5話-1 支配者
ジェシカの前からリタが逃げ出して数刻、どうやらサクロが有耶無耶にしてくれたらしい。食事の際兄弟と相対しても特に何も言われなかった。ただ、オスカーが暗い顔をして碌に進んでいない食事を前に話を切り出した。それは至極当然のことで、それでいてまだ現実感のなかったもの。
そろそろ、本当に終わりの時が来る。そういう話だった。
それだけを告げて、そこからは誰も口を開かなかった。各々が各々の寝台に入り、未だ冴える頭を持て余して無駄な未来を想う。
(終わりが来たら、どうなるのだろう?)
リタには、分からない。
だってリタには、誰もいない。
今なら分かる。巫女候補に無事になれていてもミーヴァはあの時リタを切り捨てるつもりだった。巫女候補にもなれない自分は、ラスキン家での立場もあってないものだ。結局そうなのだ。どうにもならない。この不安は永遠に消えない。
人を繋ぎ止めるのは結局人で、こんな状態を作り上げてしまったのはリタが臆病だったからに他ならない。何にも本気になれないまま、誰にも心を預けられないまま、宙ぶらりんだ。オスカーとオフィーリアには互いがいて、ジェシカには帰る家があって、サクロはそんな悩みとは無縁そうにへらへら笑っている。
じゃあ、どうすればいいのだろう。
(あ)
ふっと、考えが降りてきた。とても拙くて、我儘で、傲慢で、自分勝手な解決策が。肌が粟立つ。『そんなこと』をしてもどうにもならないのは分かっている。でも。
(いいじゃないか、だって僕は──だ)
消えぬ暗雲の下で冷えた心を固める。
太陽が落ちて、新しい日が生まれ落ちるその間際。リタはそっと寝台から下りた。
一筋の灯りも点けずにただ記憶だけを頼りに屋敷の中を歩いていく。不思議と迷うことも、何に躓くこともなかった。ただ、目指す場所へと吸い寄せられるように歩みを進める。自分の目的のために、息を止めて。
辿り着いたのはこの屋敷の主人の部屋。何も言わずにただ部屋に閉じこもっている、銀色の髪をした怜悧な青年が、何かを思い何かを憂い何かを恨んでいるだろう部屋。
その扉にそっと手をかけて口を寄せる。部屋の主にだけ聞こえるように、声をかける。
「開けて」
中から音はしない。
「話をさせて」
幾度か繰り返していると、
「うるさい、何時だと思っているんだ……」
強く壁が叩かれる音ともに、扉が開かれた。ぬるりと男が半身を出す。リタに被さるように出したその顔の、深く揺らめく蒼の瞳と目が合う。シルヴェストル・ラスキン。この屋敷の当主の名。
「何用だ」
「……」
「何か言え。物も喋れぬ阿呆なのか?」
「いえ、開けてくれると思わなくって」
「気まぐれだ」
薄く笑って彼が部屋へ戻る。鍵をかけられなかったので慌ててその後を追った。元より開けるまで声をかけ続けるつもりだったので都合がいい。
部屋の真ん中まで進んだシルヴェストルはくるりと振り返ってリタを見据える。
随分暫くぶりにその姿を見た気がした。
星さえない夜なのに、彼の髪は僅かな光を反射して月光を映し出す。静かな生命力を持つそれとは裏腹に、彼の目は虚ろで、無だ。
「ふん、無作法者ばかりか、この家は」
はっと軽い声を上げて、態度だけは大きくゆったりと腕を組んで歯を見せ笑う。しかしその様には覇気がない。
リタは小さく口を開いた。
「……僕のことが分かる?」
シルヴェストルは一瞬首を傾げたが、それでもすぐに「ああ」と記憶と像を合致させたらしい。
「お前は確か巫女候補になり損ねた娘だろう。名は知らん」
存在すらもう覚えられていないと思っていたので、少し驚いた。リタが押し黙っていると、痺れを切らしたのかシルヴェストルは少し声を荒げて睨めつけた。
「何だ、恨み言か? それとも殺しに来たか。はは、いいんじゃないか? それでお前の自尊心が満たされるならな。さぞ俺が憎いんだろう」
半ば怒鳴るような声だったが、ぷつりと糸が切れたようにその勢いは途絶えた。
「だが、本当に俺が悪かったのか?」
ここにいるのがたった二人でなければ、聞き逃してしまいそうな小さな小さな声だった。
「俺は父上に言われるままに「こう」成った。それでも批判されなくてはいけないのか? 本当に? 同意の上での他害も罪か」
透明でよく響く声に雑音が交じる。引き裂かれそうな、痛切な音。その全てを見逃さないように彼を懸命に真正面から見据える。
「俺の居場所はもうどこにもない」
その視線に負けたように、細く長く、骨ばった指が顔を覆う。カーテンのように銀髪が垂れ下がる。
今にも泣き出しそうなその姿は、まるでリタよりもずっと小さな、子供のようだった。
でも。
(それを、僕に言うのか。君が)
まやかしだったとしても嘘だったとしても、彼の過ちさえなければリタはあの箱庭の安寧に浸っていられた。彼さえいなければ、自分を一番に置いてもらえない虚しさにここまで追い詰められることはなかった。居場所がどこにもないと、悩んでこの部屋に至ることもなかった。
ここに来てようやく、自分自身の本当の気持ちがクリアになっていく。
巫女なんか、どうでも良かった。
リタはただ、居場所が欲しかった。
「さあ、好きにしろ」
無防備に彼が両手を広げる。手にも立つ足にも碌に力が入っていない。今ならリタにでも彼の息の根を止めることができるだろう。だが、そんなことはしない。
目の前には、ひとりぼっちの青年。
リタはもっと酷い選択肢を選ぶ。
「僕は、君を殺しに来たんじゃない」
息を吸う。何も持ってない自分なら、きっと何に背いても構わないだろう。だから、と目の前の青年を強く睨みつける。この賭けに乗れ。従え。
「一緒に逃げよう」
蒼の瞳が、見開かれた。
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