そんなつもりじゃ、ないのに
俺の家から学校までは、普通に歩いて二〇分かかる。
俺は毎朝少し早めに家を出て、ゆっくり三〇分くらいかけて登校していた。タケもユウタも家の方向が違うから、誰とも一緒にならずにひとりきり、口を開くことも
退屈な学校での時間はあっという間に過ぎて、すぐに忘れてしまうのに、登下校の時に考えたことだけは、みょうに頭の中に残ったりした。俺はこれからどんな人生を送るのだろう、とか、人は死ぬとどこに行くのだろう、とか。みんなは何を考えて生きているのだろう、とか。別になんの形になることもない、マボロシみたいな思いだけど。
だけど、最近では考えることはいつも、中村香織のことばかりになっていた。受け取った言葉や、俺が送った言葉が、頭の中をぐるぐる回ってる。
「涼介くん!」
不意に聞こえた声に、俺の静かな時間はあっさりとやぶられた。驚いて顔を上げると、さらさらの黒い髪が目に入る。
「中村……さん」
「ここで待ってたら、涼介くんに会えるかな、と思って」
ブレザー姿の中村香織は、ほっぺたを赤らめて、上目遣いで俺のことを見つめていた。
「ずっと……待ってたの?」
「ううん、全然……ほんのちょっとだけだよ! ……もしかして、迷惑だった?」
俺が思わず戸惑った表情になると、中村香織はおびえたような顔になってうつむく。今にも壊れてしまいそうな、捨てられた小猫のような目。――昨日まで不登校だった少女にふさわしい目だ。
「そ、そんなことないよ。迷惑だなんて――」
俺はあわてて言って、まだうつむき加減の中村香織にぎこちなく笑いかける。
「本当?」
「本当だよ。どうせ一緒に登校する相手もいないし」
「よかった! じゃあ、明日から、ここで涼介くんのこと、待っててもいい?」
――明日から? それって、毎日ってこと?
驚いて聞き返しそうになった言葉を飲み込んで、俺はうなずいた。
「ありがとう! ――実を言うとね、ひとりで行くの、怖かったんだ。学校、ずいぶん休んじゃったし」
中村香織の声が、急に深刻な響きになる。俺は何も言えなくて、ただだまっていた。こんな時にかけるべき言葉なんて、知らない。
「でも大丈夫。涼介くんが一緒だと心強いよ」
重苦しくなってしまった空気をふり払うようにそう言って、中村香織は笑った。追いつめられたリスみたいな、気弱な笑みだった。
学校への通学路を二人で歩いていたのだから、クラスメイトたちに目撃されないわけもなく、俺たちが教室に着く頃には「俺と中村香織が一緒に歩いていた」ということはすでにクラス中に広まっていた。
不登校だった中村香織が三日ぶりに、しかも俺と一緒に学校に来たことは、「中村香織の不登校の原因は俺だった」というウワサが本当だった証拠だと受け止められてしまったみたいだ。
「おはよ」
教室に入った俺がおそるおそる声をかけると、タケはちらっとふり向いて、何か言いたげに口をぱくぱくさせたけれど、結局何も言わずに顔をそらしてしまった。ユウタは、俺に気づいていないわけじゃないだろうに、こっちを見ようともしない。
「西川くん」
不意に名前を呼ばれてふり返ると、上橋さつきが立っていた。
「カオリンのこと、ありがとね。……っていうか、おめでとう、って言った方がいいのかな?」
そう言いながら、自分の言葉にニヤニヤと笑う。
俺がなんと言えばいいか分からないでいるうちに、上橋さつきは、いいのよ、言わなくて、とでもいうように大げさに首をふって見せた。
「今度カオリンを泣かせたら、許さないからね」
「ち、ちが、そんなんじゃ……」
俺の反論をさえぎるように、チャイムが鳴った。教室の前の扉がガラッと音を立てて、担任の山口が入ってくる。生徒たちはあわてて席に着き、俺は結局何も言えない宙ぶらりんのまま、あきらめて自分の席に着くしかなかった。
いつもと変わらない退屈な授業が終わって、俺は教科書とノートをカバンに放り込んで帰りじたくをする。
水曜日の今日は、部活の練習もないから、俺はすぐに家に帰るつもりでカバンを肩にかついだ。……もっとも、たとえ今日が練習のある日だったとしても、行ける気はしないけれど。
タケもユウタも、もちろん声をかけてこない。二人でなにやら話してはいるけど、極力こっちを向かないようにしているのが分かる。俺の方も何となく二人から目をそらすように、少しうつむきがちに教室を出た。
「涼介くん」
ドアを開けたとたんに聞こえてきたその声に、俺はあわてて顔を上げた。
「今日は確か、卓球部の練習はお休みだったよね? もしイヤじゃなかったら……いっしょに帰ってもいい?」
わざわざ俺のクラスの教室の前まで迎えに来ていた中村香織は、少しほっぺたを赤くしながら、小動物の目で俺に、そう言った。
# # # # # # # # # # # # # #
こうして俺は中村香織と、毎日一緒に登下校するようになった。
周りから見たら俺たちは、仲のいい恋人同士のように見えただろう。実際、そういう風に冷やかしてくるヤツも多かった。地味で目立たなかった俺が、女子と二人で歩いているだなんて、自分でも奇妙に思うくらいだし。中村香織はクラスの男子に人気があったみたいだし(まだ仲がよかったころのタケに聞いた話だ)、やっかみのようなものもあったのかもしれない。
二人で歩いているときはいつも誰かが遠巻きに見ているような気さえした。さすがにそれは自意識過剰だと思うけど。
でも実際の俺たちは、そんな風に甘い感じでは全然なかった。俺はどうしていいかわからなくて、二人で歩いていても、ほとんど何もしゃべらない。中村香織だけが、沈黙に耐えきれないように、時折みょうにはしゃいだ声で一方的にしゃべる。昨日のテレビ番組のこととか、クラスの誰かのバカな話とか、そういうどうでもいいことを。
そんな話だって、俺がちゃんと相槌をうったりしていれば、恋人同士にふさわしい、楽しい会話になったのかもしれないけど、俺にはそういうやり方も、そうするべきなのかどうかもわからなくて、ただあいまいに笑ってるだけだったんだ。
そんな状態でありながら、俺は確かに、中村香織の存在にすがってもいた。
あのとき以来、俺は卓球部に顔を出さなくなった。タケと目が合っても、声を出すことができない。ユウタとは目も合わせなくなった。おどろいたことに、二人としゃべらなくなると、俺が話すべき相手は誰もいなくなった。もともとそれほど友達が多い方じゃないことはわかってたけど、まさかこれほどだったなんて。
だから俺にとって、中村香織はいつの間にか、家以外で俺に話しかける唯一の存在になってしまっていたんだ。
俺だけじゃない。中村香織の方もそれは同じみたいだった。あの不登校以来、中村香織の友達はほとんどいなくなった。あれだけさわいでいた上橋さつきも、「カオリンはまた学校に来るようになってから冷たくなった」と学校中にふれまわって、あっさりとはなれていった。中村香織は、「あたしもさっちゃんのお節介にはうんざりしてたから、ちょうどよかったの」なんて言ってたけど。
「涼介くんに嫌われたら、生きていけないよ」
いつかの中村香織のそんな言葉を思い出す。テレビのラブストーリーなんかで使われそうな言葉だけど、何だか怖い言葉だ。
世の中の恋人たちは、本当に相手のことだけしか考えられなくなったりできるものなのだろうか。俺にはそんなこと、無理だって思う。
「ねぇ、あれって斉藤くんだよね?」
中村香織が耳元でささやいた言葉で、俺はわれに返って顔をあげた。中村香織が指差す先には確かにユウタが――斉藤っていうのは、ユウタの名字だ――いた。向こう側を向いていて、まだ俺たちには気づいてない。
どうしてユウタがここにいるんだ? ユウタの家は反対方向で、学校に行くときにこの道を通るはずはないけど……。
その理由はすぐにわかった。制服姿のユウタは、右手にスポーツバッグを持って、左手では小さな女の子の手を引いていたんだ。それで俺は、ユウタに幼稚園に通っている妹がいることを思い出す。ユウタの両親は二人とも働いているから、たまに妹を幼稚園に送ってから登校しているんだと、まだ仲が良かったころ、ユウタ本人から聞いたことがあった。
妹のことを話すときにちょっと照れた様子で笑うユウタの優しそうな笑い方を思い出して、俺は少しだけ寂しい気分になった。
その時。
幼稚園の入り口で、手をつないでいた妹を保母さんの方に送り出したユウタが、振り返って――目が、合った。
妹に向けていたのだろう、ユウタの優しそうな笑顔の余韻が、固まった。
目だけが動いて、俺と、中村香織を交互に見て、すぐに目をそらす。
俺も、ユウタのそんな様子を見ていられなくなって目を背けた。気まずい思いを抱えたまま、けれど何も見なかったふりをして、急いでその場を立ち去ろうとして、右足に力を入れた。
「斉藤くん!」
耳元で、中村香織がそう言うのが聞こえて、俺は驚いて顔を上げた。唇をきゅっと結んで、何かを決意したみたいな、中村香織の表情。
あわててユウタの方を見ると、ユウタも驚いた顔で中村香織を見つめている。
「どうして、涼介くんに嫌がらせをするの?」
精いっぱい強がっているのだろう、中村香織の声は震えている。今にも逃げ出してしまいそうなのを、必死で耐えているような表情だ。
それを押しとどめているのは、「正義感」だろうか。それとも、俺への愛情というヤツ? ……勘弁してほしい。
中村香織の思いがけない言葉に、ユウタの目が大きく見開かれる。真っ赤になった顔が、中村香織にではなく、俺に向けられた。
充血した瞳に込められているのは、怒りと、悲しみと、悔しさ――そして何よりも、恥ずかしさ、だ。
ユウタが、大きく息を吸い込む。力を入れすぎて震えている唇が、何かを言おうと、開きかける。
「ふざけんなよ!」
叫んでいたのは、ユウタじゃなくて俺だった。
驚いた顔をして振り返った中村香織の身体を、力任せに突き飛ばした。
悲鳴を上げた中村香織が、アスファルトの歩道に尻餅をつくが、怪我をしたかどうかを心配するような余裕はなかった。
頭に血が上っていた。視界が、一気に狭くなったような気がした。全身を駆け巡る感情をどうにもできなくて、夢中で腕を振り回した。
「いい加減にしろ! これ以上俺をぐちゃぐちゃにすんな!」
地面に倒れたままの中村香織にそんな捨て台詞を残して、俺は、その場を走り去った。
振り返るなんて、できるわけもなかった。
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