気持ちが追いつかない

 結局、一時間目と二時間目だけをサボって、三時間目が始まる前の休み時間に俺は教室にもどってきた。だけど、その日の授業はまったく頭に入らなかった。

 俺がおそるおそる中に入ると、さわがしかった休み時間の教室が、一瞬静まりかえった。誰も、何も言わない。

 俺がうつむきながら席に着くと、徐々にざわめきがもどってくる。顔を上げられなくて、俺は目の前にある机のキズをにらみつけていた。

 そうやって周りの様子から目を背けていると今度は耳がみょうにさえてきて、聞きたくもないのに教室中のおしゃべりを拾いはじめる。たぶん俺に聞こえないように、ひそひそと話している声まで、意味がわかるほどじゃないけれど、ラジオのノイズみたいに頭の中に飛び込んでくる。

 両手で耳をふさいでしまいたかったけど、そんなことしたら、まるでおかしくなっちゃったヤツみたいじゃないか。

 だから俺は、平静をよそおって――だけど顔は上げられないで――無表情で机のキズを見つめてたんだ。

 男たちは、だまって俺のことを遠巻きに見てる。女子はチラチラと視線を向けながら、ひそひそ話をしてる。たぶん、上橋さつきが何か言ったんだろう。俺に向けられる目は、非難の目だ。

 今まで俺はクラスの中で目立つ存在じゃなかったのに、今はクラス中が自分のことを見ているような気がした。

 そのうちチャイムが鳴って、三時間目の授業が始まった。三時間目は英語で、クラス担任の山口が担当だったけど、山口は俺の方をちらっと見ただけで、何にも言わなかった。



 まるで自分がそこにいないような、奇妙な授業の時間が終わり、放課後になった。今日は卓球部の活動の日だけど、とてもじゃないけどそんな気分じゃない。

 俺は急いで荷物をまとめていた。一刻も早く、教室から出たかった。

「ニッシー、帰るのかよ」

 俺の背中にかけられたユウタの声。声は少しふるえていた。まるで怒りを押し殺しているみたいだった。

「……うん」

 かすれた声で小さく答えて、俺はカバンをかついでふりむかずに歩き出そうとした。

「待てよ!」

 いつものおだやかなユウタからは想像もできないような、乱暴な声。

「逃げるのかよ」

「……逃げる?」

 ユウタの言葉に、俺はふりかえった。ユウタは顔を真っ赤にして、間違いなく怒っているみたいだった。そのとなりにはタケがいて、心配そうな様子で俺とユウタの顔を見比べている。

「なんで、言わなかったんだよ?」

 ユウタが、一言一言を投げつけるみたいに言う。

「何を?」

「中村香織のことだよ!」

 そう言って、ユウタの顔はますます赤くなった。その時初めて、俺はユウタが中村香織に片想いをしていたんだってことを思い出した。

「ニッシーは、中村と、メールしてたんだろ! 何で、俺たちに、言わなかったんだよ!」

 デカイ身体をふるわせて、ユウタがどなる。怒っていると言うより、泣くのを我慢しているみたいに見える。

 何でユウタは怒ってるんだ? 俺にはそれが本当にわからなかった。

「俺たちは、友達じゃなかったのかよ! 何で、何で隠すんだよ!」

 俺はユウタの言葉にハッとする。「友達」。

「ただ、言ってくれれば良かったじゃんか! そうしたら、普通に、応援とか、できたのに……なのに!」

「お、おい、ユウタ、落ちつけって」

 タケがあわてて抑える。ユウタは、興奮していた。時々途切れる言葉は、しゃくり上げているみたいだった。

「言ったら、俺が怒るとでも思ったのかよ! お前は、俺のこと、友達だなんて思ってないんだろ!」

 タケの身体を払いのけて、ユウタが大きな両手で俺の学ランのえりをつかんだ。すごい力と剣幕けんまくで、俺は身動きもできない。

「仲良くするふりして、本当は全然バカにしてるんだろ! 中村とだってそうだったんだろ! だから中村は学校に来なくなったんだ! 違うのかよ!」

 ユウタが俺のえり元をつかんだまままくし立てる。苦しいからというよりも、ユウタの言葉の内容に打ちのめされて、俺は息もできなくなった。叫んでいるユウタも、泣きじゃくっているように見えた。

「おい、違うのかよ! 何とか言えよ!」

「……そう、かもしれない」

 やっとの事で俺はそれだけ言った。そうとしか言えなかった。

 俺の言葉に、ユウタは一瞬だけ驚いたように目を大きく見開いて、俺のえりから手をはなした。

 俺はへなへなと尻もちをつく。身体に力が入らなかった。

「いつもそうなんだ。俺たちと話をしながら、お前だけはずっとさめてたんだ。俺たちとの会話なんて、バカバカしいと思いながら、適当に話を合わせてたんだ。俺は分かってたよ、分かってたけど、でも、友達なんだって信じようとしてたのに」

 ユウタはそう言って背を向けた。地団駄じだんだを踏むみたいにダンダンと大きな音を立てて、俺からはなれるように歩き出す。

「あ、おい、ちょっとユウタ!」

 タケは、ちらっとだけ倒れている俺の方に目をやって心配そうな顔をしてから、あわててユウタを追いかけていった。




# # # # # # # # # # # # # # 




 ぐったりして、俺は制服のまんまベッドに倒れ込んだ。

 あれからどんなふうにして家に帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。歩いていたのが通い慣れた通学路じゃなかったら、道に迷っていたかもしれない。それくらい俺は、ぼうっとしていた。

 ユウタに言われた言葉が、頭からはなれない。

『いつもそうなんだ。俺たちと話をしながら、お前だけはずっとさめてたんだ。俺たちとの会話なんて、バカバカしいと思いながら、適当に話を合わせてたんだ。』

 違うよ、そんなことない。そう言えなかった。友達ってのがどういうものなのか、俺にはずっと分からなかった。いつも一緒にいれば友達? 趣味が合えば友達?

 でも、ユウタは俺のこと、友達だって信じてたといった。信じようとしていたって。俺は、ユウタやタケのこと、信じていただろうか……。

「痛っ」

 寝返りを打とうとして、制服のズボンのポケットの中に固いものが入っていたことに気がつく。ケータイだ。

 ポケットから出して布団の上に放り投げようと手にとって、緑色の光が小さく点滅しているのにきづいた。

 着信のサイン。

「中村香織からだ!」

 俺はガバッ飛び起きる。昼に送ったメールの返事に違いない。

 心臓が、ビクン、とはねた。

 いったいどんなメールが来ているんだろう。

 俺は今度こそ、中村香織の感情を、受け止められるのだろうか。もしも受け止められなかったら、どんなことになってしまうんだろう。

 そんなことが頭をよぎる。頭の中がぐるぐる回って、なかなかケータイを開くことができない。俺の手に余るような内容だったらどうしよう。

 このままほっといてしまおうか。ふとかすめたその考えを、俺は頭をふって追いやる。そんなことしたら、また同じことになってしまう。いや、それよりずっと悪いに違いない。

 息を大きく吸って、ケータイを開く。ケータイのボタンを押して、液晶に表示されたメールのアイコンを開いた。


―――――――――――――――――――――――――――

From: 中村 香織

subject: ごめんね。


ううんあたしが悪いの。

ごめん勝手に舞い上がって迷惑だったよね。

あたし何勘違いしてんだって感じ。

もうあんなこと言わないから許して。

あたし涼介くんに嫌われたら生きていけないよ。

ねぇ、嫌いにならないで、お願いだから。

―――――――――――――――――――――――――――


 想像以上に重たい文面に、俺は息を飲んだ。

「ねぇ、嫌いにならないで、お願いだから」

 書かれた文字の重みに、息がつまりそうになる。

 こんなの、いったいなんて返せばいいんだ。

 もう失敗は許されない。きちんと中村香織の期待にこたえて正しい答えを返さないと、事態は悪くなる一方だ。そう思うのに、少しもいい考えがうかばない。

 誰かに相談したくても、相談する相手なんていない。「友達」かもしれなかったユウタやタケとは、気まずくなったばかりだ。

 ――ハル兄に相談してみようか?

 ちらっとだけうかんだ思いに、俺は首をふる。ハル兄は最近、すごく大きな仕事を任せてもらえることになった、って言ってた。今が正念場しょうねんばなんだ、って。つまらないことで、ハル兄をわずらわせたくなかった。

 だからといって、返事をしないわけにもいかない。「無言」にどれだけの力があるかは、嫌というほど思い知ったのだから。

『嫌いなんかじゃないよ』

 ケータイにそう打ち込んでみる。まるでドラマの中のセリフみたいではずかしくなったけど、仕方ない。


―――――――――――――――――――――――――――

To: 中村 香織

subject: Re:ごめんね。


中村さんは悪くないよ。

俺は、中村さんのこと嫌いなんかじゃないよ。

大丈夫だから。

―――――――――――――――――――――――――――


 あたりさわりのない、偽善者っぽい言葉。自分で書いていて嫌になる。

 だけど、他に書くことも思いつかない。あきらめて、送信ボタンを押した。

 返事はまもなく返ってきた。


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From: 中村 香織

subject: うれしい!!!


本当に?

ありがとう!うれしい!

涼介くんにそう言ってもらえたら、生きていけるよ!

涼介くん以外に心からそんなこと言ってくれる人、誰もいないから。

学校の友達はみんな、口先だけで、本当は全然好きじゃないんだ。

―――――――――――――――――――――――――――


 さらりと、そんなことを言う。あんなに「友達づきあいが」って言ってた中村香織が、そんなことを思ってたなんて。

 いったい女の子たちはどんなことを考えながら、いつもいつも楽しそうに笑っているのだろう。

 不意にみんなの笑顔が全部信じられなくなった気がして、息が苦しくなる。話している人全員の心の中を想像したら、普通に生活することなんてできなくなっちゃうんじゃないだろうか。

 俺は、これ以上話を続けているのが何だか怖くなって、急いでメールを打った。


―――――――――――――――――――――――――――

To: 中村 香織

subject: Re:うれしい!!!


ごめん、眠くなって来ちゃった。

それじゃあ、明日、学校で。

―――――――――――――――――――――――――――


 さりげなく、「明日は学校に来てくれよ」という気持ちを込めたつもりだった。これ以上、中村香織に不登校を続けられるのはきつい。

 なかなか返信は来なかった。迷っているのだろうか。

 そりゃそうかもしれない。何日か学校を休んで「不登校」なんて言われてしまったら、もう一度学校に行くようになるのにはすごく勇気がいる。

 たった数日だったら普通に「風邪だ」とか言っておけばいいのに、おせっかいな母親と上橋さつきのせいで、中村香織が「不登校」だってことは、学校中に知れ渡ってしまってるんだ。

 俺がそんなことを考えていると、ケータイが鳴った。


―――――――――――――――――――――――――――

From: 中村 香織

subject: 無題


うん、明日は行くよ。

行かないと、涼介くんに会えないもんね(*^^*)

―――――――――――――――――――――――――――


 まるで俺のために学校に行くみたいな文面にちょっとだけ嫌な予感を覚えながら、俺はなるべくそれを考えないようにしてベッドにもぐりこんだ。

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