野生の泥人形
「ただいま」
彼は、仕事から家に帰ってくると上着を脱いで肩にかけられたサスペンダーを外して外の姿から家の姿に変身した。
そう、この人は一味違うサスペンダー派。
かき混ぜられた部屋の空気に外の匂いが混ざって、それから表情も少しだけ優しくなる。
「おかえり」「お帰りなさぁい」
ただいまの声に元気がなかった。今日もお仕事大変だったの?疲れちゃったならご飯は、簡単に作れるのでいいんだよ?お疲れ様、いつもありがとう。大好き。
今日も、私の思考が声になる事はない。
彼は少し湿った足取りで台所に向かい、今日も判で押したように手を洗って食事の支度を始める。
磨かれた蛇口から流れ出る水がシンクにたたきつけられて、砕かれて。締められてキュッと鳴く。この一連の音に耳が心地よい。
一見すると、機械のような正確無比な動きだが、この機械は優しくて暖かい、そして何より悲しみを知っている。
左右に揺れる身体に合わせて、垂れ下がったサスペンダーがゆらゆら揺れる。今日のご飯は何だろう?この時間はまるで自分が材料になってしまったかのように、何時も私をハラハラドキドキさせるのだ。
お腹が捻じれて囁くから音を聞かれないように気を付ける。こっそりするのは得意だから大丈夫。
テーブルの向こうの風葉は、集中力が簡単に乱れてしまう私に目もくれることなく宿題に徹している。
私は今日ほど宿題が忌まわしいと思ったことは無い。また、そんな気がしてしまう。
やっぱり勉強は、楽しい物ではない。
友達としゃべったり、みんなで街にお出かけした方がよっぽど楽しいし好きだった。
そもそも、カエルの内臓や縄文時代の事が私たちの生活にどれだけ役に立つというのだ。結局勉強と言うのは他人からの評価を得るために行う物に過ぎない。きっとみんなそうだ。だから。だから私も、とても退屈だけどやっぱり勉強をしないといけないのだ。
意識をテーブルの宿題に集中させてから、チラリと台所の後姿を盗み見た。
私、頑張ってるよ!
今日も、一足先に宿題を終わらせた風葉に手伝ってもらった。
これは、決してインチキなどではない、テストの時はちゃんと自分の力だけで回答しているし、先生にあてられた時だって風葉を頼ったりはしない。
そもそもクラス全員に同じ宿題を出す先生に非が有るのだ。
一人一人に問題を作るのが面倒で、少しでも楽をしようとして、こうなることは想像できたはずなのにも拘らず対策を怠った。先生が悪いんだ。
「ねぇー?ごはんまだぁ?」
夕食の準備が整う前に宿題を終わらせることができたので私は得意になって声をかけた。
「うん。ごめんもう出来るよ」
「早くぅーお腹減ったよ」
急がなくたっていいんだよ。言ってくれればお皿出して手伝ってあげるんだから。
今日のご飯は何だろう?シチューかな?肉じゃがかな?スパゲティーかな?中華丼?野菜炒め?グラタン?そうめん?みんな大好き。
サスペンダーを外したズボンは星の引力によってさっきよりもずり下がって、外にいる時よりもずっとずっとだらしない。この姿を知っているのは、私たちしかいないんだ。
本当は、服ですら全部脱ぎ捨てたいと密かに思っていることも知っている。
この事は、修学旅行の帰宅日時をわざと一日偽って報告して知り得た成果だ。
私たちが旅行から戻るのを次の日だと勘違いし、安心しきっていた彼は。獣の様に一糸纏わぬ姿で部屋の真ん中で体中に埃をペタペタつけて気持ちよさそうに寝息を立てていた。
私は初め、見てはいけないものを見てしまったような気がして。反省し唐突に不安になって、そっと玄関から外に出たけれど。風葉が珍しく鼻息を荒くして目を輝かせて頬を赤らめて興奮していたので、何だかとても愉快な気持ちになって。油断し堕落しきった獣に夕方寝起きドッキリを仕掛けることにした。
思えば、あの頃から既に風葉と趣味や趣向が変わり始めていたのかもしれない。
寝込みを襲われた彼は、何か訳の解らない事を言いながら飛び起きて、私たちに背を向けて素早く立ち上がった。
その時お尻がプルㇽと美味しそうに揺れた。大変けしからん尻だった。
夕食の用意など当然しておらず、流しの中には普段は口にしない即席ラーメンのごみがそのまま放置されて、斜めになった容器から零れ出たスープの油が固まって汚らしく流しにこびり付いていた。
私たちが居ないとこの人はこんなにもだらしがなくなってしまうのだ。出所の解らない自信がみなぎり私は、得も言えぬ優越感を感じた。
それから、少し嫌味を言うと、夕食の買い出しの行くと支度し始めたので私たちは慌てて彼を止めた。そのまま放っておいたら、私の服を履きかねない様子だった。
久しぶりに再会したというのに、なんてつまらない事をするつもりなのか。
一刻気まずい沈黙が訪れたが、風葉が用意しておいてくれた土産話でその場を和ませることができた。やっぱり風葉は頼りになる。
「・・・ねぇ。瑞樹?さびしかった?」
話しの合間に、催眠術のような質問が投げかけられる。
瑞樹は、いつの間にか伸び切った部屋着を身に着けていた。
「結構。寂しかったかも」
とだけ言った。
泥人形のように無表情な態度だったが私たちはチラリと顔を見合わせ無言で歓喜し。
すっかり賞味期限が切れた牛乳で3人分のシリアルを用意した。
明日の朝ごはんだって、私たちが作ってあげよう。その時はそう思った。
「ねぇ?今日のご飯何なのー?」
「ロールキャベツ」
先月、あの女が好物だと言っていた料理だ。
家の中に微かな殺気が満ちた。
「ロールキャベツ」
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