なきごえは、おともなく

文月 煉

平凡な日常

 ハル兄の部屋には、余計な音がしない。

 ハル兄は仕事中に音楽をかけるのをいやがるし、この部屋自体大通りからかなり坂を登ったところにあるから、うちみたいに窓の外から車の音がひっきりなしに聞こえる、なんてこともない。

 何よりこの部屋にはテレビがない。うちでは誰かがいるときには必ずテレビがついているから、こんなに静かな部屋にいると、不思議な感じがする。

 聞こえてくるのは、たまにハル兄がキーボードを叩く、カタカタという小さな音だけ。

 俺はそんな静かな部屋の窓際にすわって、見晴らしのいい南向きの窓から見える遠くの山並みをぼうっとながめている。

 ハル兄は俺の親戚だ。母さんの弟だから、正確には叔父さん、ってことになるけど、まだ二八歳のハル兄は「おじさん」ってよばれるのをいやがるし、俺だってさすがによぶ気はしない。

 だから俺はいつもハル兄ってよんでいた。桐島晴彦だからハル兄。

 実際、ハル兄は俺にとって兄貴みたいな感じだった。十歳以上歳のはなれた兄貴。ずっと一緒に育ったわけじゃないんだけど。

 ハル兄とは俺が五歳の時までは一緒にくらしてた。寝たきりだったばあちゃんがまだ生きていたころ、介護のために父さんと母さん、それに俺の三人は、ばあちゃんの家、つまりは母さんとハル兄の実家で一緒に住んでいたんだ。

 しばらくしてばあちゃんは――俺はほとんど顔も覚えていないけど――病気で死んじゃって、ハル兄は東京の大学に行くために家を出て行った。じいちゃんはもっと前に死んじゃっていたから、そのすぐ後に俺の両親もばあちゃんの家を売り払って、今の家に引っ越したんだ。

 それ以来ずっと会っていなかったハル兄が、仕事の関係で横浜にもどってきたのは一年前、俺が中学校に入ったころだった。

 ハル兄のことを俺はあんまり覚えていなかった。なんとなく、優しい人だって印象があったくらい。

 だけど今では、俺はしょっちゅう一人でハル兄の家に来てる。

 デザイン関係の仕事をしているらしいハル兄はいつもパソコンに向かって仕事をしているから、別にここに来たからといっていろんなことを話すわけじゃないんだけど、この静かな部屋にハル兄と一緒にいるだけで俺はなんだかおだやかな気持ちになれた。

 こんなこというと、俺がなんか学校でいじめられてるとか、家に居場所がなくて逃げてるみたいに聞こえるかもしれないけど、別にそんなわけじゃない。

 学校は、まぁ、めちゃくちゃ楽しいとはいえないけどそれなりにうまくやってるし、家でだって、ちょっとばかり母さんがガミガミうるさいのと、休日しか家で会うことがない父さんがいつも不機嫌そうにしているの、それと妹の佳奈とすぐにけんかになるのを我慢すれば、まぁいたって普通。

 普通とは言っても普通なりに、それなりにストレスがたまることはあったりして、そんな時に俺はハル兄の部屋に来るんだ。

 全く連絡もしないで、いつも気まぐれにいきなり現れる俺に対して、ハル兄は「たまには連絡してから来いよ」なんて笑いながら、それでもいつも部屋に入れてくれる。

 ハル兄は、余計な詮索せんさくをしない。

 突然現れてぶすっとした表情の俺に、「何かあったのか?」なんてことは一切聞かないで、だまってコーヒーメーカーからコーヒーを一杯注いで、俺に渡してくれる。それから、またすぐにパソコンの前にもどる。

 ハル兄と一緒に静かな部屋にいて、何も話さずに窓から遠くの山を見ながらぼうっとしていると、俺をいらだたせたものがなんだったのかを、いつも忘れてしまう。それで俺はまたニュートラルにもどって、翌日からの日常を続けられるんだ。

「帰るよ」

 飲み終わったマグカップを片付けて、俺はパソコンに向かうハル兄に声をかけた。今日、俺がハル兄の家に来た原因がなんだったのかは、もうすっかり忘れてしまっていた。

 ハル兄は俺の言葉にほんの少しだけ目を上げてうなずいて、またパソコンに視線をもどす。俺はスポーツバッグを肩にかけて、玄関に向かう。

 金属製のドアを開けてハル兄の部屋を出る時、俺の背中にいつもの言葉がかけられた。

「涼介、また来いよ」

 俺は背中を向けたまま小さく右手を上げて、扉を閉めた。




# # # # # # # # # # # # # # 




「おっす、ニッシー。昨日のMステ見た?」

 俺が教室に入ると、タケが窓際まどぎわの俺の机んとこに飛んでくる。教室の中をちらっと見るとユウタはまだ来ていないみたいだから、話し相手がいなくて居心地が悪かったんだろう。

「最後んとこだけ、ちらっと」

「最後? んじゃ、最初のアーク見なかったのかよ、もったいねー」

 タケがそう言いながら大げさに笑う。アークというのは流行りのロックバンドだ。俺もタケも、別にそれほど好きなわけじゃないけど、何となく聞いている。

 それくらいしかみんなと話すネタがない、ってのが正直なとこ。

「ユウタは?」

「さぁ、まだ来てないな」

「最近あいつおそいな、めずらしい」

 俺が何気なくそう口にすると、タケがわざとらしくニヤリと笑った。

「もしかしたらあいつ、どっかで逢い引きでもしてるのかもしんないぜ?」

「逢い引き?」

 なんて古風な言い回しだ。

「あれ、ニッシー知らないの? ユウタのヤツ、となりのクラスの中村香織とつきあってるってウワサがあるんだぜ?」

 タケはニヤニヤした顔で、とっておきのヒミツを打ち明けるように俺にささやいた。

「へー、そうなんだ」

 俺は、驚いたようにあいづちを打ってみせる。本当は誰と誰がつきあっているかとか、そんなことはどうでも良かったけれど。そんなふうに口に出してしまったら白けてしまう。

 タケとユウタと俺は、同じ卓球部の仲間でクラスメイト、ってことで一応、仲のいい友達ってことになっている。

 教室の中で一人だけ孤立こりつしたりしたらキビシイから、まぁたいていの時間は三人でつるんでいる。とは言っても、学校の外でわざわざ一緒に遊びに行ったりするほどではないから、親友なのか、とか聞かれたら結構困ってしまうけど。

 そういう意味では、親友と断言できるような友達はいない。でもまぁ、学校で一緒に話す相手くらいはいるわけだし、別に困りはしない。

 平日は卓球部の練習があるし、休日は家でゲームしてるか、それこそ、ハル兄の部屋にでも行けばいいんだし。

「ニッシー、タケ、おっす」

 そうこうしているうちにユウタが、一六〇センチはあるデカイ身体をゆらして教室に入ってきた。

 タケがちらっと俺の顔を見て、くちびるに人差し指を当てて目くばせしてくる。「さっきの話は内緒だぜ」っていうサインなんだろう。俺も小さくうなずき返す。別に、どっちだっていいんだけど。

 すぐにチャイムが鳴って、担任の山口が教室に入ってくる。四十過ぎの、いつもくたびれた灰色のスーツ姿のおっさんだ。

 タケは飛び跳ねるようにして自分の席にもどった。来たばかりのユウタは汗をふきながらどかっと音を立ててイスにすわる。

 俺は、カバンから教科書やらノートやらを取り出していて、一時間目が英語だってことを思い出した。しかも、今日は俺が当てられることになっていたんだった。

 ため息をつきながら、俺は急いで教科書のページを開く。

 退屈な日常は、これで結構いそがしい。



 授業が終わると、俺たちは卓球部の部室に向かう。

 部室なんて言っても、ただ小さなロッカーがいくつか並んでいるだけのせまい部屋で、俺たちはそこで窮屈きゅうくつに身体をひねりながら練習着に着替える。

 部室を出てすぐとなりの、緑色のネットで区切った体育館のはしっこに卓球台が二台並んでいる。一台が俺たち二年生ので、もう一台が一年生用。一人しかいなかった三年生はもう引退してる。

 俺たちのいる卓球部は、全然熱心な部じゃなかった。部員は二年生が俺たち三人で、後は一年生が四人。全員が男。活動内容は、ただ放課後に集まって、適当に何試合か順番に打ち合うだけ。三年生がいた時は基礎連だのなんだの、もう少し活動していたけど、ユウタが形だけ部長を引きついでからは毎日そんな感じだ。

 バリバリの運動部はめんどくさい、でも文化部や帰宅部ってのは何となく気が引ける。卓球部は伝統的にそういうやつらの集まるところだったから、誰も「まじめにやろうぜ」なんてことは言い出さない。顧問の先生だってそんなことは分かっているから、めったに活動を見に来たりはしなかった。

 俺たちは今日も、適当に卓球の真似事をしながらくだらないおしゃべりをする。ここには女子がいないから、話題は教室でのものよりは少しだけ親密になる。

「なあなあなあ、ユウタ、ウワサは本当なのかよ?」

 俺とユウタが打ち合っている間、ヒマになったタケがニヤニヤしながら話し出す。

「うわさ?」

 ユウタが俺のサーブを打ち返しながら聞き返す。

「なんか、最近バラ色の人生、らしいじゃないの」

「なんだよ、それ」

 タケのおどけた口調に、ユウタがうんざりしたような様子で聞き返す。こういう話になるとタケはしつこいんだ。

 その間も俺とユウタのラリーが続いている。カコン、カコン。

「だから、中村だよ、中村香織」

「なっ、」

 タケがわざとらしくユウタの耳に口を近づけてささやくと、ユウタがあわてたような声を上げる。ユウタのラケットは俺が返した球を思いっきり空振って、球はカコーンカコーンと高い音を立てて体育館の板張りの床に落ちて転がる。

「何バカなこと言ってんだよ、意味わかんねー」

 そう言いながら、ユウタの顔は耳まで真っ赤になっている。それを見てニヤニヤ笑うタケ。

 そうか、ユウタは中村香織のことが好きなのか。

 俺は記憶をたどって、となりのクラスの中村香織っていう女子のことを思い出そうとする。確かユウタは一年生の時に同じクラスだったんだっけ。俺は中学になってから同じクラスになったことはないけれど、そういえば、小学校三年生くらいの時には同級生だった気がする。

 確か、目が大きくて髪の毛の長い子だった。今はどうだか知らないけれど。それから一輪車と鉄棒がうまい子だった。

 どうがんばっても、それくらいのことしか思い出せなかった。

 もちろん、中村香織に対して好きとか嫌いとか、そういう感情もわいてこない。

 人のことが好き、ってどういうことなんだろう。

 真っ赤になってタケにつかみかかっているユウタを見ながら、俺はそんなことを思っていた。

 俺がほとんど知らない、その中村香織という女子のことを好きだというユウタが、とても遠い存在みたいに思えて、そしてちょっとだけ、うらやましかった。



「じゃあな、また明日」

「んじゃ」

「またな」

 早々に部活動を終えてせまい部室で着替えてから、俺たちはそれぞれの帰り道についた。

 俺はやっと夕陽がオレンジ色に染まりはじめた午後五時の校庭を歩き出す。

 タケとユウタは途中まで一緒に帰っているらしいけど、俺の家は反対方向だからいつも昇降口で別れる。正門から出る二人と違って、俺はいつも裏門から学校を出るんだ。

 一人で帰るのは嫌いじゃない。

 家に帰れば母さんや佳奈がうるさいし、学校では一人で物思いにふけっているわけにもいかないから、学校から家まで歩く二〇分くらいの時間は、一番静かにものを考えられる時だった。

 そんなことみんなの前じゃ言わないけど、俺はたぶん、静かなのが好きなんだ。ハル兄の部屋みたいに。

「西川くん」

 突然名前を呼ばれてびっくりして顔を上げると、裏門のところに制服姿の女子が立っていた。うちのクラスの上橋さつきだ。クラスの女子の中でも気が強くて、リーダーっぽいやつ。

「上橋、さん?」

 自分が名前を呼ばれたわけが分からず、思わずあやしむような声を出してしまう。

 上橋さつきとはただクラスメイトと言うだけで、べつに仲がいいわけじゃない。というか、正直言ってろくに話したこともないくらいだ。大人ぶっていて、どこかで男子を見下しているようなところがあるから、正直、ちょっと苦手。

「西川くん、このあと時間あいてる? 西川くんと話がしたいって子がいるんだけど」

 俺と、話がしたい子?

 なんだよそれ、言っている意味がまったく分からない。

 俺が何も言えないでいると、上橋さつきが俺から視線をそらして門の方に向かって手まねきをした。上橋さつきの、にたりと笑った得意げな表情。

 ちょうど門のうしろに隠れるようにして立っていた小柄な人影が、おそるおそるといった感じで顔を出した。

「ね、ちょっとだけでいいからさ、ファミレスかなんかで。つきあってあげてよ」

 姉さんぶった上橋さつきの言葉を聞きながら、俺は現れた人影の正体に思い当たっていた。

 髪の毛は短くしてしまったみたいだけど、目が大きくて、一輪車と鉄棒が得意だったとなりのクラスの。

 中村香織が、夕陽を浴びてオレンジ色に染まった顔で、俺のことを見上げていた。

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