2話-2

 オスカーは、何が一番大切かと問われれば間違いなくオフィーリアと答える。『あの時』誓いを立ててから、そのつもりで自分は今まで生きてきた。それ以外は全て切り捨てるのだとして、これからも生きていく。


(だから……今、この状況は願ったり叶ったりのはずなのに)


 癪だが、オフィーリアの地位は昨日サクロが言った通りになるだろう。事実はどうあれ、ずっと弟に虐げられ続けていた風習の犠牲者の美しい姉。あまりに人の心を掴みやすい。彼らが二人っきりの姉弟である限り他の人間に家督が渡る訳もないだろう。そもそも、オフィーリアが家督争いからはずされたのだって。

 そう顔を顰めながら廊下を歩いていると、目の前にこれまた顔を顰めたくなるような人物が出てきた。

 サクロは片手で食事の乗るトレーを持ちながらうろうろしていたが、オスカーの姿を目に入れるとぱっと顔を明るくする。


「あ、オスカーくんだ。ねえこれシルくんのなんだけど、預けちゃっていい? おれジェシカちゃんに呼ばれたんだよねえ」

「分かった」

「ありがと」


 兄のことは嫌いだが、仕事ぶりは信用に足る。一々年齢にそぐわない喋り方だとかボタンを開けすぎたシャツとかに目くじらを立てていては何事も進まない。

 そうただ通り過ぎようとしたのに、軽薄な笑みを浮かべたその男は嫌がらせのように言葉をかけてくる。


「殴っちゃ駄目だよ」

「殴らない」

「どうかな」


 嘲るような笑い声。ああ、やはり嫌いだ。自分たちの顔はとてもよく似ている。だから彼を見ていると、歪んだ鏡を見ているようで苦しくなる。そのような言動ができないだけで、根幹は同じだと思い知らされるからだ。


「オスカーくんは昔から巫女制度大ッ嫌いだもんね。シルくんのことも断罪されろって思ってる?」

「当たり前だろう」


 何の罪もない少女を宗教のために身体の自由を奪って虐げるなんて間違っているに決まっている。


「でもさ、仕方無くない?」

「は……?」

「シルくんはさ、ずっとそういう教育を受けてたでしょ。「王に選ばれる巫女を作り、家のために名誉と金を手に入れろ」って。そのために邁進してた彼はむしろ被害者じゃないの?」

「何も考えずにそれを受け入れてたことが問題だろう。あいつは物事の善悪を考えたこともない」

「そう言うけどさ、巫女作りって本当に悪なの? 罪なの?」

「被害者が実際に存在しているんだ」

「オスカーくんは被害者じゃないよね」


 頭が痛い。ぐらぐらする。自分の言っていることは正しいという自負がきちんとあるはずなのに、目の前の男の言葉に打ち勝つ術が思いつかない。


「現に誰も何も言わなかったじゃん。国王が取り下げるまで大きな反対運動の一つすら起こらなかった。オスカーくんだって何か行動を起こした?」

「それは、」


 何も言い返せない。巫女制度は主に貴族の協力によって成り立っていて、所詮なんの権力もないオスカーはただ憎しみを募らせることしかできなかった。

 巫女自体がそもそも希少な存在で、民は存在こそ知っているけれど身近ではなかったこともある。人は自分自身に被害がないとそもそもおかしいことには気付きにくい。オスカーだって、オフィーリアが巫女候補にさせられなければ、ラスキン家に仕えていなければ、きっと巫女のことをお伽噺としてまともに取り合わなかったのだろう。


「でも今、巫女廃止の件が徐々に民衆にも漏れてるみたいで、やっぱりこんなことおかしかったんだ! 昔巫女を排出した家は断罪しろ! て騒いでる人たちが少なからずいるみたいだよ。流石にそれは現実的じゃないけどさ。何で罪じゃなかったことが急に罪になるんだろう?」

「……罪は罪だ。変わっていない」

「大衆って馬鹿だよねえ。そしてオスカーくんもおれも馬鹿。あはは」


 サクロは最早オスカーの言うことなど聞いていない。四本の腕で腹を抱えて笑っている。半身を隠すマントは今はつけられていなかった。


「……あまりそれを見せびらかすのをやめろ」

「何で? おれはどっちかって言うと巫女制度より『こっち』のがおかしいと思うけどなあ」


 そう言って広げられる腕たち。巫女制度と関連した風習で、従者に本来ないはずの部位を「付け足す」のは家を守る獣としての意味を与え、貴族のステータスとして考えられていた。こちらは巫女制度とは違いかなり昔に廃れている。オスカーの角とサクロの腕はその風習を言い訳にしたシルヴェストルの暇潰しだった。オスカーはそれだけでも彼に充分な倫理や信仰心が備わってないと言えると思っている。

 お構いなしにサクロは喋り続けている。


「風習とか悪習とか政治とかで有耶無耶になっちゃってる今、結局個々人の倫理観と快不快で話すしかないもんねえ。おれとオスカーくんで論争しても仕方ないね」

「……ジェシカ様に呼ばれていたのではないのか」


 いい加減、耐えられなかった。これは逃げだと自覚しながらも、本来の業務を告げる。彼はきょとんとした顔をしてから、また笑顔を取り繕った。


「はは、うん。マジで怒らせちゃいそーだし。じゃね」


 そう言って風のように去っていく。

 ため息をついた。オスカーは三歳上の兄のことを理解できたことがない。ただ人を混乱させるような物言いを好んでしているだけのように見える。実際にそうなのかもしれない。彼の言わんとすることも理解できるが、オスカーはそれに納得してやる訳にはいかなかった。

 目を閉じて呼吸を落ち着かせる。

 そしてそもそもの目的であるシルヴェストルの部屋へと向かうことにした。

 ラスキン家のだだっ広い屋敷では当主の部屋に行くだけで一苦労である。本来ならばもっと沢山の使用人がいなければならないのだが、当主の代替わりをしてから新たに雇い始めようと思っていたらこんなことになってしまった。暫くはこの少人数でやっていくしかないだろう。

 重い扉の前に食事の乗ったトレーを置く。ノックをして声をかけたが、返事はなかった。


「シルヴェストル様、ではここに置いておきますのでお好きな時にお取りください」


 リタやオフィーリアの前ではあんなことを言っても、流石に本人の前で無礼を働く気は起きない。これはオスカーの最低限の義務だ。

 そのまま立ち去っても良かったが、ふと気まぐれを起こした。

 暫く扉の前で待っていると、おずおずと扉が開く。その隙を逃さない。

 扉の間に靴を差し込む。察した相手が力づくで閉めようと抵抗するが、そんなやわな力に負けるつもりはない。


「ッやめ」

「入れてください」


 結局力比べはオスカーの勝ちだった。

 押し入ったシルヴェストルの部屋は酷い有様だった。窓を締め切って明かりも点けていないため酷く薄暗い。廊下からの光が唯一の光源となって暗闇の中立ち尽くす彼の顔に光を指したが、彼は眩しそうに目を細めただけだった。その表情は疲れ切っていて、長い銀髪は乱れるばかり、青の瞳は暗く濁っている。

 部屋中に散乱した本の残骸を踏み付けながらオスカーはシルヴェストルと向かい合った。


「引きこもっていても仕方ありません。何をするにしてもどういった立場を表すにしても、ちゃんと表に出てきてください」

「……しらない、どうでもいい」


 声は掠れていて、耳を澄ませなければ聞こえない。


「お前たちの勝手にすればいい。俺はもう関係ない」


 どうでもいい、ともう一度彼は呟く。

 その台詞に眉を顰める。シルヴェストル・ラスキンは本当に心が折れてしまっていた。

 やはり自分は彼を許せない。はっきりとそう思った。ただただ自身の道が否定される、それだけを悲しんでいる彼のことが堪らなく憎らしい。その下に誰が、どんな思いでいるかすら考えたことがないのだろう。罪じゃない行いが急に罪と定義されたのだとしても、罪という名が振ってきたのなら向き合うべきだ。


「あなたは……、……」

「ハ、哀れめばいいだろう。天才と担ぎ上げられて、最後はこれだ」


 シルヴェストルが自嘲的に笑みを浮かべる。

 確かに、彼は天才そのものだった。

 幸か不幸か与えられた天賦の才。特に医学や工学に突出したそれは、巫女作りをあまりに完璧に行わせた。彼にそれを命じた父親が気味悪く思うほどに。異常な非凡は凡人を遠ざけ、結局彼に寄り添って苦言を呈する人はどこにもいなくなった。または、彼自身がその才能によって踏み潰した。

 その彼は、今、壁に凭れかかって無気力に空を見つめている。


「もう生きているいみがない」


 いっそ怒り狂っていてほしかった。彼はやったことを悔いているわけではない。ただ、呆然としている。自分のことを理解しようとしないまま、ただ目の前のものがなくなった絶望感だけに暮れている。

 振り上げた拳を振り下ろせないことに、腹が立つ。罪を理解しない人間に罰を下してもただ虚しいだけだ。

 ならば、いっそ。


「殺せばいいじゃないか」


 溶けそうな声。それに、自分はどんな表情をしたのだろう。握りしめすぎた拳に爪が食い込み、血が流れる感触がする。


「ご冗談を」

(それができたら、どんなに)


 一番許せないのは、その決断を許さない世界ではなく、そもそも選択できない自分自身の甘さだ。

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