バク

車窓からの日差しが温かく、丁度身体の半分くらいを温めるものだから、いつの間にか眠ってしまっていた。

起きたのは偶然だったのか終点列車特有の慌ただしさからなのか空腹からなのかは分らない。

柔らかな日差しの中にいる里美と目が合った。彼女はいつもよりも、とても穏やかな表情に見える。

夢を見ていたような、見ていないような。どこかぼんやりとした頭だけ吊られているようなとても気持ちの良い気分だった。


「スヤスヤ寝てたよ。赤ちゃんみたいに」

その態度は、僕が謝罪するのを待っていた。


「あたしの、実家の話がそんなに退屈だった?自分から聞いてきたくせに」

里美の実家の話を聞いていた、確か看板屋とかいう、一風変わった商売を生業にしているというところは覚えている。それから、昔付き合っていた彼氏の好物がフライドチキンで。

それから、とても両親のことを大切に思っていたような気がする。全部は思い出せないが僕はしっかりと聞いていた。しかし、追憶と発言は同時に出来ないようで。

「終点でちゅよ、電車降りなきゃ。タッチちてくだちゃぃ」

とっさに言葉が出てこない。言われるがままに立ち上がると酷い目眩がする。


 窓辺の日向から影の中に移動し電車を降りると気体が勢いよく噴射して電車のすべての扉が閉まる。駅員さんたちを待たせてしまったのかもしれない。だとしたらとても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


外は、涼やかだった。線路をまたいだ向こう側には電車を待つたくさんの人たちが見えた。その向こうもまた、線路になっている。

「人がいっぱいだから、きちんと付いて来てくだちゃいね」

いつまでその話し方をするつもりなのか、終わりは見えない。

改札口を抜けた空間は開放的で、高い天井に備えてある3角形の屋根には透明な板がはめ込まれている、そこから入る天然光が駅内を明るく照らし、細かな塵や埃を透き通る柱のように映し出していた。

 そこを大勢の人たちが忙しなくすれ違ったり追い越したりしながら動き回っている。

一見、暇そうな格好をした人までもが忙しそうだ。見ているだけで目が回ってしまいそうになるから、出来るだけ誰の事も見ない。

 

 里美はきっと気遣ってくれたのだろう。出来る限り壁際をゆっくりと歩いてくれた。そのおかげで、彼女からはぐれずに歩くことができた。

 

 やがて、アーチ状に大きく壁がくりぬかれた場所に出る。光の中から現れる人々には後光が差して、どこか神々しい。

里美は、まっすぐそこに向かう。やがて、神々しさは、近寄りがたい忙しさに代わり。灰色のバスターミナルが見えてくる。

 

駅と外との境界で吹き込む風が里美のワンピースを持ち上げて、わずかにたなびいて白い靴と足がチラリと見えた。


 暖かい昼下がりの光の中を二人で歩く。里美の歩は軽やかで力強い。

駅から出たばかりは他の通行人と行き違いになる事も多かったが、ターミナルから少し離れたこの場所は、大きな公園の敷地内になっていて皆が一様に同じ方向に向かって進んでいた。平日の昼間だというのに小さな子供や親子連れが多く、意外にも僕たちはこの集団に溶け込んでいた。

そうしているうちに、集団は、動物園に到着する。


「ここ、来たことある?」

周囲の騒音の中でも聞き取れるほどの、それでいて目立ちすぎないちょうどよい声量で僕に尋ねた。

「ありません」

僕の声はいつもと同じく小さい、人前で目立ちたくなどないから自然と声も小さくなってしまう。とっさに里美の顔を見てしまって目が合ってしまうのは。不覚だった。

「ええ?聞こえないよ!」

それは周りがうるさいからなのだけれど、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。聞こえないのであれば近くにきてくれればいいものの、里美は僕の方を向いたまま後ろ歩きで入場券売り場に落ちていく。

いくらまばらな人込みといえど子供も多い。

前を向いて歩かないと危ないというのに。

「里美さん・・。危ないですよ!」

停まっていた足を動かして里美を追う、他の人に、特に子供にだけはぶつからないよう注意を払う。

「ええー?何言ってるか聞こえないよ!」

 ざわめきや足音そして遠くで聞こえる駅のチャイムその中でもはっきり聞こえるくらい大きな声だ、幾人かは里美の存在を気にしたに違いない。

 耳に当てた手は忠告を聞くようなそぶりを一切見せない。それどころか今度は、ふわりと一回転してまた行ってしまう。いつもの黒い厚底靴では到底できない芸当だ。本当に、危ないと言っているのに!

「里美さん・・・!」

 調理場内を素早く静かに移動することで身に着けた駆け足に近いすり足で里美に近づき手首をつかんだ。

「なに?」

動物園がそんなのも好きなのか?少しも悪びれる様子がない子供の様に嬉しそうで無邪気な顔だ。僕の顔は大層必死だったと思う。

馬鹿馬鹿しい。


僕たちは、その場で少しの間、本当に少しの間、とどまった。

周りの人込みは、よどみに漂う木の葉が積の上を流れるようにゆっくりと確実に、入場券売り場に吸い込まれていった。誰も僕たちのことなど気になどしていない。皆それぞれの時を過ごしている。

「危ないから」

きっと、日差しのせいに違いない。細い手首を出来るだけ優しくそれでいて離されないように掴む手の平に、じっとりと汗をかくのを感じた。





 入場ゲートをくぐり立ち止まり先程のパンフレットの中身を確認してみる。

そして、無意識に飲食店の位置を確認した。


ほぼ一本道の順路の中に、爬虫類館を見つけた。

僕は、爬虫類が少し苦手だ。苦手なものを、無意識に目で追ってしまうこの習性は、昔から変わらない。

「みてみて!爬虫類館だって!」

そんな気持ちを知ってか知らずか、パンフレットを横からのぞき見していた里美が爬虫類館の存在をあざとく見つけ出した。

里美は、妙な臭いを放つ爬虫類の革でできた奇妙な財布を愛用している。

「いいですけど…‥」

せっかく楽しそうにしているところに水を差してしまうのも悪い気がして、頼りない返事をした。

「ああでも、先御飯だねお腹すいてるって言ってたもんね。ここ見て、ほら!イタリアン!」

「隣にお蕎麦屋さんもあるみたいですよ?」

「ううん!ボンゴレビアンコが食べたいの!」


 ランチの話など歩きながらでもできたのだけれど入園早々立ち止まって協議した結果に特に不服はなかった。

動物たちも食事の時間のようで、多くの動物達が餌を食む最中だった。それらは、殆どが野菜くずだった。

 動物というのは一様に表情がない。ものすごい勢いでそれらをほおばるのだけれど、いったい何を考えているのか彼らの感情を推し量る事はまるで出来ない。

 彼らは自然界で一体どのようなふるまいをしているのだろう。

 

 複数で飼育されていて競争心がほのかに残る動物たちの場合はまだ想像できるが、一頭で飼育されている特にパンダなどは、同じ場所に座ったまま笹を食べ続ける姿をどれだけ観察しようとも自然界での営みが皆目見当がつかない。

 パンダは、熊のような見た目のネコ科の動物だ。遠い国から海を渡りこの場に連れてこられた経緯にはとても同情する。

分厚いアクリル製の檻で手厚く保護されたそれは、檻の前に訪れた時からずっと同じ場所に座り、笹を食べ続けていた。

自然界でもああして生活しているのだろうか。目の周りの黒い隈のような模様も相まってその感情を読み取ることは難しい。そうでなくとも動物の感情はわからないというのに。

 彼らはなぜここに連れてこられたのか、何のために生きているのか、何のために生まれてきたのだろう。子供が抱くような身の丈を遥かに超えた僕の疑問をあざ笑うように動物たちは、黙々とエサをむさぼり続けた。僕は、空腹だった。


 大勢の人だかりを発見する。どうやら隣の動物のようだ。

もう少しカバの食事の様子が見たかったが、里美に手を引かれて小走りで人込みに突入した。

 後ろではちょうどカバが大きな口を開けて口の中に放り込まれたキャベツを丸ごと一つ粉砕して美味しそうに食べていた。一度あんな風にキャベツを食べてみたいものだ。

 集まっている人たちは、好奇心に吸い寄せられるように檻の中の動物を眺めて時折、同伴者にしきりに質問し。合間、小さな歓声を上げていた。

「わーすごいすごいすごい!みずき君!すごいよ!」

 僕より数歩先を進んでいた里美は檻の中の様子をいち早く確認したようで、まるで子供の様に興奮していた。

 背伸びをして檻の中を見ると、そこはバクが飼育されている檻だった。

 そして衆人環視の見守る中、檻の中央で2頭のバクが今まさに結ばれようとしていた。思っていたよりも滑らかな毛並みをした白と黒の2頭のバクに僕の眼はくぎ付けになった。

 そしてそれは僕だけでなくその場に居合わせた皆がそうだった。普段と異なり後ろ足で立ち上がったバクは、たびたび食い違った。今にも転びそうな不安定な体制で懸命にバランスを保とうと勤めている。

 残酷なことに、もう一頭は素知らぬ顔をしてエサを食んでいた。自らの運命に挑むような姿をその場にいた誰もが固唾を飲んで見守った。

 

やがて、2頭のバクは運命に導かれるように結ばれた。


 あたりから、押し殺したような小さな歓声が巻き起こる。

 子供たちが純粋な疑問を大人たちにぶつけたが。その場にいた大人たちの誰もが鉄の団結で沈黙を貫いた。バクたちが落ち着きを取り戻すころ、それに呼応するように大人たちも肩の力をすっかり抜いて檻の周りから離れていった。


だったね!バクだけに!」

里美には、ガッカリさせられる。

「ねぇねぇ!聞いた?!」

僕は目を輝かせながら近寄ってきた里美からその距離だけ離れることにした。

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