疑惑

この職場で働くようになって、3年という月日が経とうとしていた。相変わらず仕事はつらいし、他人の話はよく分からない、先輩のラントからの暴力は回数は減ってきたものの受ける痛みはそれほど変わらない。里美との関係も進展しないままで、気持ちを伝えようとすると決まってはぐらかされてしまう。そして何より実家のことについての焦りが徐々に精神をむしばんでいた。



 連休が被ったというので里美と出かける約束をしたその前日の事だった。

部屋の衣装ケースに入れておいたひと月分の給料と財布の中身の金が消えていた。


僕は瞬時にパニックに陥った。金が消えていることよりも、この寮の誰が盗んだのかと真っ先に考えてしまった自分の意地汚さに酷く動揺した。いったい誰が、いつ、なぜこんなことをしたのだろう。

 

明日は一月ぶりの休みで、里美と二人で出かける予定だったというのにとても約束どころではない。

 

里美になんと説明すればいいのだろう、それよりもこういう時はいったい誰に報告するべきなのか、親方か?それとも管理部の人間か?常務か?どうすれば・・・。いったい誰が・・?

その日は、眠れなかった。


 次の日の朝は土砂降りだった。一晩中眠れなかったはずなのにいつ降り始めたのか全く覚えていない。今回の件も僕のこの間抜けさが引き起こしたのかと思うと一層胸が苦しくなる。

 念のためにもう一度、衣装ケースの中身を一つずつ取り出して入念に調べてみたが、見つかったのは空の給料封筒だけたっだ。

 やむを得ず、皆がそろった頃に調理場に顔を出した。

 今日は、親方が休みだったためか皆のびのびと仕事をしていた。この中の一体だれが。いや、そんなことは絶対にないはずだ。出来るならばそうであってほしい。だれの事も疑いたくなどない。


ただ、頭が重く吐き気がする。


 いち早く僕の存在に気が付いた調理士が生け簀のかごを持ったまま、僕にどうしたのか尋ねた。かごから水が滴り落ちて床が濡れていた。

僕はその者にすぐに副料理長であるムトウの居場所を尋ねた。そのほかの事は一切口に出せなかった。


 ムトウは、畳の休憩所で横になって漫画を読んでいた。親方が休みの日はムトウはいつもこうしていた。読んでいる漫画は以前僕が頼まれて購入してきたものだ。

 

僕の存在に気づくとムトウは漫画を脇に置いて僕を見て両手を広げた。

「おいで」

 この男は、禿でデブで巨漢で厳つい見た目をしているわりに、仕事をしていない時は他人を甘やかすのが好きだった。

 その姿は、里美に少しだけ通ずるものがある。不覚にも煮え立ち捩じれた感情がほんの少し落ち着いた。

もちろんその行為を受け取ったことはなかったが。

「ムトウさん、ちょっといいですか?」

 無視して質問するとムトウは、僕の様子から面倒ごとだと気が付いてつまらなそうに漫画に戻ってしまった。

「なんだよ?辛気臭そうな顔して」

 頭の回転の良い人間特有の歯切りのいい口調だ。ムトウは現在あの寮に住んでいない。相談をするのにはうってつけの存在だ。

「あの・・・。お金を無くしてしまったみたいで」

「部屋の鍵かけといたのかよ?」

ムトウは漫画を隅に置いて僕を見た。

「いえ、昨日は休憩が終ってから。掛けていませんでした」

 僕は鍵を掛けていなかった。掛け忘れていたのではなく外出するとき以外は、殆ど部屋の鍵を掛けていなかったのだ。

「じゃあお前が悪いな」

面倒ごとを一蹴するような言い方だ。

僕は、妙に腑に落ちて納得して。足の感覚が薄くなる。

「いくらだよ」

「ひと月分と財布にあった分ちょっとです」

 とたん、ムトウの眼がぎょっと開いて頭が少し赤くなった。そのリアクションは、事の重大さを僕に実感させるには十分な反応だった。本当に申し訳ない気持ちになる。

「馬鹿かお前は、おやっさんに電話すっからちょっと待ってろ。あと今日はもう来なくていいから部屋で休んどけ」

結局どうすればいいのか、馬鹿みたいにその場に立っているとムトウに帰れと言われてしまう。

 玄関でよろけながら靴を履き替え外に出ると、玄関の僅かな屋根の下で里美が待っていた。着物姿がとてもすてきだ。

「ねぇ今日どこいこっか?また水族館行く?それとも鰻食べ行く?」

ずきずきと胸が痛む。この痛みはきっと幻だ。

「待っててくれたんですか?」

「うん、どうせまた漫画買って来させられたんだと思って、ちがかった?」

 散歩に行く前の犬の様にはしゃぐこの人に、本当のことを言うべきか、悩んでいると里美の表情がだんだんと険しくなっていった。これ以上心配させるわけにはいかない。

「どうしたの?」

「実は、お金を無くしてしまったみたいで」

季節外れの生暖かい空気が僕らの間を吹き抜ける。

「ホント?いくら?」

声が大きいから。頭ががんがんと揺れた。

「ねぇ大丈夫なの?」

里美は此方が聞きたいほど狼狽して今にも泣きだしてしまいそうだ。

「ええ、大丈夫です。本当に、ただ・・・」

「・・・ぅん?」

「疑うのがつらくって」

 いつもの癖でまた弱音を吐いてしまった。ここは、職場のすぐ外だというのに。

 いつの間にか止んでいた雨が、僕たちをその場から追い出すように一斉に降り出した。

「うん、そうだよねそうだよね。辛いよね、そんなに大変なのに能天気なこと言っちゃってごめんね。今日は、お家でゆっくりやすも?ね、そうしよ?」

ずきりとする。今日が、終わってしまう。 

こうなることの予想はついていた。それでも、ここでない何処かに行きたかった。この人と。


 里美は仲居専用の和傘を開いて、その中に僕を入れて寮まで連れて行ってくれた。

小さな傘だったから、きっと里美の外側は雨に打たれて濡れてしまっただろう。

寮の階段の踊り場にある、小さな縦長の日窓から里美の後姿を見えなくなるまで見送った。

左の肩が濡れていた。


部屋の前で、ドアノブを回すが鍵がかかっていた。

こんな事の後だから、急に律義に施錠し始める自分に腹が立つ。大体もう盗まれるようなものは部屋にはないのに。

 鍵は落とさないように派手で巨大なキーホルダーが付いていて。何処に携帯しているかすぐにわかった。

窓の外は、雨が降っている。

 雨の日に出歩くのだって好きなのに、二人で服を着たまま海に入ったことだってあった。

今日は、いったいどんな事をするはずだったのだろう。永遠に訪れる事のない今日も明日も、すっかり過去の物になってしまった。この状況は作ったのは誰だ。誰であろうと、この原因を作ったのは僕だった。


 衣装ケースの前に散々とした服たちを畳みなおして一枚ずつケースに戻していく。いったい何をしているのか、今日は何をしたかったのか。生まれてくるはずだった思い出たちは2度と生まれることはない。

時計を見ると、すでに半日以上が過ぎていた。昼食は、とても食べる気にはなれない。

残った休みの計画は、角の無い積み木を積むように積んでは崩れて転がった。

見たくもない。


 ドアをノックする音がして、雨の音も再び聞こえ始めた。

時間は既に午後の仕事が始まろうかと言う時間だった。

 どれくらいノックし続けたのか、ついにはドアノブを乱暴に回し始めたので半ば液体になってしまった体をだらだらと起き上がらせ、玄関まで移動した。

いったいだれだ。誰とも会いたくなどないというのに。

「みずき?みずき?」

佑馬の声だった。

「はい、今開けます」

5人兄弟の長男と言うことで面倒見がいい佑馬は、同じ寮の下の階に住んでいる。

鍵を急いで開けて扉を押すと、僕の目線から大分上のところに痩せた大仏のような笑顔があった。

 佑馬はコンビニの小さな袋を持って腰でズボンをはいて調理場のユニフォームを伸ばして肩にかけていた。

「よっ。ミズキ。給料盗まれたんだって?」

 ずきりとする。自分で何度も何度も反芻したはずなのに、いざ人から言われると何倍も衝撃が大きい。何も言わずそっと扉を閉めてしまいたくなる。誰とも話す気になれない。

「・・・・聞いたんですか?」

きっと、この人がとったわけではない、この人は関係ない。必死にそう言い聞かせて、言葉を振り絞る。

 仏の笑顔が急に真顔になる。この男の表情は乏しく笑顔か、この真顔だけでほかの顔は見たことがない。優しそうな顔つきとは裏腹に屈強な精神力と忍耐力を持っているというのがこの男の印象だった。

「ムトウさんがさっき飯食ってる時に言ってたよ。みんなの前で。『あのバカ金盗まれたらしいから下手に近づくと疑われっからおやっさんとアイツがちゃんと話するまでほっとけよ』って」

ムトウの発言をそのまま発音しただけの佑馬は、また笑顔に戻った。

「でも俺やってないから」

出来る事ならその言葉を信じたい。

「はい、でももう過ぎた事・・・なので」

もし、金が帰ってきたとしても。休日は、すでに失われてしまった。

「うそ・・?」

佑馬が再び真顔になる。

「俺だったら絶対犯人見つけるけどな。まず、みんなの部屋入って財布の中身見してもらうじゃん?でも誰だろうね、俺も気を付けないと。『タッチャン』じゃない?」

 佑馬は、冗談だというように笑ったが。僕は、ぎくりとしてしまった。誰の事も疑いたくない。

「ミズキ。お金大丈夫?休みでも飯食い来て良いからね。おやっさんもおこったりしないと思うし。何なら俺ちょっと貸そうか?」

佑馬はそう言うとコンビニ袋をがさつかせて自らの尻をまさぐった。

「いいえ、大丈夫・・・です本当に。通帳とかも無事でしたし。今月のお給料それだけなので」

『それだけ』などと言っておいて涙が出そうになる。

「うそ・・?でもほんと、気を付けないとね。俺もちゃんと鍵かけよっと」

佑馬は、右足にかけていた重心を左足に移した。

「そろそろ仕事始まるからじゃね」

「・・・はい」


今日が非番である事が唯一の救いだ。

 

雨は、一層勢いを増して降り続けた。

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