5話-2
自室へ帰る。
崖っぷちの賭けにリタは勝った。彼は戸惑いながらも差し出した手を拒みはしなかった。落ちてきた。言い表せぬ喜びに何故か口角は釣り上がる。
そうと決まれば早速準備をしなければいけない。逃亡に何が必要かなんて分からないが、シルヴェストルは宝石や貴金属の類いを余るほど持っているだろう。自分が用意すればいいのは最小限のはずだ。人間、金さえあれば何とかなる。それは箱庭に居付く前の人生で唯一学んだことであった。
そっと部屋の扉を開ける。
光が差し込んできて、全身の血が冷える心地がした。
「何をしている?」
「お、オスカー」
そこには、もうとっくに寝ているはずの人が佇んでいた。古びたランプに照らされたその顔の多くは影になっていて表情が判別できない。けれど、いつか話した夜のように弱々しい顔でないのは確かだった。
彼から感じたことのない、はっきりとした刺すような敵意がそこにはあった。
「なんでも、ないよ」
「とぼけるな。……後をつけていた」
全く気が付かなかった。彼の元来の役目は護衛であるということを今更思い出す。
黒の瞳は暫し弾けるような意志でこちらを睨みつけていたが、やがてそれは憂うように閉じられた。ぎり、と歯を食いしばる音がする。
「……なんで、……」
漏れ出た声はあまりに悲痛だった。この世で一番の恩人がこんなに辛そうにしていても、それでも、リタは自分の決断を曲げることができない。その薄情さに胸が抉れるようだ。思わず目を逸らす。窮屈な空気が満ちていった。
おもむろにオスカーは机を探ると、布に巻いた塊をリタに渡してきた。固いが、そこまで重くない。くるくると布を解くと、そこには簡素な装飾を施された短剣があった。思わず取り落としそうになる。
「護身用だ。お前にやる」
「え」
「外には危険が多い」
言いながら、彼は飴玉やら保存食やらをどんどん取り出す。手渡されるままに受け取ることしかできない。リタの両手が山になってから、彼は淡々と言葉を口に出す。
「もし、どうしようもなく、恨みの方が勝ったなら、さっきの短剣を持ったまま家に帰ってこい。お前の代わりに、オレが殺してやるから。ただし、そうならない限りここにはもう二度と来るな。どんな顔をすればいいか分からない。オレはお前を傷付けたくない」
「どうして」
リタは、有り得ないものを見るような気持ちで彼を見上げた。
何で許しを与えてくれるのだろう。彼はシルヴェストルを心の底から憎んでいるはずなのに。リタへの優しさで片付けるにはあまりに複雑だろう彼の心情を推し量ることは出来なかった。
「オスカー、なんで」
名を呼ぶと、一瞬オスカーの動きが止まる。やがてその腕はだらりと力が抜け落ちたかのように垂れ下がる。
不思議に思って下から覗き見ると、彼の目には薄く涙が滲んでいた。心臓が飛び出そうだった。
「何で、泣くの?」
一年半近く一緒に過ごしてきて、オスカーの涙は見たことがなかった。所々抜けているお人好しだけれど、泣くくらいなら怒声を上げて立ち向かうような人だったから。彼は目元を隠して、口だけで笑う。
「お前がいなくなるのが、寂しいからかな」
「違うよね」
明らかな嘘を咎めると、彼は口をへの字に曲げてさらに弱々しげな声を出した。
「情け、なくて」
それは、リタのことだろうか。シルヴェストルのことだろうか。或いは両方か。
それ以上彼は何も言及しなかった。
「ご、ごめん、ごめんね」
考えるより先には声が漏れる。彼は何も悪くない。悪かったのは、彼から何も受け取ろうとしないで、自身の我儘に走ったリタに他ならない。
オスカーは茫洋と見下ろしていたが、そっと手を伸ばしてリタに溢れてしまった涙を指で丁寧に拭った。あの時と真逆で、同じような立ち位置。懐かしさに身を任せてしまうには、リタは不誠実すぎた。
掠れた声で彼が囁く。
「……最後に教えてくれ。どうして……? なんで、こんな結論に至った」
「……」
口を開きかけて、止まる。優しいオスカー。どうしようもなく不器用で真っ直ぐな彼。正直な気持ちだけをぶつけるべきような気がして、その実違う。
「かわいそうだったから」
手を目一杯伸ばして小さな手のひらで、彼のきれいな涙を受け止める。オスカーは小さく笑って「お人好しすぎる」と呟いた。彼に言われたくない。だってこれは嘘なのだから。
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