4話-2

 暖かな手がリタの肩を数度叩く。心地よいそのリズムで微睡みから現実に引き戻された。


「着いたわよ」

「ん……」

「おはよう、お寝坊さん」


 目の前で端正な顔が美しく笑った。夢から覚めてもまだ夢のような世界だ。まさか自分がミーヴァと遠出できるなんて。

 ラスキン家、と告げられた行き先はミーヴァの家と比較してもかなり上級の貴族らしかった。王都にもそれなりに近く、任せられている領土も広い。交通も発達しており列車で行く方法もあったようだが、ラスキン家側が最初から馬車を用意してくれたらしくそちらで向かうことになった。リタは列車をまだ見たこともないため残念である。


「列車、帰りは乗れますか?」


 ミーヴァは返事をせず、曖昧に微笑んだ。


「さあ、下りるわよ」

「はい」


 屋敷を見た最初の感想は大きい、だけだった。塀や庭にある彫像の一つ一つにぞっとするくらい細かく豪華な装飾が施してあって、確かに凄い、とは思えるのだが不思議とそれだけだった。ミーヴァの家のような全体を調和させているような美意識は見受けられない。

 手を引かれながら門をくぐり抜ける。

 ずらりと並んだ使用人たちがミーヴァやミーヴァの従者たちに向けて一斉に礼をする。リタは怖くなって彼女の後ろへと隠れたが、彼女はそれを咎めず優雅に会釈をした。


「本日は遠路はるばるお越しいただき誠にありがとうございます」


 代表して挨拶したのは褐色の長身の青年だった。朗らかに笑う顔は安心感を与えると同時に胡散臭さも感じる。真っ直ぐ立つ姿はそつがない。


「ご当主様はいらっしゃらないのかしら」


 ミーヴァがこてんと首を傾げる。すると、後ろから凛とした声が切り込んできた。


「今回は俺の発案だから父上は不在だな。なに、俺では不満か?」


 そこにいたのは、随分と整った見目をしている青年だった。月の光のような銀髪を高い位置で括り、射るような蒼の瞳は聡明なヒトというより、理性的な獣のようだ。

 彼がリタたちを呼び寄せたというシルヴェストル・ラスキンだろうか。


「いえ、そんなことはありませんとも。ご不快な思いをさせてしまったのなら申し訳ありませんわ。シルヴェストル様?」

「どうでもいいな。して、それが用意した少女か」


 細い手がリタの首元に伸び、上を向かせられる。彼の銀髪が顔にかかる。真正面から見た彼の顔は捕食者のようで薄ら寒さを覚えた。


「ふーん、まあ合格点だな」


 ニヤリと笑う口から溢れる歯はどれも錐のように鋭い。


「早速始めるか」

「えっ、あっ」


 ぐいとシルヴェストルに引っ張られる。


「行ってらっしゃい、リタ」


 助けを乞うようにミーヴァと繋いでいた手に力を込めたが、それは彼女により呆気なく解かれた。シルヴェストルに手を引かれつつ後ろを見ると、ミーヴァは綺麗に笑いながら手を振っていた。小さく手を振り返したが、廊下を曲がってしまったせいで彼女に届いたかは分からなかった。少し寂しい。


「若様、女の子に乱暴な扱いはどうかと思いますよ」

「あの女が嫌いなんだ。香水くさい」

「はいはい。早く離れたかったってことですね」


 シルヴェストルに付いてきたのは最初に挨拶をした褐色の青年のみだった。どうやら彼がシルヴェストルに一番近い使用人らしい。

 着いたのは屋敷の中でもかなり奥まったところだった。重々しい音を立てて扉が開かれる。消毒液の匂いがするそこは、窓がなく、薄暗かった。部屋の四隅に前時代的な蝋燭があるだけで、いかにも『儀式』らしさを感じさせる。


「座れ」


 石で出来た台に腰かける。ひんやりとした冷たさが服越しに肌を突き刺した。


「腕」


 言われるままに腕を差し出すと注射器を刺された。チクリとした痛みに顔を歪める。

 彼は青年と何やら言葉を交わしながら色々な準備を進めていたが、それが分かるはずもない。リタは漠然とした不安を抱えながら頭上で行われる様を眺めていた。


「今から巫女作成の儀を始める」


 シルヴェストルが一際大きい声を出す。

 こんなにすぐ始まってしまうのか。自分は今から巫女候補になるのだ。……巫女候補とは、何だったか? ふわりと眠気が襲ってきて、何ものも判然としない。


「捧げる部位、神が宿る場所は──と此処に宣言したり」


 朗々と唱えられる呪言をぼんやりと聞いているうちに思考には霞がかかり、ふっとリタは眠りに落ちた。




 目が覚めたら、視界が半分消えていた。


「休憩だ」


 その声をきっかけに意識がはっきりしてくる。台の冷たさ、薄暗い世界、身体に残る倦怠感を現実のものと知り、一番最初に感じたのはその違和だった。


「何か身体におかしなとこはないか?」


 白い手袋を外しながらシルヴェストルが問うてくる。彼は先程は着ていなかった真っ白な作業服のようなものに身を包んでいた。そこに点々と染み付いている赤い斑点が恐怖を煽る。リタはぼんやりした頭を緩く振りながら未だ上手く動かない口を開いた。


「みぎめが、見えないです」

「? 当たり前だろう」


 彼は眉を寄せた。


「お前の捧げる部位は両目だ」

「え」


 ぐらんと、頭が揺れる。

 巫女とは、儀式と共に身体を切り落としたり、破壊された者。神は失われた部位そのものに宿る。だからこその儀式で、だからこその祈り。

 巫女とは、そういうものだ。

 分かっていたはずなのに、分かっていなかった。あやふやだった知識とかつての記憶が一気に蘇り混乱する。そうだ。巫女候補になると宣言したからにはこうなることは分かっていた。わかっていたはずなのに。


「こわ、怖い」


 シルヴェストルが伸ばした手を払い落とす。自身の身体を抱える。震えは止まってくれなかった。


「あの女、ちゃんと話してなかったのか」


 事前説明は全て任せたはずだが、と舌打ちされた。

 リタのせいでミーヴァが貶される。それだけは絶対にいけない。


「ちが、違います! ミーヴァさまはちゃんと巫女のお話をして、でも、今はどうしても怖くて、怖いだけで、大丈夫です、ほんとに、ほ、ほんと……」


 慌てて喋るせいで口が縺れる。ミーヴァは悪くない。きっとリタが聞いていなかったか、もしくは何らかの意図があって伏せていたのだろう。彼女は悪くない、彼女は悪くないのだ。

 例え、リタがこの先一生何も見えなくなっても。


(本当に? もうすぐ、真っ暗になるの?)


 そう思うと全身の体温が下がる心地がした。いくら頭で大丈夫と唱えても、本能的な恐怖が一気に襲ってくる。

 右目が冷たい。何か、異質なモノが嵌っている。神様に捧げる場所。


「おえっ」


 げぶ、と胃の中のものが吐き出される。


「わわわっ、大丈夫?」


 介抱に飛んできたのはシルヴェストルではなく褐色の青年だった。背中を擦られ、口を濯がされ、横たえられる。処置は素早く適切だったのだろうが、リタにはその判別ができずただされるがままにしていた。

 ただただ、失われると知らされた瞳が惜しくて惜しくて、そこを隠すように蹲っていた。

 我に返ると、いつの間にか部屋が違う場所に移されていることに気付く。薄暗い部屋は怖く、血の匂いに満ちていたため、明るい部屋にいられることは有り難い。窓を見やれば、もう日が傾いていた。

 青年が未だ寝転がるリタに声をかける。ゆらりと紺色の髪が夕焼けの色を透かした。


「起き上がれる?」

「ごめ、なさ、」

「はい、白湯。飲める?」


 マグカップが渡される。一口二口含んで、ほうと息を吐いた。


「ありがとう、ございます」

「タメでいいよ? おれサクロ」


 笑うと、彼の左頬にある入れ墨も一緒にくしゃりと歪んだ。彼は労うようにぽんぽんとリタの背中を叩く。


「怖かったでしょ。薄暗いし、男二人しかいないし。変なとこに横たわれとか言うし。事前に話も聞かされてなかったんだよね? 確認もしないでいきなりとか最悪だよね。不便で怖い思いさせてごめんね」

「おい、それは俺に文句があるということか?」


 後ろからシルヴェストルの不満げな声が飛んでくるが、サクロはあっさりと黙殺する。リタはもう一口白湯を飲んだ。


「それは、大丈夫」


 お腹の中が温かい。少しずつリラックスしてくる。瞬きをして蘇ってくるのは、もう大分劣化してしまった昔の記憶。


「お父さんに似たようなことされてたから」

「……お父さん?」

「うん」


 ミーヴァに拾われる前、自分は父親と二人で暮らしていた。狭いぼろ屋で。今思えば彼が本当の父親だったのか定かではない。とにかく、彼が時たま行ってくることとこの儀式は酷似していた。変なところに横たわれと言われ、二人きりで。父親はリタに手を伸ばして、……。

 そんなことを訥々と喋っていると、いつの間にかサクロの相槌が消えていた。不思議に思って見上げると、彼は顔を真っ青にしている。


「え、あ、それって」


 どうしたのだろう。サクロは混乱と嫌悪と焦燥をごちゃまぜにしたような顔をして、口を抑えた。彼の肩越しに見えるシルヴェストルも眉を顰めている。


「あ、うわー……どうしよ、ヤバいなあ」

「おい」

「あっ若様、待って」


 サクロの制止も無視してシルヴェストルが詰め寄ってくる。そしてリタに何かを問うた。意味はよく分からなかったけれど、とりあえずはい、とかうん、とか答えたような気がする。

 幾つかの質問を終えた後のシルヴェストルは、明らかに落胆した顔をしていた。もういい、とでも言うようにリタの身体を突き放す。


「なんだ、お前、処女じゃないのか」

「若様!」

「しょ……?」

「それじゃ巫女になれるわけないだろう。おいサクロ、何とかしておけ。俺は帰る」

「えっちょっ、ちょっと!」


 それだけ言うと彼は呆気なく部屋からいなくなってしまった。残されたのはリタと、苦々しげな顔をしたサクロだけ。彼は暫く何かを逡巡していたが、ぱっと振り返ると作り笑いで声をかけてきた。


「ええっと、リタちゃん? そこでちょーっと待っててね」


 そしてバタバタとサクロまで消えてしまった。

 リタは、巫女候補になれなかったのか。

 立ち去ったシルヴェストル、「なれるわけがない」という言葉がそれを雄弁に物語る。

 でも、良かったのかもしれない。リタはほっと息をついた。どうして資格がないのかは分からないが、何も見えなくなるのは嫌だ。だってそうしたら、ミーヴァの顔だって見えなくなってしまう。

 白湯は気付けばぬるくなってしまっていて、とりあえず残りを一気に飲んだ。暫く待っていても誰も訪れる気配はない。そうこうしているうちに寂しくなってしまって、リタは周りを伺いながら寝台から降りた。戸を開けて、サクロが歩いて行った方向に歩いていく。屋敷は広かったが、何となく行けばいい方向が分かった。シルヴェストルが嫌いと吐き捨てた、ミーヴァの匂いがするのだ。

 応接間らしき部屋の前に立つと、うっすらとサクロとミーヴァの声が漏れ聞こえてくる。彼女のことを思うと会いたいと思うと同時に胸が苦しくなった。わざわざ遠くにまで来たのにリタが務めを果たせなかったことに、がっかりしているだろうか。怒っているだろうか。

 薄く扉を開ける。


「貰ったお金はどうなるの?」

「流石に全額そのままという訳には……」

「もう、めちゃくちゃじゃない!」


 耳を貫いたのは聞いたこともない金切り声だった。細く開いた隙間から、ミーヴァが眉を釣り上げてサクロに詰め寄っている。

 あれは、本当にミーヴァか?


「それに、あの娘はどうなるの? 今更返されても困るわ」


 びくりと肩が跳ねる。


「この際減額でも半額でもいいわ。わたしの落ち度とは思えないけど! あの娘、穢れてるんだったら最初から拾ってこなかったのに」


 端まで奇麗に刺繍を施された綺麗な服が揺れる。彼女の怒りに合わせて粗雑に、乱暴に。どんどん足元が冷えてくる。こんな現実からもう目を逸らしたいのに、身体が動かない。


「わたしの完璧な世界に中途半端な子、汚い子はいらないの」

「……いらっしゃったときは、随分仲が良さそうに見えましたが?」

「お父様が“お遊び”を許すのは五人まで。でも、下手に切り捨てたら他の娘たちにも不安を与えてしまうわ。だから丁度いいと思ったの。それに、わたしがお金を稼いだとなったらお父様もわたしを褒めてくれると思って。なのに、何なのよ。腹が立つわ」


 キンキンと彼女の声が頭に響く。


「あの娘は、神様に選ばれる資格もなかったってことでしょう? 何の意味もない」


 何を言っているのだろう。ミーヴァにとって、巫女候補になれなかったリタは無価値なのだろうか。それとも、元から?


「ミーヴァ、さま……」


 こっそり聞いているつもりだったのに、気付いたら声を出してしまっていた。慌てて口を抑えるももう遅い。

 だが、彼女はリタの姿を認めても表情すら変えなかった。すぐにサクロの方へ向き直り彼を顎で使う。


「追い出しなさい」

「……それはないんじゃないですか?」

「わたしに何か意見があって?」

「……いえ」


 サクロがリタの前に立つ。「ごめんね」と小さく口が動いた。そっと身体を押され、部屋の外へと出される。何も抵抗できなかった。


「さよなら、リタ」


 そう言って彼女は美しく笑った。リタの、大好きだった顔で。無情にも扉は閉ざされる。そこへ手を伸ばす資格すら与えられない。

 リタの居場所は、本当になくなってしまった。

 がっかりもされなかった。怒られもしなかった。ミーヴァにとってリタはただの利用する駒で、目に入ってすらいなかった。


『無駄だよ』


 そう言って笑った少女の顔が蘇る。本当にその通りだ。何が呼ばれただ。求められただ。結局ミーヴァの一番には掠りもしていないではないか。滑稽だ。

 閉め出された扉を前に、動けなくなる。全てから拒絶された心地がした。ふらりと違う方向へ足を向ける。地面の場所が分からない。何度も転びそうになりながら、どこかへと歩く。どこに? わからない。


「痛っ」


 呆然と歩いていると誰かとぶつかった。緩慢に見上げると、そこにはサクロとよく似た青年がいた。髪が短く、額から謎の角が伸びているところだけが違う。青年は反射的に「ごめん」と謝ってからリタを見てきょとんとした。


「君は、巫女候補の?」

「ちがう……」

「ん、違った? 迷子?」


 彼は膝をついて視線を合わせてくる。伺うような視線はあまりに優しくて、息が詰まる。


「……僕は、」


 名乗ろうとして、止まった。僕は、何だ? 巫女候補にはなる資格がないと言われて、居場所はたった今なくなって、自身を支えるものなんて何一つない。リタを望む人も、誰も、いない。

 それでは、なんのために生きている? 自分は何者だ?

 たったひとりで。全てから切り離されて。

 振って湧いた悪夢はあっという間にリタを支配した。どんなにどんなに考えても悪い方向へ、何故存在しているのだという問いに繋がる。酷く虚しくて悲しくて辛くて恐ろしい。


「やだ、やだぁ……!」


 ぼろぼろと涙が溢れだす。硝子玉が入った右目からは涙すら出なくて、それが尚更虚しくてさらに涙が落ちた。止まらない、止められない。息が上手くできなくて、苦しい。どんどん息が浅くなっていく。


「だ、大丈夫か!? おい!」


 青年が宥めるように何度も背中を擦ってくれるが、その甲斐もなく短い呼吸は止まらない。目の前が真っ暗になる。リタは青年に身体を預けながら意識を手放した。

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