鏡の中のあなた

瑞樹みずきさんって趣味とかないんですか?」

業務中の唐突なタツミの質問だった。

タツミは殆どの場合、自分の事しかしゃべらないので、突然の質問に僕はあたふたしてしまう。そうでなくてもゆっくりと話している暇などどこにもないのに。

「僕は、ないかもしれません」

手を動かしたまま、埋もれた記憶を巡るが、趣味と呼べるものは、やはりなかった。全く持って退屈な発言に僅かな悲哀を感じる。

タツミはわざわざ手を止めて語気を強めた。

「絶対何か持った方がいいですよ!僕は、キャバクラとパチンコですねぇ!この前、駅前に新しい店がオープンしたんですけどそこの女の子がかわいい子ばっかりなんですよ!だから今度ラントさん誘って行こうかと思ってるんです!」

タツミは、ラントと気が合うらしかった。その事については、少しだけうらやましい。話の内容は何が何だか分からない。

「何の店なんですか?」

「キャバクラに決まってるじゃないですか!」

「気を付けて行ってきてください」

「僕昔、キャバクラの女の子。20人くらいの店なんですけど、7人と付き合ってたことあるんですよ!」

タツミのこの手の話は、大変長い。そして退屈で、どれも似ていた。なので途中から聞かないことも多かった。


「絵とかかいてみたらいいじゃないですか?」

「え?」

知らぬ間に、話は僕の趣味の話になっていた。

あの狭い部屋は、よく日差しが当たる。天気のいい日にあの狭い部屋の真ん中にキャンバスを置いてのんびりと絵を描く、そんな光景がふと目に浮かんだ。

「いいかも。しれません」

「今日また瑞樹さんの部屋行っていいですか?」



従業員専用出入り口の側で里美を待った。

休憩は30分も取れない。

このわずかな時間に里美に会えればいいのだが・・・。

しばらくすると里美が出入り口から出て来て安堵する。

仲居用の漆塗りの下足を軽やかに鳴らしながら現れた里美は、扉から出たところで丁寧に、とても真面目に中に向かって一礼をした。つい過剰に、大きく見えてしまうお尻を見てしまう。里美はすぐこちらに気が付いていつもの姉貴風を軽く吹かしてから、うんと伸びをした。

「つっかれちゃった・・・!」

日を浴びながら伸ばされる里美の体からは、筋や肌や骨がきしむ音が聞こえてくるようだ。

「お疲れ様です」

「おつかれさまー」

「絵を描いてみようかと思うんです」

「ううーん。良いんじゃない?」

「でも、道具がないんです」

「それでぇ?」

「ですから、今度一緒に街まで・・・お願いします」

「え?」

「だめですか?」

「んふ、良いよ!」

半月後の重なる休みに街に行く約束をした。

 


絵を描き始めるなどと言う浮かれた考えを何かで察知したのか、その間ラントにいつもよりたくさんの暴力に曝される。


最近、ラントの様子がおかしい。


 以前は、僕の失敗を咎める手段の一つとして暴力をふるったがこの頃は、生活態度が悪いだとか、毎朝皆を起こしているからと言って調子に乗るなだとか、休日も呼び出しに対応できるように携帯電話を持てだとか、たまには先輩にキャバクラをおごれと言った、訳の分からない理由で暴力を振るうようになっていった。

今日も、湧き上がる恐怖を必死で抑えて身体の震えだけは悟られないように努めた。それは今現在も続いている。

「オマエ、なめてンだろ?」

「・・・いえ、なめてません」

「なめてる奴は、みんなそーゆうんだよ!!」

「すみません・・・・」

「ったくオマエは、マジでムカつくな。ムカつきますよアナタは!!自分で解りますか?!」

「すみません・・・」

ラントからの暴力は、日増しに増えていき何よりも不気味だったのが、その理由が明確に解らない事だった。

しかし、新しく何かを始めるということが、僕の苦痛を大きくやわらげた。


そう、絵を描くのだから少しくらい嫌な思いをしてもいいじゃないか。





 里美は。出かける日にいつも僕より早く駅で待っていて、僕の分まで電車の切符を買って待っていた。

今回は僕が誘ったようなものなので、約束の時間よりも1時間早く駅に行き、里美の分まで切符を買うことにする。


確かいつもこうやって、そう。


無事、二人分の切符を購入することができた。


この辺りは山の中腹辺りに位置した地域で、旅館とこの駅のほかには建設中の建物以外何もない、物寂しい立地だが過剰にあふれかえった都会の人間たちが安らぎを求めこぞって訪れるため、里美を待つ間に何度も沢山の人を乗せた電車が通過した。

 思いのほか人目が多く落ち着かず、目の前を誰かが通過する度、寮に戻ってしまおうかとも思った。けれど、もしその間に里美が来てしまったら切符が無駄になってしまから、やはりそうもいかない。


 今日は本当にいい天気で暖かい。そよそよと風が吹き通る駅のホームに壁は無く雨をしのぐための屋根と、窓と扉を全開にした古びた駅舎があるだけで、線路の向こうは自然の山肌になっている。この山肌には、たくさんの紫陽花が植えてあって、夏になると下の道からでも伺える程の鮮やかな藍色に染まる。

 アジサイは、梅雨の時期に咲く花で、小さな花が球状に集まった見た目をしている。一般的に青いものと赤いものがあり。これらは品種の違いではなく発生している土壌に含まれる成分の違いで発色が異なるのだが、この駅の山肌に群生している紫陽花は青かった。

特別香りが強い花ではないのだけれど、夕立に濡れる紫陽花はとてもいい香りに見える。


 駅舎の椅子に座って呼吸していると体の一部だけが日に当たる。その部分がとても暖かい。なんだか、亀になった気分だ。

束の間、ひんやりとした空気がどこからともなく流れ込む、見上げれば雲が太陽を隠していた。

 雲と言っても雨雲のような圧縮された灰色ではなく、ほわほわした綿のようにとても柔らかそうな雲だ。

そして雨が降る。

雨はじょうろで水を撒いた様に地面を撫でてすぐに止んでしまった。

雲間から日が差し、また陰って、再び亀になる。

暖かくて、ひんやりして、さらさらして、しっとりとしている。すべてが混ざり合うのはまだまだ先だ。

きっと、その頃には山肌の紫陽花も咲いているのだろうか。

そして、里美はまだ来ない。


「また眉間に、皺寄ってるよ」

里美なのか?一瞬見間違えてしまった。いつもの派手な格好はどうしたのだろう。

顔の化粧もいつもよりずっと薄く、白のセーターにエプロンのようなオリーブ色のワンピースでそこから延びる足はとても白くまるで別人だ。

靴底を少し引き延ばしただけのような面積の小さい白い靴は、いつもと違う。

雨に少し打たれたせいではきっとない、思わずしげしげと見てしまう。本当に、里美なのか?そんな事よりも何か言わなくては、そう思いつばを飲み込んだ。


「似合う?」

いつもより自信に満ちた顔だった。

「はい、その、とても」

里美は、フフと少しだけ含み笑いをした。

「今日、天気予報だと晴れ時々曇り後雨だっていうから、どんな格好してこうか悩んじゃったよ、さっきだって少し雨降ってたみたいだし。大体晴れ時々曇り後雨って何?って感じ、ねぇ聞いてる?」

聞いていなかった。

「今日は、とてもいい天気ですね」

「なぁにそれ。おじいちゃんみたい」

里美はクスクスと笑った。

年寄りのようなことを言ってしまった。

「切符、今日は僕が買っておきました。二人分です」

「今日は、君が誘ったんだもんね」

今日は僕が誘ったから。

「早く、電車きちゃうよ」

もうホームに行かないと。

里美の後を影の様についていく、いつもと違う香りがする。

雨に打たれたせいではきっとない。


それ程時を待たずして、ホームに電車がやってきた。

ホームで待った時間は、僅かだったがその僅かな時間ですら所在ない。この人は本当に里美なのだろうかと、いまだに疑ってしまう。里美はこんなにも小さかっただろうか。いつもはほんの少しだけ偉そうに姉貴風を吹かせる彼女はすっかり息を潜め、いつものおしゃべりもどこかに忘れて来たかのように、今日はあまりしゃべらない。こちらが気を使って、つい口を開いてしまう。

「今日は、少しだけ電車こんでいますね」

「うん、そうかも。ぴとぴとぴと・・・」

手すりを持ったまま、里美がこちらに少し寄って来て、お互いの身体の側面が触れる。触れた感覚はいつもより柔らかくて暖かかった。オリーブ色のワンピースは撫でまわしたくなるような肌触りをしていた。

他人からの目が気になる。

「省スぺだよ」

「・・・はい」

少し寄りかかる。今日の里美からは僅かばかりのしおらしさを感じた。

働き者の電車は、騒々しく音をたて景色をスライドさせていく。


「あの、里美さん。今日は、画材道具最低限でいいのでそろえようかと思っているんです。だから、最初は、あまり荷物にならない小物を買いそろえてから帰りがけにかさばるものを買おうと思うんです。なので、途中で寄りたいところとかあったら言って・・・・」

絵というのは鉛筆一本と紙があれば描けてしまう。いざとなれば、それでも構わない。

話すことが苦手だとは言え、随分と回りくどい言い方になってしまったと自ら思う。

「ごめん。よく解らないかも」

いつもより小さい里美は、前を向いて動かないままそういった。

「・・・・」

里美の珍しくつまらなそうな態度にがっかりしてしまう。

不機嫌なのか?それとも体調でも悪いのか?

つまらないのか?そのどれかなのか?そのすべてなのか?不機嫌なのか?とても。

とても。

とても、気になってしまう。


里美の表情はうつろで、ぴたりと触れ合っている側面の熱だけが温かく。

僕の体はすっかり冷たくなっていた。


パアン!


電車の騒音がくぐもった音に代わり、麗わしい山々の景色が右から真っ黒に塗りつぶされた。


トンネルだ。


真っ黒になった電車の窓に僕と里美が映しだされる。


すると。向こう側の里美と目が合った。


それから、こちらの里美とキスをした。


夢か幻の様に、トンネルを抜けると僕たちは先程の様に側面だけをぴたりと着け、無言のままスライドされていく景色を虚ろに眺めていた。

「今日は、どこでご飯食べましょうか?」

「うーん、どこにしようあんまりお腹すいてないからなぁ」

「僕は、すいています。でも我慢できますから、後でも全然かまいませんけど。交差点のところの中華屋さんはどうですか?この前新メニュー準備中って書いてありましたから、もしかしたらもうお店で注文できるかもしれませんよ」

「中華って気分じゃないかなぁ」

依然として前を向いたままだった。

「じゃぁ、通りのイタリア料理のお店はどうでしょうか?ボンゴレビアンコが食べたいです」

ボンゴレビアンコと言う言葉は、覚えたて。

「1階にある方?」

「2階にある方です」

「うーん、そんな事よりさ」

「・・・はい」

「犬と魚どっちが好き?」

「犬です」

「じゃ、決まりだね」

食べ物の話ではきっとない。



 いつもの麓の駅に着くと里美は、ずいぶんと遠くの駅までの切符を僕の分まで購入した。普段通る階段を降りずに、ずっと手前の階段を降りると見慣れないホームにたどり着く。なんども来慣れた施設のはずなのに、見る位置や方向が違うだけでなんだか全く違う場所に来てしまったような不思議な感覚に見舞われる。


そして、示し合わせたかのようにすぐに電車はやってきた。内容は違うのだろう、聞きなれた駅員のアナウンスが流れ、赤い車両の扉が開き、僕たちは電車に乗った。

山中の電車に比べこの快速電車はとても空いていたため、僕たちは本来4人掛けの向かい合わせの席に向かい合うように座った。

やはり、この小さな里美はまだ見慣れない。そう思ってしまう。彼女と目が合う前に止まった窓に目をやった。

電車が動き出すと、里美は少し尻を持ち上げて座り直した。


「どうして絵なの?」

思わず、目が合ってすぐ外の景色を見直した。

「ある人に勧められました」

 タツミに勧められたと答えてもよかったのだけれど、この場にいない人の名前を出すことには強い違和感があった。

「ふーん・・・」

見られている、目を合わせたくないので、どこをどう見られているの見当がつかないが、とにかく僕は里美に見られていた。

何とか注意をそらしたくて、なんといえば一番効果的なのか、頭脳を総動員して考えた。

「・・・里美さんは」

少し声が上ずって、大きくなってしまう。

「里美さんは、趣味とかないんですか?」

上等な切り返かもしれない。

「うぅん・・・・」

目線をしたに向け悩み始めた里美を見て、少しほっとする。

「私は、お酒かな・・・?」

小さな里美は、少し照れ臭そうにいった。

「・・・少し苦手だけど飲めるようになったら飲んでみようかな」

下を見たままの里美を先に見ておく、こうしておけば目が合ってもいつも平気なのだ。苦手なのは、あとから目を合わせる事。

「いいよー、お酒」

里美が、窓の外に目をやる。

「いつも飲んでる、オレンジ色のお酒なんて言うんですか?」

「ん?あれ?」

里美と目が合った。

「カシスオレンジ」

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