聖杯と12使徒
12本。
全ての鉛筆を削り終えたのはちょうど日付が変わったころだった。
休日の余韻に浸りながら普段よりも早く部屋を後にした付けを清算している間にずいぶん遅い時間になってしまった。
つい二日前までは、道具をそろえてから一番初めに描くものが決まっていたはずなのに、今ではその決意はすっかり揺らいでしまっていた。やはり、大切なものに対しては相応の準備が必要だ。と、思ったからだ。
決して思い付きなどでは無い物こそが好ましい。
しかしながら、時間を気にしながらの悩み事は、結局実を結ぶことなく。明日の仕事に備え眠りにつくことにした。夢うつつ思い出すことは里美と過ごした二日間だった。
毎朝毎朝、胸が締め付けられる思いがする。今日からまた始まってしまう。バックヤードの人気のない入り口から中に入ると、様々な食材と調味料と油が床や壁にこびりついた独特なにおいがする。
また、今日が始まってしまう。調理場内に設置された3個のごみ箱の内、放置されていた2個のゴミをまとめて、ずっしりと重いゴミ袋を両手に下げて、さっき入って来たばかりの入り口に逆戻りし外にあるごみ捨て場に捨ててくる。ゴミ捨て場は、おそらく二日間洗浄されていない、いつもの連休明けと同じで悪臭が立ち込めていた。
ついさっき見た時よりもずっと憂鬱な景色に見える入り口をくぐり、調理場内を再度見回る。この作業はもはや点検に近い、そしてほとんどの場合異常なしとはならない点検だった。
二日も休んでしまうと、正確な献立を忘れてしまうことが多い、これは僕の記憶力が悪いせいだ。加えて、毎月毎月変化する献立がそのことに拍車をかけていた。
しかしながら、ありがたいことに、毎月の献立はいつも月の初めに写真で撮影されて調理場内で一番大きな冷蔵庫の正面に大きく張り付けられている。
この場所は、親方がいつも座っている場所のすぐ隣と言うこともあり、勤務中のぞき見するような者は誰もいない。
一度、調理師の一人である三橋がちらちらと写真を確認しているのを発見した親方が激昂したことがあった。その後僕たちがどうなったのかは言うまでもない。
それからというもの三橋は、月の初めに提示されるこの写真を自らの携帯電話のカメラ機能で撮影し、何か不安に思うと生け簀のエリアやトイレに移動して、親方の目を盗んでこれらの写真を確認していた。
僕は、携帯電話を持っていないからこの手の小細工は使えない。かといって、勤務中に写真を確認することもできないし、ほかのメンバーに聞いたものなら、失望を含んだため息の後に仕事へ対する不誠実さを咎められることになる。実際そういった経験を何度も何度も繰り返し。今では、毎朝誰もいない時を見計らってはこうして献立の盛り付けや仕込みの内容を復習していた。
早起きは3文の得、と祖父がよく言っていたが、僕の場合、早起きで得られるもの3文どころでないと思う。
一通りの準備が済んで起床させるメンバーの順番を考えていたころ。魚のまな板の上にメモ書きを発見する。メモには「鱧2匹」と書かれていた。
首の後ろのあたりがうすら寒くなる。立ててあるまな板を戻して、調理場の裏にある生け簀に行くと鱧が3匹ゆらゆらと揺れていた。つぶらな瞳をしている。水槽から鱧を出す前に、エビの生け簀と貝類の生け簀を点検するとエビが一匹死んで異臭を放っていた。専用の網でそっと救いゴミ袋を変えたばかりのごみ箱にそっと捨てた。貝たちには何ら異常は見られなかった。
魚を一時的に閉じこめておくかごを用意して、魚たちを刺激しないように素手でやさしくそっと持ち上げる。2匹ともとても大人しいいい子たちだった。
僕は、その2匹の頸椎を出刃包丁で切断して塩水につけた。
親方は、魚の仕事を行う流しのすぐ後ろに陣取っている。それは、最も気を使う仕事が鮮魚を取り扱う仕事であり、それを最も効率よく監視できる位置がこの場所だからだ。
ここでは血の一滴、うろこ一枚の扱いですら気にかけなければならない。
はたして、ここまでする必要があるのか。
血のよどみの中でゆっくりと息絶えていく2匹の鱧を見ながら思う。
寝起きの悪いラントに気を使って起こす順番を最後にしたはずなのに、寮住まいの中で真っ先に調理場に現れたのはラントだった。
ラントは、調理場に入ってくるなり大股でこちらに真っ直ぐ向かってきて僕の膝のあたりを蹴った。もう慣れている、蹴られる瞬間に遊ばせておいた足に痛みは走ったものの。バランスを崩したりはしない。
「おはようございます、ラントさん」
ラントは血色の悪い顔に青い血管を浮き上がらせながら、僕をにらみつけた。
「おめぇよ、おはようございますじゃねぇだろ」
普通とは大分異なったイントネーションで話すラントはいつもこんな調子だった。僕に対してこの人はいつも怒っている。
「おめぇ勝手に魚やってんじゃねぇよ、お前がのんきに休んでるから、今日は俺がやることになってんだからよ」
左右に揺れながらラントが追々と寄ってくる。この動作にはいつまでたっても慣れる事ができない、ついつい怯えてしまう。
「すみません・・・・血抜きまで済んでますのでここからお願いします」
鱧たちの方を窺いながら答える当然目を合わせることができない。
「ここからお願いしますじゃねぇよ!よろしくお願いしますだろ。先輩に仕事引き継ぐんだったらちゃんとお願いしろよ常識だろ」
大声を出されると委縮してしまう。そんな自分がとても情けない。
「あの。よろしくお願いします」
「誰がやるかばぁか。途中までやったんだったらお前がやれよ。オマエな、いっとっけどここの人たちめちゃくちゃ甘いからな。オマエなんて別ンとこ行ったら半日でぶち殺されンぞ?」
何かが、体中を縛る。
結局。あのメモは、親方がラントに対して残していたメモだったようだ。ラントは親方の出勤と同時に任されていた仕事を完遂したことを得意げに報告した。とても満足そうで満面の笑みを浮かべるラントを親方は大げさに褒めた。もちろん僕は黙っていた。
宿泊客たちの朝食をあらかた出し終え、明日に備えて冷蔵庫に材料を補充している時だった。ラントが僕に近づいてきた、視界の真横からの接近だったが僕にはすぐにこの人影がラントだと確信を持って分かっていた。
「おい、お前」
普通の会話よりも大きな発声だ。この声量がいつもいつもいつも気になる。
「はい」
何か余計なことを言われないようにすぐに返事をしてラントを見ると、満足そうなにやけずらをしていて少し安心する。
「残りの魚・・・。ヨロシク」
ラントは少し照れるように、にやつきながら言った。僕の中で感情が渦巻く。
どうやら、デブの武藤に普段はできない仕事を教えてもらうらしい。むろんこれはお願いではなく命令なので僕が断ることはできない。解りましたとだけ伝え冷蔵庫の中身を整えると魚用の包丁と角メンキをもって先程の殺戮現場に舞い戻った。
魚の処理所のすぐそばに座っている親方は、一見不機嫌そうだったがいつもよりもずっと機嫌がいい。先程のラントに対する態度からそのことは透けて見えていた。ただ、うかつな発言をしないよう心がけた。
魚屋が持ってきた魚たちは足元の箱の中に氷漬けにされている。
直角に設置された流しのもう一方の場所では、数歳年上の佑馬がおろしたての鱧の骨切りをしていた。
佑馬の後ろには、献立の写真がびっしり張られた冷蔵庫があってそこに面する角の位置に親方の席ある。
今は、ほんの少しだけ慣れたが親方にいつ何を言われるかわからない状態で背後から仕事を監視されるのはやはり緊張する。初めてここに立った時は、この職場に来て僅か2日目の事だった。あの時、下処理をしたのは鰺だった。教えてくれたのは親方だった。
親方は、職場に来たばかりの僕を特別甘やかしたりは決してしなかった。今と全く同じ態度で僕と接してくれていた。その事に気が付き始めたの最近の事だ。
恐らく強張った顔で仕事をしていると背後から親方に声を掛けられた。
淀みなくリズミカルに響いていた、佑馬の包丁が一瞬止まる。
「みずっちゃん?」
プルプルと情けなく震えていた指の振動が止まる。幸運にも親方はとても機嫌がいい。
親方は、とても機嫌がいいと僕をちゃん付で呼ぶのだ。
「はい」
出し慣れない張りのある声を出すと我ながらつい驚いてしまう。
「お休みは、何をしていたのかな?」
佑馬の包丁が再び規則的なリズムを刻み始める。
振り返ると親方は、たばこを咥えた子供の様ににやけていた。僕は携帯しているライターで急いでタバコに点火した。親方の意識が火口に集中する。こんがりとした芳香が漂って口の隙間から煙を2度噴いたのを確認してライターを元の位置にすぐさま戻した。
「・・・」
鱧たちの骨を切り刻む音が止んでいる。
そうだ質問されていた。何かに当てないように包丁を持っている手を引き寄せて振り向き、いざ答えようと思ったのだが。正直に言うべきか否か一瞬の暇を挟み。
「買い物に行っていました」
正直に答えることにした。たばこをくわえた子供のように嬉しそうな親方は、噴かしたたばこを灰皿に一旦置いて、短く刈った金髪を掻き上げた。
「うーんそっか!イイね!若いうちはね遊ばないとだめ!俺とムトウちゃんなんて休みの日なんて寝なかったもんな!!なぁ!!!!」
流しの前に置かれた包丁や調理雑誌が並べられた棚の隙間からムトウが親方の方を見て
「ふあい」と答えたのが見えた。
その顔は職人の様に厳しい表情を浮かべて、手元と足さばきは素早く、横顔は汗と炎で濡れている、その向こう側で陰になっていたがラントの姿がちらちらと此方を覗いていた。
親方とムトウは、元々こことは別の旅館の先輩と後輩同士で、親方はムトウについて。一番仕事ができて馬が合ったのだ。と、いうが当のムトウは以前僕と二人きりの時に『この禿げた頭は、親方からストレスを受けすぎたせいだ』と、職人の顔で言っていた。
親方はデスクに散乱した紙の中から今日の滞在客のリストを右手でつかんで目を通しながら煙草をふかし、まだ十分吸えるほど長さが有るのにも関わらず流れるような作業で灰皿に押し付けた。僕は、手を前に組んで親方を見てじっとしていた。早く仕事がしたい。せっかくの魚達が温まってしまう。
「ん。やりながらでいいよ」
「はい」
また、少し驚いてしまった。背後でぺらぺらと紙が湾曲する音がする。
「んで、誰と行ったのよ?」
ぎょっとする、僕は用もないのに水を流して、間をごまかした。
「その・・・」
「彼女と行ったんだよね?」
佑馬だった。佑馬は、丸坊主の背の高い青年でムトウほどではないががっしりしている。眉毛をすっかり薄く剃った面構えは一見厳ついが小さな歯を向いて笑う笑い方はとても愛嬌があり、痩せた大仏のような顔になる。
そして、佑馬はいつもズボンを腰の下あたりで履いていた。
「万が一にでも。そういう・・・仲になれればいいのですが」
「女と一緒だったのか!いいねいいね!俺の弟子なんだから、どっちからもモテてくれないとな!俺もお前くらいの時は毎週違う女と遊んだもんだ!なぁむとっちゃん!!」
僕の声はすっかりかき消されてしまったが。
無意識のうちに親方にアドバイスを求めたい。と思う気持ちが芽生えていた事に僅かに狼狽えた。親方が話始めなかったら聞いてしまっていたかもしれない。
しかし、結果としてよかったかもしれない、もし毎週違う人とそんな関係を持ってしまったらきっとどうにかなってしまう。
「親方のムトウさんから聞いた話。面白いですよね?」
「あん?なんだって?」
エッジの利いた親方の声の後、たばこに点火する音が聞こえた。佑馬のライターだ。
「あの、風俗3軒回ったらムトウさんだけ3軒ともおばちゃんだったって話です」
佑馬は、仏の様に笑っていたが僕にとって、とても嫌な予感がする話しだ。聞きたくない。
「ぁあ!あれな!!!初めの店でムトウがババアだったってガッカリしてて仕方ねぇから2件目言ったらまたババァでな!!!」
なんて。失礼な話なのだろう、聞いていると嫌な気持になる。しかし親方は止まらない。
「んでな!!!」
たまらず吹き出しながら親方はつづけた。
「3軒目行ったら今度は一番ばばあだったんだよ!!!」
「肩に湿布貼ってあった!!湿布!!」
いつの間にかこちらに寄ってきていたムトウが佑馬に得意気に言った。二人は当時を思い出したのか勢いよく笑ったが、僕には何がそんなに可笑しいのか全く理解できない。
それと同じようにこの人たちには今、不当に笑い者にされているその女性の事など全く理解出来はしないのだろう。静かにただ静かに存在を透明にする。不快な話は、その後しばらく続いた。
気分が悪い、自分がひどく穢れてしまったそんな気持ちになる。里美に会いたい。あって僕は違うと伝えたい。そんな事をしても何も変わりはしないのだけれど。
昼食を取って片付けをして、一番最後になってしまったが今日の休憩時間は1時間ほどだった。
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