ダブル・トゥエンティ
鈴木りん
ダブル・トゥエンティ
――ここは、どこ?
小学4年生の男子、
どうやって、ここに来たんだっけ――。
記憶が曖昧になるほどの酷い暑さに、気が遠のいてゆく。
けれど交差点を行き交う多くの若者は、吾郎のような小学生男子の様子になど極めて無頓着だ。体が45度傾き、今しも白線でできたゼブラゾーンに頭を打ち付けそうになった、そのときだった。黒のパンツスーツ姿でポニーテール、化粧は最低限にとどめたいかにも“できる感じ”のビジネス・ウーマンが吾郎の体にぶつかったのである。澄んだ大きな瞳が特徴的だ。
「あら。ごめんなさいね、坊や」
おかげで、吾郎はゼブラゾーンに体を打ち付けずに済んだ。ふらつく頭で彼女の姿を確認する彼の、瞳が輝いた。
――このおば……お姉さん、すんごくタイプ!
小学生である彼の三倍くらいはありそうな年齢のオトナの女性に対して普段ならアリエナイであろう感情が、何故か沸き上がる。
吾郎が頬を赤らめたことに、女性が気気づいた。
「あら、あなたどうしたの。顔が赤いわよ……熱があるんじゃない?」
「いえ、大丈夫ですっ!」
と言って走り去ろうとする吾郎の右手を、女の右腕が引っ張った。
「ちょっと付き合ってくれない?」
「えっ!?」
ただただ慌てふためく吾郎に、女は交差点の向こう側を指し示す。
「あそこの喫茶店でお話しでもどう?」
「まあ……いいですけど」
自分の知らないオトナの世界ではこういう形のナンパもあるのかと、吾郎は感心した。
まるで親子――。そんな風にしか見えない二人が交差点を渡り、昔ながらの佇まいをした純喫茶の扉を開ける。
「いらっしゃいませぇ」
女子大生風のウエイトレスが銀のお盆に水の入ったコップを二つ載せ、やって来た。
「アイスコーヒー、二つ。……あ、君はコーヒーは無理かな」
「む、無理じゃない。コーヒーなんて、毎日がぶがぶ飲んでるよ」
「へえ……。じゃあ、それで」
「かしこまりましたぁ。マスター、アイコーふたつぅ!」
アルバイトのお姉さんが意気揚々とカウンターへと戻る。
すると早速、吾郎の目の前のビジネス・ウーマンが、秘密の相談でもするかのように彼の耳のそばにオトナの赤い唇を寄せて来た。一気に吾郎の喉元からおでこまでが真っ赤に染まる。
「実はね……ちょっと教えて欲しくて」
「教える!? 僕が?」
素っ頓狂な声をあげた小学生の声の大きさに、喫茶店内のすべての視線が彼に集まった。ワタシは人さらいではありません――そんな主張の書かれた笑顔を、連れの女が客たちに振りまいた。
「でもその前に、お姉さんの名前を聞かせてよ。僕は、宮下吾郎」
「ああ、ごめんごめん。あたしは
ぺこりと頭を下げる彼女に、吾郎が頷く。
すると彼女が、ハンドバッグからスマホを取り出した。そのときだった。彼らの横の席にいた若いカップルの女性が「うわ、これはひどい」と声をあげた。どうやら彼女は、スマホに映るニュース映像を見ているらしい。
「ん、どした?」
カップルの男がそう言って、彼女のスマホの画面を覗き込んだ。彼女は彼にも聞こえるようにとスマホの音量をあげる。すると、女性アナウンサーの怒気を含んだ声が言った。
『地球温暖化の進む21世紀が始まって、20年。猛暑の続く2020年の夏に、こんな虐待が行われているなんて……全く信じられません』
画面には酷い炎天下の中、ベランダでひとり置き去りにされてぐったりとなる女児の映ったスクープ映像が流れていた。近隣住民によって苛めの現場が撮影されたものらしい。アナウンサーは、通報により両親が逮捕されたことも伝えた。
と、モラルもへったくれもない音声ダダ漏れカップルのやり取りに今まで目を奪われていた吾郎と恵美奈が、急に席から立ち上がって叫んだ。
「2020年夏!?」
二つの声が見事に重なり、それはユニゾンとなって店に響き渡った。
驚いたカップルの視線がスマホから外れ、親子のような二人へと注がれる。親子とはいえ、あっぱれなシンクロ――。そんな意味の籠った視線を無視した三十路女が、目の前の小学三年生男子に突っかかる。
「だからあたし、あんたにそのことを訊きたかったのよ」
「……って、何を?」
「だからさあ……あたしのスマホ、さっきから2020年だって表示するのよ。あそこの交差点でちょっと貧血みたいにふらっとした後からだと思うんだけど――」
「もしかして僕とぶつかったときくらい? 実は僕もあそこで急に頭がふらついたんだ」
「へえ……。っていうか、それはどうでもいいの。今年って、本当に2020年?」
「あはは。おば――お姉さん、変なこと言うね。そんな訳ないじゃない。だって今日は2010年7月31日なんだから」
「はぁ? 何言ってるのよ。今日は2030年7月31日でしょ?」
「はあぁ? お姉さん、大丈夫? 2010年に決まってるじゃん」
その後も二人の会話は噛み合わない。
横の男女は、最初こそ楽し気に吾郎と恵美奈の会話を聞いていたものの、にっちもさっちもいかない二人の会話にやがて嫌気がさし、再びスマホのニュース画像の世界へと興味を移した。
――こいつ、イカレてる。
主張を譲らず、どっちもどっちな感じの二人が互いに互いをそう思った、その刹那。
「お待たせしましたー」
お盆にアイスコーヒーを二つ載せ、バイトのお姉さんが二人に近づいたのだ。
と、不意に彼女の足がもつれ、お盆の上の二つのアイスコーヒーがツインロケットのように宇宙に向かって飛び立った。
「危ない!」
即座に席から立ちあがり、ウエイトレスの体を支えるために自分の体をつっかえ棒のようにしたのは、誰あろう、小学生の吾郎だった。
「……ごめんなさい」
「い、いえ、僕は全然平気ですから」
「すぐにタオルをお持ちしますっ!」
ウエイトレスはカウンター席の奥へと走った。
お姉さんがタオルと言ったのは無理もない。ロケットとともに飛び上がったアイスコーヒーが、見事に吾郎の頭から滴り垂れていたのだ。琥珀色の液体が、頬を伝って彼の口の中へと入る。吾郎が味わう、人生初のコーヒーの苦みだった。
――これが大人の味なんだな。
そう思ったのも束の間、まるで時間が止まったかのように口をぽっかりと開けたまま吾郎の顔を眺めている恵美奈に気づき、思わず後ろずさる。
「ど、どうしたの? 恵美奈さん」
「えっ、何が?」
吾郎の言葉が、彼女の静止した時間を動かす呪文――もしくはゼンマイ仕掛けのおもちゃのスイッチとなったようだった。急に彼女はそわそわしだしたのだ。
――
「やめて、恥ずかしいよ」
吾郎の言葉にはっとなり、いつの間にかほぼ初対面の小学生男子を彼の背中側から抱きしめている自分に気づいた、30歳の恵美奈。が、その顔が急に暗転する。
「でも……もうお別れみたい。残念だわ」
「どういうこと?」
抱きしめていた吾郎をその胸元から解放した恵美奈がしゃがみ、目線を合わせた形で向き合った。そのまま、彼の足元を指さす。
「ほら、あなたの足が透明になってる。きっと“元の時代”に戻るのね」
「ああ……でもそれは、お姉さんも同じみたい」
「……そうみたいね」
二人の体から、色が失われていく。
「また会えるよね、お姉さん」
「多分……。あなたは未来で、あたしは過去で」
その数秒後――。
恵美奈たちの席にタオルを持ってやって来たウエイトレスが叫んだ。
「マスター、大変! さっきまでここにいた二人がいませーん!!」
☆
次の日――2020年8月1日の正午近く。
昨日にも増して炎天下の交差点で、スクランブルの横断歩道を渡るでもなく先ほどから立ち続ける、一人の若い男性がいた。
どう見ても大学生といった風情。
ひょろひょろとした痩せっぽっちな彼は、黒いデイバッグを背負っていた。白いTシャツと、半ズボンを思わせる短めの淡い色のブルージーンを身に着けている。
けれどその見た目とは裏腹に、幾千、幾万という人々の行き交う人波にも決して飲み込まれてしまうことはなかった。しっかりとその足で地面に立ち、褐色の肌を乱暴な21世紀の太陽光線に惜しみなく焼かせながら、ただひたすらにゼブラゾーンの端で周りを見渡しながら、立ち続けている。
が、遂にそのときはやって来た。
一瞬だけ目を見開いた彼は「……やっと会えたね」と呟くと、ごくり、唾を飲み込んだ。そして、交差点の向こう側でひとり佇む若い女性に向かって歩き出したのだ。
高校を卒業して1、2年経った頃だろうか。
まだ少しあどけなさを残す社会人といった感じで、大きな瞳にポニーテール、濃紺のスカートスーツを身に纏った彼女は、営業先の会社が見つからないのか、スマホの地図アプリを時折覗き込みながらきょろきょろと辺りを見回している。
「ちょっと付き合ってくれない?」
20歳の吾郎は、勢いよく目の前の女性にそう言い放つと、傍にある喫茶店を指さした。
彼女は、20歳の恵美奈。
ナンパ野郎風情があたしに声を掛けるな――と、そんな目をして立ち去ろうとした彼女が、ふと何かを思い出したように立ち止まり、振り返る。
「その
「どうなんでしょう……。もしかしたら、未来に」
「未来にですって!? 面白いこと言うのね、あなた。いいわ、ちょうど休憩を取ろうかとも思ってたの」
ここは、都会のスクランブル交差点。
過去と未来、そして現在とが交わる場所――。
(了)
ダブル・トゥエンティ 鈴木りん @rin-suzuki
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