7.3

 翌日。裂け目内が活動できる程度に明るくなったのは、午前の七時を回った頃だった。


 食料は既にない。水は前日に節約し、僅かにだけ残っている。もう一日も無駄にはできない。最低でも今日中にブラッドヴァインを脱出しなければ、命はないと思った方がいいだろう。


 今日の行動にすべてが掛かっている。無駄な行動――それこそ、あの巨猿と戦っているような暇はない。


 ジルたちはそのことを肝に銘じ、警戒態勢を取りながら早速歩き始めた。


 相変わらず巨猿の追ってくる気配は消えないが、襲ってくる気配もない。そして、追跡を諦める気配もない。中々手を出すことができない苛立ちで、より怒りを募らせているのだろう。自身の発する音を気にせず、昨日より大胆に裂け目の上を動いているように感じられた。


「あいつ……ブラッドヴァインの外まで追ってくることはないよね……」


 セリカが不安げな様子で言う。

 それに対し、ジルは安心させるためにも気丈に返す。


「それは大丈夫だろう。この裂け目には入ってこないように、戦いで圧倒的に不利になる外にまではこないはずだ。ツルがなければ身を隠すことも縦横無尽に動くこともできないからな。そんな状態でなら、もし追ってきたとしても俺がタイマンで仕留めてやるよ」


「か、かっこいいです……」


 ニーナの賞賛で、何故かセリカが得意げな顔をしたのは、誰も気が付かない。


 適度な緊張とリラックスを維持した状態で歩き続けること、一時間半。ブラッドヴァイン脱出まであと五キロに迫ったところで、ジルたちは二つの喜ばしい発見をした。


 一つは、裂け目の深さが殆ど変わっていないこと。


 今朝出発した地点から現在地まで、裂け目の深さは一四メートルを維持している。この調子なら、光が入ってこないほど深さが増してしまい、身動きが取れなくなるという事態に陥る心配はなさそうだった。


 もう一つは、ツルの密度が徐々に減ってきていること。


 今まで足元や両脇の崖は、奥の土が見えないほどツルがびっしりと這っていた。しかし現在は、地面も崖も所々で茶色い土が顔を覗かせている。前方を阻まれることもなくなった。これは確実に、ブラッドヴァインの終わりが近い兆候だろう。


 さらにそこから三〇分ほど歩いたところで、トンテが追い打ちをかけるように吉報を知らせた。


「オイ! アレヲ見ロ! 水ダゾ!」


 トンテの駆けて行く先を目で追うと、壁から染み出した少し濁った水が、這うツルを伝ってぽつぽつと滴っていた。


 雨が減り干ばつが進む今の世界で、このような水脈を見つけることは滅多にないことだ。


 土で多少濾過されているとはいえ濁っており、飲んでも安全かは分からない。だが水が不足している今の状況では多少の危険は仕方ない。すぐには飲まず、本当に渇きに耐えられなくなった時のための保険としてストックしておく方がいいだろう。


 ジルたちは休憩も兼ね、その場で三〇分ほど水を採取した。

 そして再び、ブラッドヴァインからの脱出を目指して歩き出した。


 裂け目の深さが一定となり、ツルは密度が減り、不足していた水の確保に成功。流れは良い。ただ問題は、こういう状況が上向き気が緩んでいる時こそ、良からぬことが起きやすいということ。


 第六感。

 虫の知らせ。

 経験からくる、意識外の危機察知。


 ジルは何故か、そんな形容しがたい不安を感じ始めていた。体が得体のしれない寒気と、どこかに落ちていくような浮遊感に包まれる。自然と唾を飲み込む回数が、増えていった。


 ――チラリ、とジルはセリカの顔を見る。


 その視線に気づいたセリカは、小首を傾げた。


 ――チラリ、とジルはトンテの顔を見る。


「ドウシタ? トンテニ、惚レタカ?」


「……かもな」


 セリカもトンテも、巨猿を警戒してある程度の緊張感は持っているようだが、ジルと同じような不安を抱いている様子はない。それはロベルト、ニック、ニーナも同じだった。


 考え過ぎだ。気のせいだ。神経質になっているだけだ。

 ジルは自分に言い聞かせるように、心の中でそう呟く。


 そんな中、突然ニーナが不思議そうに声を漏らした。


「あれは……何でしょう?」


 ジルは湧き上がる不安から目を逸らすように、ニーナの見つけた何かを探すため、前方を注視する。


 少しして、ジルもそれに気が付いた。


「……明るく、なってるな」


 前方、目測で約五〇〇メートル先が、何故か少しだけ明るい。


 遂にブラッドヴァインの端にまで到達し、頭上を覆うツルがなくなったお陰で太陽光が直接差し込んでいるのだ――とは思えない。


 まだ距離はあるはずだし、明るいと言っても多少だ。せいぜい地上に出ているのと同じくらいの明るさだろう。


 明るい理由は不明だが、未知なる事象は警戒するに越したことはない。ジルたちは頭上の巨猿と共に前方にも注意を向けながら、少しずつ前進を続けた。

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