あたたかい

一晩も経たない、数時間の間にすっかり甘えん坊になってしまった。

こんな気持ちは初めてだ、里美は暖かく柔らかい。それでいていい匂いがしてくっついているだけで満たされた気持ちになる。これが幸福なのだろうか。名前を呼ばれるとつい甘えた返事をしてしまう。とても情けない。だけど、この人にならそう思われてしまっても構わないと思う。

このまま、ずっと二人でどこかに行ってしまいたい。それから、それからどうするつもりなのか。


ふと、脳裏によぎる。


結婚という言葉。


人知れず、そんな有りえない。甘く、くだらない妄想に更けていた。


この人には夢も目標もある。

一時的に体を重ねるだけの関係、その中にも先にも何もない。


不安になって、里美の体に顔をこすりつけた。こうすると頭を撫でてもらえるとい学びを得た。

不安が嘘のように消え失せる。きっと、これは毒だろう。

けれども、抗うことができそうもない。それ程までに、甘美でとても心地が良がいい毒だ。


里美はこれからの関係について何も言わなかった。


僕も生家の事や将来について里美に相談することはなく、内心否定的な感情を持ちつつも、この関係ができるだけ長く続いてくれることを願っていた。



次の日、少しだけ寝坊した。

どうせ、いつもの様に全員が遅れてくるだろうから。

きっと、なにも変わらない。お互いに邪魔をしあわなければ間に合わせることなど簡単な事だ。


しかし、この日に限ってそれは、間違いだった。


油臭い調理場の玄関にはにすでに下足が収納されていたのだ。

一日起こされなかっただけで、彼らは皆、真面目になってしまった。

ともあれ、仕事が一つ減るのは清々しい。


調理場の入り口を開けて、挨拶をしながら中に入ると、全員が機械のようにまじめに働いて、ここぞとばかりに妙な目でこちら見た。

今日の遅刻者は僕で、それ以外は何も変わらないはずだった。 

 

初めての連休明けの調理場を見渡すと、この調理場の調理長がいつもの椅子に既に居た。


見える景色が一瞬固まったのと調理長が おい と声をかけたのはほぼ同時だったと思う。

こんな早くにいったいどうしたというのか。

こうなる事を、僕だけが知らなかったと言うのか。

調理長は不機嫌そうに言う、威圧するような鋭い色の瞳。


「お前、いつもこの時間に来てんのか?」


魔が差した。嘘をついてしまおうかとも思った。でも、正直に「はい。」とだけ答えた。

他の同僚達は違いますとは絶対に言わないという無意味な誓いを立てていた。調理長は、そうか、とだけ言ってしばらく黙ったのち。

「お前、遅刻だぞ。何やってんだ」

それだけだった。少々、あっけにとられてしまう。






 その日の、流れるように円滑に進む作業には、寂しさを感じる程だった。

今日は調理長がいつもより早く出勤しているのでみんなの分と、加えて調理長の分まで朝食のサンドウィッチを用意した。調理長は自らを『おやっさんと呼べ』と部下たちに言いつける変わり者だ。


この作業もすっかり慣れたもの。


 なんだか落ち着かないだけで、あとはいつもと変わらない、あれだけ早く集合したと言うのに仕事が終わる時間は何故か普段と変わらない、先輩調理師からの暴力も、また、変わらなかった。


唯一、変わったことと言えば、昼食の最中に上の階から降りて来た管理部の人間に、調理長がシフトの厳守を念押しされたことくらいだ。


大きなどんぶりの中身をつまんで思い出す。昨日の休みはとても充実していた。


たくさんの嫌なことを忘れて、安息が取れた気がした。もちろん、忘れてはいけないのだけれど。これから、あのような充実した時間が少しでも多くなると思うと嬉しい反面、不安もあった。



血液が胃に集まると意識は張り出されているシフト表に誘導された。

シフト表など、ここ数か月見てすらいなかった。見たところでげんなりするだけだと思っていたからだ。

あらためてでかでかと張り出されたそれに目を通してみると、それ通りに休んでいた者など、今まで誰一人いなかった事に気が付かされる。

あの火のような毎日は、この調理場の人間たちの、犠牲にした休日の上に辛くも成り立っていたのだから当然。


間に合うわけがない。


 人間関係が歪んでいる、加えて、調理長の説教、頑なに年下の仕事を手伝おうとしない先輩や、いつまでも仕事の覚えが悪い僕が、大きく仕事を遅らせているというのに。


間に合うわけがない。


そして、そういった日は、定期的に訪れ。やはり僕たちの新たな悩みの種となっていた。



 調理長は、本来仕事ができるタイプの人物だった。


しかし、自分が調理場に立つときは執拗に手下を使うため、全体の仕事は殆どの場合大きく遅れる事が多くなる。それは説教などよりはましかもしれないがやはり、釈然としないものがあった。


僕を除いて調理場の人間はみな異常なまでに我慢強い。

誰一人として日々の理不尽さに対して文句を口にする者はいなかった。

ただ一人、僕だけが里美と過ごす休日にだけ彼女にその事を口にした。


里美は、いつも暖かくてやわらかくていい匂いがした。


つい、迷惑だと知りつつ、それが自分勝手なワガママだと知りつつ、ずっとこうしていたいと思ってしまう。

いったい彼女が何を思っているかなど全く考えもせずに。




その日もいつものように忙しかった。

昼か夜かもわからない、僅かな仮眠を取ってからつい先ほどいた場所に戻ってくる、この油臭い調理場が僕の職場だ。


目覚め切らない脳を捻って、皆を起こし朝食を準備して調理長を着替えさせ飲み物を入れ・・・。

調理長の機嫌がよかったのか今日は説教が無く、それだけで驚くほど身も心も楽だった。

 

 夜のデザートを出し終えて、親方が帰宅の準備に入る頃。


僕たちには、まだ明日の仕込みが残っている。


調理士の一人が調理長に何やら挨拶をしている。

テツだ。

テツは僕より20歳以上年上の中年の調理師で、この職場に来た時から、何かと面倒を見てくれていた人物だ。

ここで働き始めた最初の日、僕は本当に何もできなかった。

その日の業務終了後テツは。

「お前、これから大変だぞ。頑張れよ」と、声をかけてくれたのだ。

それだけなら、この人の言葉を聞き入れなかっただろう。

しかし彼は、僕と自分の食事を作ってきてくれた。

それは、丁寧に、丁寧に、作られた。天ぷら蕎麦だった。

食事中テツは、何も語りはしなかった、

僕も、いただきますの後ごちそうさまでした。とだけ口に出しただけだったが。

その時、なんとなく彼の心に触れた気がした。あの味はきっと死ぬまで忘れない。


そんなテツは調理長との会話がひと段落すると、調理場を見直して。

よく通る声で皆に言った。

「皆さん、今までお世話になりました」

寝耳に水だった。

そして、さらに、その事を知らないのはこの場で僕だけだった。

急に不安が押し寄せて。

頭がぐらぐらして足元がスポンジのように柔らかくなる感覚がする。

この場所は明るすぎた。


耐えられなくなり、冷蔵庫が乱立するバックヤードにこそこそと移動する。

ここは、冷蔵庫や生け簀のポンプで騒音がする。

考える事を放棄し、ただ茫然と立っていた。理由もなく横置き式の冷凍庫のふたをパカパカ開けて。いつものように在庫を確認しているふりをした。その後いつもお茶を入れる流しの湯沸かし器でお湯を出して冷たくなった指先を洗った。そしてまた冷凍庫のふたを開けて中を見た。昨日と全く変わらない。在庫は完ぺきに管理してある。整理整頓もしてあるなのに。

テツは、辞めてしまうのか?


「おい、こんなところで何やってんだ?」


ドキリとする。

テツだ。


「いえ、ちょっと冷凍庫の在庫を見ようと思って・・・」


そんなつまらない言い訳をする。尋ねたいことがたくさんあったはずなのに、言葉が詰まってしまって出てこない。

ごまかすように、また冷凍庫を開けて、中を掻き回す。この行為は何の意味もない。

「俺が辞めるってお前知ってたのか?」

「いいえ、全然知りませんでした・・・。」

先に話してもらうのを待っていたのかもしれない僕は冷凍庫に手を突っ込んだまま間髪入れずに返答した。


なぜやめてしまうのだろう。

聞かねば。

聞かねば。

「テツさん、あの、どうして・・?なんでしょうか?」

ふり絞って出した声は、いつもより大きかった。

水槽のポンプと冷凍庫のラジエーターが再び騒ぎ出す。


テツは少し考えて、下を向いてため息をついた。

酷く困った様子だ。

僕は、心から後悔した。テツの苦悩がこれ以上増えるのは我慢できなかった。

テツは、しばらく下を向いて考えてから魚が卸されていない空の水槽をゆっくりと眺めた。

その姿は、自分にしか見えない思い出がそこに映し出されているかのようだった。


「俺ももう少し仕事ができればなぁ」


騒々しいはずのこの場所で。その言葉はとても鮮明で、とても鋭利だった。


そんなことはないと。言いたいのに、言葉にする事が出来ない。


 僕は、思わず泣いてしまった。テツの努力や苦労そして苦悩を知っていたから。

彼がこの職場を辞めてしまうのは、彼が悪いわけじゃない。そうじゃないのに、なぜ。

なぜ。そんなに悲しい顔をするのだろう。

僕はただただ情けなく泣いていた。

「おい!おい!なんで泣くんだよ・・?」

テツを慌てさせてしまった。

本当に申し訳なく、何よりも恥ずかしい。

「でもテツさん・・・それは・・・少し違うと思います」

声がかすれていた。必死で伝えたかったのに、こんな簡単の事すらままならないことに、やはり、腹が立つ。

「お前、俺のために泣いてくれんのか?」

テツは少しうれしそうだ。

何かを伝えなければならないのに何を伝えればいいのかも、僕にはわからない。

「お前、良いやつだなぁ」

僕の肩に乗せられた利便性を秘めた醜い手には、確かな熱が宿っていた。


その時だった。


「テツさーん、あ?お前もいたの?なにしてンの?」

最悪のタイミングで現れたのは、事あるごとに暴力をふるう先輩の嵐兎ラントだ。

僕が泣いているのに気づいていたのだろう、ぼやける視界の隅で、いつものにやけ面が見えた。

「おう、ラントどうした?」

テツの態度は、ほとんどの場合で変わらない。

「いぁ明日からの仕込みなンすけど、三橋さんに聞いても全然わからなくって。

テツさんに聞いてみてくれしか言わないンすよ。だめですあの人」


ラントの登場で僕の感情の猛りは瞬時に収まったが。彼の何気ない三橋へのダメ出しで、また憤慨したい気持ちになる。今日は何かがおかしい。

「え?みっちゃんわかるでしょ?まぁしかたねぇか、みっちゃんにも伝えたいことあるから。お前、メモ持ってる?」

「はい、自分ちゃんと用意しときました」

「じゃぁ、いいな」

テツは、そういうと調理場に戻っていった。

ラントとは出来ればあまり関わりたくない。

あの男は、何かしら理由をつけては、思い出したかのように暴力をふるう。

それが怖くて仕方がない。


殴られるのは痛い。

はたかれるのは怖い。


僕はまた冷凍庫に戻った。


今日は、この冷凍庫に助けられっぱなしだ。

そんな、逃げるような気持ちを察したのか、ラントは2歩ほどこちらに寄ってくる。

また、殴られるのかと思うと自然と体が強張った。ラントは、さらに耳元にまで寄ってくる。


「オマエも、いつまでも甘えてちゃダメですよ」


ゾッとする。



涙が引いたころ、調理場に戻った。すると件の3人は中央の盛台で打ち合わせをして。禿でデブで巨漢の副料理長のムトウが、立ちながら旨そうにどんぶり飯を食べていた。

「うわぁ~~!イエチィみたいなやつ来たぁ!うわぁあ~!」

親方が不在だと、この大男は柄にもなくはしゃぐのだ。


いつもならば、もう風呂に入っている時間かもしれない。

それでも、焦る気持ちを押し殺して、深呼吸して。

包丁を磨いて研ぐことにした。

 

 この時間、父の姿を思い出す。シミ一つない、沢山の包丁。

働き始めて感じた多くのことの中には。

あの包丁がこの調理場の何処にもない戸惑いもあった。

 実際に管理してみると包丁を常に手入れした状態にしておくのはとても難しい。

投げやりな手入れは、かえって表面に錆を生やす原因になってしまう。

あたりまえは、今では目標になっていた。

そして、この職場で最も手入れが行き届いた包丁を使っていたのがテツだったが、彼は、明日にはもういない。

けれど、不思議と不安は減っていた。

思えば、今日の為にテツは、様々なことを教えてくれたのかもしれない。


そんなことを考えながら包丁を磨いていると指を大きく切った。

「こいつ指切っちゃったょ!!」

禿でデブで巨漢のムトウが無駄に大きな声で全員に報告する。

まだ、どんぶり飯を食べている。幸せそうだ。

抜け目ないテツに比べ、僕はなんて間抜けなのだろう。

明日からはテツがいない、気を引き締めなければならないだろう。

 


やはり、まにあわない。


テツが非番の時は間に合うのに退職したとなると間に合わない。

冷や汗をかきながら、テツの影ながらの努力に今更感謝した。

目が回りそうになる。ラントは、そんな僕を見るたびに

甘えるな。

と、厳しい態度をぶつけた。

 

 テツが退職してから数日後、新たな人手が補充されることになった。

このことも僕は知らなかった。

タツミというサルの用な顔をした男だ、年齢もおそらくは、ラントと同じくらいか、一回り違うくらいだろう。

このタツミと言う男は、僕と同じく普通の人間より劣っている。そう思わせるような雰囲気を持っていた。そんな、この上なく失礼なシンパシーを彼から感じた。

 聞けば、タツミは多くの仲居たちと同じ派遣社員であるという。

社会経験や教養が著しく欠ける僕には、この年上の人物をどう扱うべきなのかまるでわからない。


 このタツミという人物は、中々におしゃべりな人物で。いくつも僕に質問を投げかけた、特に多かった娯楽の楽しさについて共感を求める質問に対する僕の答えは、まるで満足できなかったに違いない。ただ相槌を打つだけの存在に嫌気がさしてくるとタツミは、ラントの元へ向かい、気の合う話を再開するのだ。


会話の内容はパチンコとキャバクラと性風俗の話だった。

僕はそのどれも知らない。

 

 タツミの話は、僕にとって刺激が強かった。元々、都会のホストクラブでホストとして働いていたと言う彼の話は、暴力的で反社会的で、強く背徳的だった。

 そんな内容にもかかわらずタツミは、その動物的に穏やかな容姿そのままの口調で話すから。聞いていていつも不思議な気分になる。

 

 彼の所属していたホストクラブは住み込みのホストが何人もいて、それらと共に住み込みで働いていたという。

その事を語るタツミの様子があまりに得意げな為、逆に聞きずらく。

結局興味はあったが、それらの事を深くを聞くことは一度もなかった。


その時の名残なのか、タツミは休憩時間や自らの休日になると僕の部屋を頻繁に訪れることになった。


3畳ほどの寮の部屋は、どの部屋も同じ広さだった。


初めから設置されていたテレビと冷蔵庫は、直近の退職者の持ち物を、新人の為に取っておいてくれたものだそうだ。

 知り合う前はこんなにも思いやりのある人たちなのに、いざ知りあってしまうと彼らの僕の扱いは、常にぞんざいだった。

 

タツミは、自分の部屋には無いテレビを大層気に入り、部屋に来るときまって真っ先にテレビの電源をつけた。そして過剰に購入してくる酒と食べ物を広げて実に楽しそうに自分のことについて話し始めるのだ。

内容は途中で何時も堂々巡りしてしまう、この男はいつでも酒の飲みすぎだ。

 

大抵の場合、翌日が出勤日なので日を跨ぐまえにタツミには帰ってもらっていた。

残った食べ物と飲み物を持たせ、自らの部屋に戻ってもらう。

放置されたゴミは、タツミが帰った後に片付けていた。

おかげでタツミが部屋を訪れるようになってからゴミがだいぶ増えてしまったが、誰かが部屋に来てくれたことなど今までなかったものだから。この片付けもそれほど苦にはならない。

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