4話-1 未だ世界が広かった頃
リタは昔、綺麗な箱庭の中で暮らしていた。
「ネア、ララカ、ユーナ、ノエミ」
うっとりするような柔らかい声で少女たちが招かれる。「はい」「お姉さま」「ミーヴァお姉ちゃん」「はぁい」返事をする少女たちの声も小鳥や鈴の音のように愛らしい。
あちこちに生けてある花から香る、むせ返るような芳しい匂いに溶けて混ざるように、白くて小さな裸の足たちがあるひとに向かって一心に走っていく。自分は箱庭の隅っこに座って、大好きなひとの声が望む形になるのを今か今かと待っている。
「リタ、おいで」
リタはいつも、最後に呼ばれる。
それはちょっぴり悲しいけれど、あのひとに呼ばれるだけで幸福なのだから、我慢しなくてはいけないのだ。
高級な絨毯を足の裏で感じながら、彼女に向かって真っ直ぐに歩いていく。
「ミーヴァさま」
望む人は、椅子に座ってリタが来るのを待っていた。彼女は一人の少女を膝に載せ、二人を足元に座らせ、一人に後ろから抱きしめられたままリタを見据えてふんわりと怖いくらい綺麗に微笑んだ。ほっそりとした腕がリタに伸びてきて、桜色の爪が柔く頬を撫でてくれる。気持ちよくて、目が細まる。
「ミーヴァさま……」
「なあに?」
「何でもないです」
「あら、可笑しな娘」
くすくす、と甘やかに彼女が笑う。それに合わせて少女たちもくすくす、くすくすと笑い声をあげる。少し恥ずかしいけれど、幸福な時間だ。
豊かな桃色の髪は艶めきながら腰まで伸びて、朝焼けを閉じ込めたような瞳は神さまみたいな慈愛を宿す。リタはあまり沢山の人を知らないけれど、きっと彼女は世界でいっとう綺麗な人だ。名をミーヴァという。
彼女は貴族の娘だった。今思えば、恐らくラスキン家とモーガン家──ジェシカの家──の中間に位置するくらいなのだろう。金を湯水のように使えるほど裕福ではなかったが、貴族が貴族らしく生きていくには十分なくらいの資産を蓄えていた。
その彼女が身寄りのない少女たちを集めて部屋の中で築き上げている小さなコミュニティが、リタが箱庭と呼んでいる彼女の部屋である。溢れるような花に隠れるようにして暮らしている少女たちは、ミーヴァが気まぐれに散歩に出すときくらいしか外に出ない。それでも彼女に呼ばれて可愛がられてるなら何でもいいと思えてしまうくらいには、その箱庭は甘美と幸福で、満ち満ちていた。
リタは別に、生まれたときからここにいるのではない。
ミーヴァに拾われるまでは父親と二人で今にも崩れそうなぼろ家で暮らしていた。その時のことはあまり覚えていないし、思い出したくもない。ある日父親が家で待っていろと命じて数日間いなかったことがあった。逃げ出したらもっと酷い目に合うことは分かっていたけれど、どうしてもお腹が空いて外に出た。結局空腹で倒れてしまったリタを、「大丈夫?」と手を差し伸べてくれたのが貴族のミーヴァだった。後から聞いたことによると、ミーヴァも手習いから逃げ出していたところだったそうだ。
その時から彼女はリタの恩人である。ぼろぼろで汚かっただろう自分を掬い上げてくれて、綺麗な箱庭の一員にしてくれた。
「お姉さま、お姉さま、聞いて」
「聞いているわよ」
「うふふ、あのね──」
お喋りなネアはミーヴァに何かを語りかけている。ララカとユーナは彼女を見上げながらお互いに指を絡めあっている。ノエミはうっとりと彼女に背後から擦り寄っている。リタはそこまでの勇気は出ないけれど、そっと彼女に寄り添った。
ゆっくりと時間が過ぎていく。永遠に続いてほしいくらいだったが、ガチャリと無骨に扉が開く音がした。
「ミーヴァ様、お父上がお呼びです」
「分かりましたわ」
無機質な男の声が響く。ミーヴァはそれに素直に従って立ち上がった。少女たちがわらわらと離れていく。
五人の少女それぞれの額にキスが落とされる。リタはまた、一番最後だ。
「待っててね、わたしの可愛い娘たち」
そう言って去っていってしまった。彼女は女性にしては背が高く、歩く姿もとても美しい。五人の少女は扉が閉ざされるまでしっかりと彼女を見送った。
パタン、と軽い音。
「お姉ちゃん行っちゃった」
「ねえ聞いて! 今日もネアが最初に呼ばれたの。やっぱりネアが一番可愛いんだね」
「やだ、明日は分からないわよ」
「そーよ、次はララカよ」
「どうかなぁ?」
ミーヴァがいなくなっても、箱庭は彼女の話題で持ちきりだ。みんながみんな、彼女のことが大好きだからだ。
そして毎回必ず、呼ばれた順番の話になる。やはりそういうことは嫌でも気になってしまうものだ。リタ以外の全員は、ミーヴァに一番に呼ばれた経験があって、いつも次に一番に呼ばれるのは誰かという議論を交わす。呼ばれたことのないリタはその会話に入れない。でも、いつかは。
「無理だよ」
ハッとする。黒髪の少女がリタを見据えて意地悪く笑った。
「リタはお姉さまのお気に入りじゃないもん」
「ち、違うよ。ミーヴァさまは僕たちに順番なんてつけないよ」
「じゃあ何で、リタはいつも最後に呼ばれるの?」
「それは……」
「来た順番じゃないよねえ」
「だってユーナはリタより後にここに来たわ!」
確かに、そうなのだ。リタは毎回最後に呼ばれて、最後にキスされる。ミーヴァのことを信用しているし、よしんば最下位に位置づけられていたとしても彼女のそばにいられればいいと思ってはいるのだが、それでも嫉妬が胸をチクリと刺す。
リタだってミーヴァの、大好きな人の、一番になりたい。
結局今日も、少女たちの華やかな会話に混ざることはできなかった。
だけどある日、変化が起きる。
「リタ、おいで」
「!」
最初は聞き間違いかと思った。後ろの少女たちがざわつく。
「はい!」
「あら、いいお返事ね」
くすくすと笑われる。顔が熱い。はやる鼓動をそのままに声を出したら、思ったより数倍大きな声が出てしまった。
花をかき分けるようにして急いでミーヴァの元へと行く。豪奢な椅子にゆったりと腰掛けた彼女のそばには誰もいなかった。本当の本当に、リタが一番最初に呼ばれたのだ。
恐る恐る近寄る。桜色の爪が彼女自身の膝を指差した。膝に乗っていいということかもしれない。それでもまだ狼狽えていると、優しい彼女はそっとリタを抱き上げてくれた。心臓の音がうるさい。
「ねえ?」
高すぎず低すぎない、柔らかな声が耳元で囁く。
「はい……?」
「お願いがあるのよ」
お願いとは何だろう。それよりも、他の娘たちはまだ呼ばないのだろうか。二人っきりでこんなに近くにいると、緊張とときめきで弾けてしまいそうだ。
ミーヴァが薄い唇を開く。
「あのね、リタ。巫女候補になる気はない?」
「ミココウホ?」
初めて聞く言葉だった。遠く、自身の後ろで少女たちの笑い声が弾ける。
「やだぁリタ、知らないの?」
「駄目よ、笑っちゃ」
「だって巫女様よ?」
厶、となる。巫女ならば知っている。ただリタはずっと狭い世界で生きてきたから、それを支える巫女候補の制度を、当時のリタはよく知らなかった。
「今、巫女候補になれる娘を別のお家が探しているんですって。そこで、わたしたちの家に話がきたの」
桃色の髪の匂いが甘い。頭がふわふわする。それでも彼女の話をきちんと聞きたくて、リタはうんうんと頷きながら懸命に耳を傾けた。
「巫女候補になるとね、神様のそばに行けるのよ」
「かみさま……」
リタはミーヴァの隣にいられればそれでいいのだが。ちょっと困ったような顔をすると、ミーヴァは宥めるように笑ってリタの頭を優しく撫でた。
「貴女が巫女候補になってくれたら、わたしもとっても嬉しいわ」
「ミーヴァさまが、喜ぶ」
初めてミーヴァに一番に呼ばれて、望まれた。しかも、その巫女候補とやらになれば一番のお気に入りになれるかもしれない。そう思うと嬉しくて堪らなくなって、リタは何も考えずに「はい、巫女候補になります」と返事をした。
「そう。大好きよ」
そう言って彼女はリタの頭を何度も何度も撫でてくれる。胸がどきどきと弾んで、リタは彼女の首筋に擦り寄った。
「あーあ」
「可哀想」
「馬鹿ねえ」
「しっ、静かに」
そんな少女たちの潜めいた声は、浮かれきったリタには一切届かなかった。
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