1話-2

 屋敷全体が浮足立っている。唐突に国から直々の使いが来たとかで、のんびり皿洗いをしていたオスカーが酷く慌てて身なりを整えていたのがついさっきのこと。

「『オレたちのような人間』が本当に来客対応していいのか」とぼやいていたのを思い出す。彼の懸念はもっともだが、生憎まともな見目の人間はこの家から出払っていた。ラスキン家の当主はついこの間代替わりしたばかりで、先代は多くの使用人たちを連れて遠方の別荘へと移っていた。今ではだだっ広い屋敷に数人しかおらず、何とも寂しい雰囲気が家全体を支配している。

 何故急に使いが来たのか、何の目的なのか、難しいことは一介の下女のリタには分からない。ただ言われたままに給仕をするだけだ。

 薄く扉を開ける。


「失礼します、茶菓子をお持ちいたしました」

「聞いていないぞ、そんなこと!」


 飛んできたのは悲鳴のような怒声とガタンと椅子を蹴る音。継いだのは至って冷静な女の声だった。


「当たり前でしょう。ついこの間王がお決めになったばかりのことです。そのうち国全体に宣言も出されるでしょうが……」

「急にそんなことを言われて頷けるか!? 歴史を何だと思っている!」

「歴史は歴史だと思っております。今この国は新たに改革を起こさなければいけない、重要な過渡期だとも。それに、何か不都合がありますか? まだ王権は移っておりません。巫女は募集されていませんよ」

「……ッ」

「まさか……」

「黙れ!」


 もう一度椅子を蹴飛ばす音。そして、最初の怒声が聞こえてきてから固まってしまっていたリタの目の前の扉が勢いよく開かれた。飛び出してきた長髪の青年にぶつかり、自身と彼の両方にケーキがひしゃげて飛び散る。


「きゃ……っ」

「邪魔だ!」


 それをものともせず青年──この家の現当主、シルヴェストル・ラスキンはリタを跳ね除けて猛然と部屋を出ていってしまった。いつも氷のように凍てついて人を馬鹿にする蒼の瞳が、酷く怯えたようにこちらを見ていた。

 何だ。

 何が起きている?


「おい! 待て!」

「オスカーくん、追わないほうがいいよ。今はお客様の方を優先すべき」

「……」

「わたくしのことはお気になさらず」

「いーえ、そうもいきませんよ」


 部屋に残されていたのは三人。国の使いである女と、シルヴェストルの従者としてそばに控えていた褐色の青年二人だ。

 リタはケーキも台無しになってしまった今、ぐちゃぐちゃの床を前に立ち去ることもできない。暫しあたふたしてから、ようやく近いところに掃除用具があったことを思い出した。雑巾とバケツを持ってきて床を吹き始めるリタをよそに、部屋の会話は緩やかに再開される。


「やー、大変なことになっちゃったね。すみませんね、うちの若様……違うや、ご当主様が迷惑おかけして」

「随分苛烈な性格なようで」

「そうなんですよ」


 褐色の男二人の髪が長い方、サクロは主が消えた椅子に悠々と座って足を組んだ。髪の短い方、サクロの弟であるオスカーが小声で咎めるがまるで気にしていない。

 相対する女は神経質そうに両の手を揉んで、小さくため息をついた。


「わたくしの今日の用件はこのことをお伝えするだけです。とりあえず、内容は伝わったようなのでお暇させていただきます」

「おや、そうですか。それは残念ですね」


 この部屋の中で一番緊張感のない男であるサクロはにっこりと笑みを深くした。頬に入っている大きな入れ墨が表情に合わせて歪む。

 女はそれを見て──更に後ろに控えるオスカーを見て、不愉快そうに眉を曲げた。だが何も言葉にはせず立ち上がって、そこでようやくリタのことを把握したようだった。


「貴女」

「えっ、あっ、はい!」


 まさか声がかかるとは思わず、大きな声が出てしまう。


「目を見せていただけますか」

「え」


 返答を待たず女はずいずいとこちらへ向かってきて、リタの顎を掴んで視線を挙げさせた。手から頭巾が落ちて、あ、と思ったのもつかの間、右目を隠す赤髪が払われて無の黒が女を映した。


「これは……」


 女の声に驚愕が混じる。それもそうだろう。

 リタの右目には眼球が『ない』。

 そこにはただ、黒黒とした虚がある。


「……ぅ……」


 女がまじまじとその様を見て顔を顰める。小さく開いた口が何を告げようとしたのか、分かる気がする。無理な角度に上げられている首が苦しい。目線が痛い。

 逃げてはいけない。逃げたい。

 仕舞い込んだかつての記憶が蘇ってきて胸がぐっと苦しくなった。暴かれていない方の瞳にうっすら涙が滲む。


「失礼」


 すっとリタと女の間に腕が差し出された。


「うちの者に無闇に触らないでいただきたい」


 腕の主、オスカーは鋭い黒の瞳で半ば睨みつけるように女を見ている。


「それは隠匿ですか?」

「いえ、単に彼女を案じています」


 二人は暫しの間見つめ合っていたが、やがて女の方が折れたのか小さく息をついて離れた。


「申し訳ありませんでした。では、改めてお暇させていただきます」

「送りますよ、レディ?」


 椅子に座ったまま傍観を決めていたサクロが爽やかな笑みを作って問いかけたが、女はきっぱりと首を振る。


「結構です。貴方も何か……あるのですか?」


 何か、と言うとき女はちらりとオスカーの方を見た。リタの瞳と、オスカーの額から伸びる異形の『角』を見た。

 サクロはその目線を察したがあくまで飄々とした態度を崩さない。


「まあ、はい。若様の趣味で。見ます?」

「遠慮しておきます」

「えええ、見てくださいよ」


 そう言いながらサクロは左手を大きく上げて、半身を覆っていたマントを翻した。そこから出てきたのは腕が『三つ』。一番上の手でパー、真ん中でグー、下でチョキを作ってひらひらと挨拶するみたいに陽気に揺らす。


「どうです?」


 女は片方の眉を上げただけだった。


「悪趣味ですね」

「あはは、そーですね。周りには化物屋敷とか呼ばれてるんです。困りますよね」

「……ただ、彼女は悪趣味の範囲には留まりませんよ」

「勿論。分かってますとも」

「失礼いたします」

「さようならぁ」


 彼は自身に備わる四本の腕で手を振って、女を見送ったが彼女は一度たりとも振り返りはしなかった。


「あは、これからどうしようね」


 シン、と静まり返った部屋の沈黙を破ったのはまたしてもサクロだった。けらけらと笑い続ける兄を弟オスカーは激しく睨みつけたが、サクロは完全に無視している。


「あーあ、おれも“お暇”させてもらおうかな。犯罪者の従者になったつもりは毛頭ないしね」

「……そうしたいなら、そうすればいい」

「オスカーくんは良かったね。お嬢はこれから当主でしょ、どーせ。やだなぁ、結局弟くんが得する世の中ってことか」

「何が言いたい?」

「お嬢が巫女候補に『させられて』良かったね」

「!」


 サクロの言葉尻は軽いが感情が抜け落ちている言葉にもただ耐えていたオスカーは、しかしそこで逆鱗に触れられたように表情を変えた。


「貴様っ……!」


 手を伸ばし、サクロの胸倉を掴んで締め上げる。


「見捨てたのは貴様たちの癖に! お嬢様を、あの方を何だと思っているんだ!」


 激高した弟を前にしても、兄は薄ら笑いを浮かべたままでいる。


「うんうんそーだね。じゃ、とりあえずおれは戻るわ」


 そう流すと、サクロは簡単にオスカーの手を解いて部屋から風のように消えていった。

 バタン、と彼が扉を閉じる音、残されたオスカーが壁を殴る音、それらとちょうど同時にリタは床を吹き終わった。


「ああ、クソッ」


 オスカーが荒々しく髪をかき混ぜる。息を深く長く吐いて吸ってを繰り返して、ようやく彼は落ち着いたようだった。いつも通りの冷静で誠実な、気の良い青年である彼に戻る。

 床の汚れも大方問題ないだろう。リタはもう一度軽く乾拭きをしてから掃除用具を片付けにかかった。


「リタ」


 バケツを持ち上げた瞬間名前を呼ばれる。オスカーが申し訳無さそうに歩み寄ってきた。


「ごめん、大丈夫か? 変なところ見せちゃったな」

「大丈夫だけど」

「皿割れてない? 持つよ」


 皿だけと言いつつ彼はひょいひょいと大方の掃除用具も持ってくれる。

 道具を片付けて皿を戻しにキッチンに行くまで、二人の間には無言が流れていた。饒舌とはいかないもののリタに対しては朗らかによく喋りかける彼の伺うような様子が気持ち悪い。流れる水の音だけに意識を向けながら厨房に残っていた皿をまとめてリタが洗って、オスカーが棚に戻す。それを何回か繰り返して最後の一枚を渡した時、褐色の指は確かに受け取ったのに、ポロリとそれを取り落とした。

 カシャン、と脆く軽い音がする。


「あっ、ああ、ごめん」


 慌てて彼はそれを拾い上げるも、剥き出しの手では当然破片で指を切ってしまう。血があっという間に指を染め上げて、それでも彼は痛みに顔を歪めるというより呆然とした心地だ。


「何してるの……大丈夫?」

「……ごめん」


 まるで夢の中にいるようだ。うつろで、現実感がない。リタが手近な布で血を抑えてやるのをぼんやりと見ながら、オスカーはふっと口を開いた。


「さっきの話、聞いてたか? シルヴェストルが出ていく前にオレたちが話していたこと」

「知らない。難しいことは分かんない」

「そうか……」


 彼が目を閉じる。逡巡するように眉根が寄せられる。リタは、そんなことよりも早く皿を片付けてしまいたい。


「お前にも関係ある話だ」

「え?」

「よく聞け」


 両肩が掴まれる。リタはきょとんとしてオスカーの深い海のような藍色の髪と、痛いくらい真っ直ぐな黒の瞳と、刻まれた入れ墨と、ヒトには異質な長い角、それぞれをぼんやりと眺めた。


「新しい国王が、宣言を出すんだ」

「王様、変わるの?」

「ああ」

「それで?」

「それで、それでな」


 褐色の大きな手のひらが頭を撫でてくる。その手が小さく震えているのに気付いた。優しくて強がりな彼が、十以上も年下の少女に震えを隠せずにいる。

 薄い唇が開かれた。


「巫女制度が悪習であると、廃止するんだと。つまり、この国にもう巫女はいなくなる」

「え?」

「巫女も、巫女候補も、みんな」


 ぽかん、と口が開くのが分かった。


「それで……それが、何なの? 何で僕がそれに関係あるの?」


 オスカーの瞳が見開かれる。


「なぜって……だって、お前は、……」


 戸惑ったように口が開いて閉じてを繰り返し、やがて何の音も発さずに閉じられた。ぎゅっと唇を噛み締めた彼が何も言えないまま項垂れるのを見ても、リタに湧き上がる思いは「なぜ?」という疑念だけだった。

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