白くまとカワウソ

 雷が鳴っていた。その音をかき消すように再び部屋のドアがたたかれた。



 雷よりも大きく聞こえる音にドキリとして。

恐る恐る鍵を外してドアを開ける。

すると、精神だけが抜け出して雨音と雷鳴の中を漂った。


「中、早く入れて」


 里美だ。

 コソコソと話す里美を懐に隠すように部屋に滑り込ませ廊下を確認してすぐに鍵をかけた。

 すっかり雨に打たれてしまった里美を、どうして良いか解らず。拭いた。

「緊張したぁ」

 里美は、全身に暗い色の服を着て大きな荷物を持って。帽子の中に髪をすっぽりと隠していた。

帽子をとると芳香が部屋中に漂った。

いったい、どうすれば。胸の高鳴りが止まらない。

「里美さん・・・・里美さん、どういうことですか?」

 寮の壁はそこまで厚くない。里美の濡れた衣装を既に調理場のユニフォームが掛けられたハンガーに重ねながら。声が響かないよう尋ねる。

「すっごく落ち込んでたみたいだったから、心配で来ちゃった。板場の寮って古いし汚いし狭いねぇ」

里美は、手渡されたタオルで手足を拭きながら、畳んであった布団にちょこんと座った。

「寒くありませんか?他に濡れてる所ありませんか?」

「っくしゅん!」

明らかに僕以外のくしゃみだ、体が少し飛び上がる。

「ぁあ、多分大丈夫」

 本当に大丈夫なのか?里美は、今にも震えだしそうなので

部屋にある小さな電気ヒーターの電源を入れて里美のすぐ前に移動させた。

 このヒーターは、朝食のパンを焼くトースターの方がマシに思えるほど頼りないものだったが。無いよりはきっといいはずだ。


「あは、全然あったまんないや」

 

里美は、早速ヒーターの頼りなさを看破し、歯をカタカタ鳴らし始めていた。

慌てて、里美の尻に引かれている布団から、巻けそうな物を引き抜いて身体に撒いた。

「本当に濡れた服着てませんか?」

最後に三角形の布団の塊になった里美の頭に冬用の外着のフードを被せた。

「ごめんね、逆に迷惑だった?」

「そんなことありません、むしろ。でも・・・驚いてしまって」

 里美の白い頬がだんだんと上気してくるのを見ていると呼吸を忘れてしまう。

僕ははっと我に返り、買ったまま一度も使ったことのない電気ケトルを箱から出して部屋を出た。

 部屋の正面には小さな洗面台あった。この洗面台は、各階にひとつづつ備え付けられている物のうち一つだ。現在、この3階には僕しか住んでおらず、残りの二部屋ははじめから空室になっているから3年間この洗面台は僕しか使っていない事になる。

 念のため階段まで人気がないことを確認して。普段は解放されたままの廊下と階段とを隔てる重い金属製の扉を閉めた。

 ケトルの内部を数度濯ぎ、小窓から外を覗いた。

僕は単純だから、自室の中に里美が居ると思うだけで窓から見えるいつもの陰鬱な風景も少し変わって見えてしまう。

部屋に戻ると、中は里美の香りで一杯になっていた。

 すぐにドアをロックして。クレードルにケトルをセットした。

「変なの、ちょこまか動いちゃって」

里美は、いまだにカタカタと震えていた。

「今、暖かい飲み物用意しますから」

「うん・・。楽しみ」 

 すっかり棚の代わりになり果てたテレビの上から、マグカップを二つ取り出したが、そのうち一つを元に戻し紙のコップを用意した。

 戻したカップは、何度かサル顔のタツミが使用したものだ。

「そのマグやっぱり可愛い」

 乳白色のカップには、2本足で歩く白クマとカワウソが太い線で描かれている。

 狭い部屋の壁にぴったりと着けた小さな四角いテーブルの上に二つを並べて、その下にしまってある取っ手のついたアクリル製の箱を取り出した。中には、いつかケトルとともに使おうと考えていた粉末スープとお茶とコーヒー類が入っていて、その後ろには即席のヌードルが押し込まれていた。まず箱を取り出して蓋を開けてすぐ後ろで三角ばっている里美に差し出した。

「いろいろありますけど」

「っくしゅん!」

「ナニニシマスカ?」

また。くしゃみだ。

「カップヌードルがいいな」

ここぞとばかりに、真っ赤なパッケージのカップヌードルを差し出した。

 これは、タツミが辛いもの好きだったのでたまたま買い置きしてあった物だ。

 他にも、押し入れの上段には油で揚げた芋を辛く味付けしたお菓子も常に買い置きしてあるのだが、調理してから時間がたった揚げ物のお菓子はあまり体に良くない気がするので黙っていようと思う。

 僕は、辛いものが苦手だし、食事はいつも調理場で済ませてしまうからこの買い置きに手を付けることは滅多にない。

「うふ、それ食べたらお湯たんなくなっちゃうねぇ」

「すぐに沸きますから。飲み物はいいですか?」

「甘いコーヒーが飲みたいかな」

 カップヌードルのパッケージを引き裂いて、一応調理方法を確認する。

この手の即席麺には数種類の微妙に異なった調理法が存在する。どれも簡単なものだが初めに確認しておかないと一食分が無駄になってしまう事もある。

 僕はこのことを焼きそばタイプのヌードルから学んだ。

 それぞれのカップにお湯を注ぐ。タイマーなどと言う騒がしいものはセットしない、白クマの方には甘いラテの粉末が入れてある。

 ポットにはもうお湯はほとんど残っていないだろう。僕は喉も乾いていないし腹も減っていなかった。白くまのカップを里美に差し出す。かなり着込んでいる状態なので零して、火傷したりしなければいいのだが。

「うん・・・。ありがと」

 巻かれた布団の隙間から、ぬるりと手が生えてきて。カップの取っ手を両手で器用に持った。このカップには取っ手が二つ付いている。

「・・・・アチ」

「沸かしたてですから。火傷しないでくださいね」

 里美は、熱い飲み物が好きなのだが体が冷えているせいで焦って火傷しないようそう促した。

他人の火傷や包丁で切った切り傷を見るのはとてもとても苦手だ。

スライサーで切った指などは、思い出しただけでも背筋が凍る。あれほど気を付けてくださいと調理場の人たちには言っているのに彼らは代わる代わるスライサーで指の肉を削ぎ落とすのだ。痛々しいたらない。

「・・・ねぇ?ねぇってば・・・」

「なんですか?」

思い出の中で肉が削ぎ落とされた指先からの出血を止めていた。

「また、やらしい事考えてたんでしょ?」

里美は、大変いたずらな顔をして僕を見た後、湯気の立つカップをひと口啜った。

「火傷しないでくださいね」

「あ・・・うん」

 僕は少し寂しくなって、3角形にそっと身を預けた。

 せっかく、こんな雨の中、古くて汚くて狭い部屋に来てもらったのに。ろくなもてなしも出来ずに扱いと言えば布団を巻き付けて暖かい飲み物を出しただけだ。

「雨、止みませんね」

そう言うと窓ガラスをたたく雨音が少しだけ大きくなる気がした。

「あたし、晴れ女なんだけどなぁ」

ボソリとはなった吐息でカップから登る湯気が捻じれた。

「僕、そういうの信じません」

「ぇぇ・・・じゃぁ、A型が几帳面とかO型が大雑把とかは?」

「あまり気にしたことありません」

 血液型の概念など、すっかり頭から抜け落ちていた。

ここではそんなもの少しだって必要ない。

この部屋はストーブを入れてもやはり少し寒い。

「ねぇねぇ」

「里美さんは、何型なんですか?」

「んふ、私はA型だよ」

「なら、几帳面なんですね」

「じゃぁ、毛深い人は情が深いっていうのは?」

なんとなく、里美が当てはまる気がした。口にしたらこの人が気にする気がして、カップを持った手の産毛を指先で撫でた。

「脱毛、しようかな・・・」

「脱毛って、きっとすごく痛いですよ」

「ねぇ、退屈じゃない?」

「不思議に思うかもしれませんけど、とても楽しいです」

雨の音だって、すぐそばの道路を、水を蹴散らしながら走る車の音だって、違って聞こえる。

「ホントはね、君の部屋一度来てみたかったんだ。どんな生活してるのか気になってたから」

静かで優しい話し方だ。少しぬるい手が重ねられると心地の良い微睡みが訪れる。

「だからね、お金盗まれて部屋に行く口実が出来たからちょっぴり嬉しくなっちゃったんだ。私って最低かな・・・?」

「そんなことありません、おかげで今日も一緒に過ごせます」

この手のぬるさも、香りも、二人で窓の外を虚ろに眺めるのだって。いつかは、きっと消えてしまう時が来る。毎日が儚くて脆い。たとえ何をしていたって。

「えへ。嬉しいけど・・・。ちゃんと鍵は掛けるんだよ?」

「はい、もう誰も部屋に入れません」

「私は入れてよね」

里美は、そういうとカップを大きく傾けてコーヒーを飲みほした。

「うん・・・。美味しかった。ほら、おいで」

三角形の向こう側が解放されるのが視界の隅で見えた。

「ここでいいです」

そばにいるだけでいい、下手に動いて離れてしまうよりもずっとこのまま止まっていたい。

「お願い・・・。寒いの」

寒ければ、布団を閉じて三角形に戻ればいいのに。

「ねぇ・・・?おねがい、嫌なの?」

「・・・・」

嫌だった。しかし今にも泣きだしてしまいそうなので仕方なく応じることにする。

折角、うとうとしていたのに。

解放部から中に入り里美をぎゅっと抱き寄せると急激に意識が覚醒した。

「里美さん」

「ごめぇん、すっかり言うタイミング逃しちゃって」

信じがたい事に、里美はずぶ濡れのままの衣服をまだ身に着けていた。

 水を含んだスポンジを抱いたように触れた場所はすっかり水を吸い込んで濡れてしまった。畳も、下に引いてあった布団も巻き付けた布団も濡れていた。

 すぐに、里美から濡れた衣服をはぎ取ったが、もうすでに畳も、布団も、毛布も、僕の服も、じっとりと水分を吸収してしまっていた。

 服を干しておくハンガーも足りなければ外に干すわけにもいかない、縦長の狭い部屋をずぶ濡れの衣服を手にしたまま右往左往した後、最終的にあきらめて部屋の隅に投げ捨て、申し訳なさそうに様子を窺っていた里美を布団ごと押し潰すことにした。

 下の階に響いてしまったかもしれない、それでも。この人が、憎い。

ぐしゃぐしゃに潰れた三角形から布団を適当に敷いてさらに上にもでたらめに巻き付けた。短い悲鳴が聞こえたが許す気も無ければ逃がしもしない。布団からはみ出して、冷えている箇所がないか検めたがその心配とは裏腹に。里美の体はボイラーの様に熱かった。

「寒かったんでしょ?ひんやりしてる、温めてあげるよ」

嬉しそうに囁くこの濡れボイラーは、暖かくて良い香りがしてとても気持ちがいい、一瞬そう思ってしまったことがどうしようもなく悔しい。

「ラーメン、食べないと延びてしまいますよ」

「いいの、あれ不味いんだから」

 ささやかな反撃は、ことごとく叩き潰されてしまった。気持ちが弱気の傾くと瞬く間に熱の渦に飲み込まれてしまう。もういい、ここに居ることとする。

「ねぇ、私たち。とっても悪いことしてるよ?」

布団の中で籠った声がすぐそこから聞こえる。

「言わないでください」



 朝、すべてが違っていた。耳障りな始発電車の音も鳥たちのさえずりも、冷蔵庫が静かにうなる音でさえ全てが日常を彩るハーモニーに思えた。もしかしたら、毎日がこうだったのかもしれない。

 この布団で眠るようになって殆ど3年になる。

染みついたはずの僕の匂いはどこかに追いやられ、すっかりこの人の香りで上書きされていた。

今日は、目の前を通過するだけの完成品に過ぎない旅館の朝食を無性に食べてみたくなる。


 里美は布団の中で猫の様に丸くなって眠っている。最近この体制で寝て居ることが多い。

僕の不注意のせいで随分無茶をさせてしまった。きっと、とても気疲れしたに違いない。

今は、このにおいの元をそっとしておこう。



 廊下から気だるそうな足音が聞こえて来たかと思うと、次は、ドンドンと乱暴にドアを叩く音がして部屋の中の空気が一気に戦慄する。


叩かれるたびドアは軋み、その隙間から朝日が漏れてくる程だった。

「どうしよ・・・?」

 布団の中で丸まっていた里美が飛び起きて、目を剥いて怯えていた。

僕は自分でも不思議に思うほど冷静だった。里美が代わりに怯えてくれている、そう思うとむしろ落ち着いた。

「大丈夫です、鍵はかけてありますし。今日の休みは僕と三橋さんだけなのですぐに寮から出ていくと思います。大丈夫」

 今にも震えだしそうな肩ををっと宥めて。身体をのたうたせて里美に寄った。

「・・・ホント?怖い・・・。誰かな?」

蚊の鳴く様な声は震えている。

「多分、ラントさんだと思いますよ」


 休みの日にたたき起こされるのは今回が初めてではない。

いつもは、居留守など使ったことはなかったが今日は特別だ。もし、僕を心配してくれているのならとてもありがたいが、乱暴者のラントに限って恐らくそれはないだろう。

 程なくして、ドアの下部が弾かれたような音を上げて、部屋全体が太鼓の中の様にひときわ大きく振動した。

 おそらく、ドアを蹴ったのだ。里美に添えられた手に無意識に力が籠められてすぐに緩めた。


 やがて、気だるそうな足音が部屋の前から下へ下へと遠ざかっていった。

「・・・怖かったょう」

 里美は、今にも泣き出しそうな顔だった。

この人に、こんな一面があったのか。いつも甘えてばかりだから知らなかった。

「大丈夫です、里美さん赤ちゃんみたいですよ」

 里美の冷めた背中を両手でさすると喉を鳴らし猫のように恍惚とした表情を浮かべた。

「あったかい・・・。それ好きかも」

この人が、僕達が、無事で本当に良かった。心からそう思う。


 里美の無謀な行動は、悲憤した感情を遠い昔の出来事であったかのように感じさせてくれた。

 どうやら僕は、どんなにつらい出来事であっても喉元を通りすぎてしまえばそれがどれ程自らを苦しめた感情や痛みであっても、すぐに忘れてしまうのかもしれない。

いままで、自らの頭の悪さをずっと非議してきたが、今回に限ってはほんの少し、ほんの少しだけこの事を有難いと思ってしまった。



僅かな哀愁を感じつつ、僕は里美を寮から連れ出す決心をした。

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