らない歌だ。興味もない。
「うん?」
里美はのそりと起き上がってしまう、目の前がひんやりと肌寒くなり思わず恨めしそうに眼で追ってしまうと目が合った。
袖を引く様に今度は、立ち上がった足のあたりに手を伸ばしてみると里美は正座を少し崩した形で座り直し。自らの太ももを叩いた。
「おいで」
野良猫や不慣れな犬の類を呼ぶような、押し殺した声だった。柴犬のようなこの人に吸い込まれるように後頭部を乗せてみる。
不思議なほど柔らかい。
真下から見上げる顔は、いつもよりもずっと優しい。
「足、痺れませんか?」
大きく息をすると部屋の空気が生温く淀んでいる気がする。
「正座、慣れてるから平気だよ」
「仲居さんって、大変ですね」
「調理部の方が大変でしょ?私たちも大変だけど。でも、おかげで正座しても全然平気だよ」
この上なく頼もしい太ももを少し撫でると、薄暗い部屋の僅かな光量の中、表面に薄っすら生えた産毛を発見し歓喜した。陰鬱な毎日の新しい発見は、いつも僕を愉快な気持にさせてくれる。
「もうっ!」
束の間、物凄い力で片手は拘束され、目は覆い隠されてしまった。
視界を奪われ、片手の自由を奪われた変わりに、温もりを得た。
出来る事なら、ずっとこうしていたい。
昨日の話が真実ならば。そうであってほしい。
囁くような優しい雨音に耳を傾けると、あの話をしたのが随分前だったきがしてしまう。
「里美さん、いつ帰りますか?」
僕は、つまらないことを聞いている。口に出してから後悔する、いつもの様に。
でも、言わなければ、このまま里美を寮に住まわせるのはきっと良くない事だろうから。
里美は僕の期待を裏切って耽々と口を開いた。
「そうだねぇ、寮の人たちが後番出たら帰ろうかな」
その時が来たわけでもないのに、早くも寂しくて仕方がなくなる。
出来る事ならこの人と一緒に居たい。でも、出来ない。
信じられない事に、今日の夜にはこの部屋に里美はいない。
「夜中の・・・みんな寝てからじゃダメですか?」
「うーん、私もちょっと寝たいからなぁ」
さっきまで寝ていたじゃないか。と。
自分勝手な欲望が悲しみと怒りを生み出して渦巻いた。半分以上は、自分に対しての失望だったのかもしれない。
「でも、服だってまだ乾いてませんよ」
屁理屈を言葉にすると相手を納得させた時のような暗い快感を感じた。
何よりも気持ちが少しだけ楽になる。
たとえ、実現出来なかったとしても僕の気持ちを少しでも伝えたかった。
帰ってほしくはないのだと。
僕の計画では、里美は濡れた服について少し悩むはずであった。
しかし里美は、周到に自らの着替えを用意していた。
襲来の衝撃ですっかり記憶の隅に追いやられてしまっていたが、玄関に放置されたスーツケースの中は、着てきたときのような暗い色の露出の少ない服に歯ブラシやメイク道具と栄養ドリンクとさらに、パジャマまで入っていた。極めつけは、ケースの端の方に衣服に押しつぶされて、いびつに変形した見覚えのある銀色の塊が数個固まっていた。
それは、おにぎりだった。
すっかり腹が減っていたことに気が付いて、行儀が悪いと思ったが、きっと僕の為に作ってきてくれたに違いない。断りも入れずに包みを開いておにぎりをかじった。
おにぎりは、きちんと強めに塩をしてあって一口食べた時点で閉所に長時間放置されていた事に対する猜疑心を消し去った。ぎっしりと握られたおにぎりは、たまらなくうまい。
かじる瞬間に漂う少しだけ古くなったごはんの香りと、ひんやりとした冷気を一緒にほおばるとはっきりと塩味とうまみが舌の上に広がった。すぐに飲み込んでしまいたいのを意識して抑えて2度3度味わうと、お米が舌の上でほぐれ、塩の利いた外側とひんやりと固まった中心部の甘みと、うま味が立体的に口中を満たした。
飲み込むように、あっと言う間に大きなおにぎり一つを平らげてしまった。
そして、同じように2個目を勢いよく平らげた後、再び柴犬に身を沈めた。お腹が膨れるとなんだか急に照れ臭くなって、とても里美の顔を見れない。
僕は体を少しもぞつかせて、わかりやすく息を吐いて体を縮めた。
「寝て食べて。幸せね」
そうかもしれない、きっとこれが。
ゆっくりと体を起こして、水を口に含んだ。
なのに、この幸せが続くヴィジョンが少しも思い浮かばなかった。
ずっとずっと変わらない。初めから、そうだった。初めから、先の無いこの関係に内心否定的な感情を抱いていても出来るだけこの関係が長く続いてほしいと願っていた。
僕たちの関係は、歪んでいて中にも先にも何もない。
そのことがただただ恐ろしい。
暗く冷たい不安をかき消すように、思いきり里美を抱いた。
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