非情階段をのぼります
風呂洗いをしようとすると、壁や浴槽の底に小さな虫がいる。
申し訳ないけれど以前はそのまま流したりしていた。指に乗せて逃がそうとしても押しつぶしてしまったり飛んだりするし、暖かい日は毎日のようにいるためキリがないからだ。
けれどなんとかできないかと思って、ある日薄いプラスチックシートのようなものを切り抜いて箱を作った。プラスチックの弾力のおかげで蓋を開け閉めできる。
その容器を使うことで、虫を捕まえて逃がせる確率がぐんと上がった。
とはいえやはり押しつぶしてしまうこともある。
ある日そーっと虫を捕まえようとしたところ、容器を押し付けてつぶしてしまった。
その直後、薄く透き通った小さな鱗のようなものが私の目の前で輝きながら舞った。虫の羽だった。
「ごめんなさい」と心の中で謝ったものの、あまり動揺はなかった。罪悪感も「自分がやった」という感覚も、死を悼む気持ちも薄い。まるで他人事かドラマのようだ。
小さい頃はお風呂で小虫が溺れて死んでいるのを発見しただけで泣いたのに……今はなぜこんなに無感情なのだろう。
この気持ちを人間に当てはめて考えてみるとゾッとする。
死に慣れて、「ああまた一人死んだか。まぁしょうがないな」と呟きつつ命を掃き捨てるようだ。
自分の手で命をつぶしてしまったのに、私の心は明後日の方向を見る。
命に対してどう考えるのが正解なのだろう。
なぜ食べるのだろう。なぜ死ぬのだろう。なぜ争うのだろう。なぜ生まれてくるのだろう。
何かが亡くなったとき、平等に悲しむのが正解なのか、平等に悲しまないのが正解なのか。一方の生物の死だけ悲しみ、もう一方の生物に対してはなんとも思わないのは不平等な気がする。
虫は小さな命だが、それは人間にとってのことで、虫にとっては同等に大きな命だ。
大きさや形、色や知能の高さ、能力……そういうもので人間を差別してはいけないと聞く度に、それは人間以外にも全部当てはまるじゃないかと思う。
なぜ人間だけなのか。そもそも人間の定義とは何なのだろう。
現代では同族である人間の地位すら確立していない。私もたまに自分たちに関わる差別を感じる。だから人々の間から不満が沸き起こる。
いつか差別がなくなればいいと思うが、完全に差別がなくなった世界を思い描けない。人間だけが幸福というのは終着点ではないはずだからだ。
私はなぜ虫の命をぞんざいに扱うようになってしまったのだろう。なぜ問題をすり替えて他人事のように見ているのだろう。命の重みとは何だろう。
そもそも生物にとっての幸せとは何だろう。そんなもの最初からないのだろうか。
あの日、死んだ虫の体から離れた羽はふわりと宙を舞い、まるで意志を持った生き物であるかのように煌めいていた。もう捕食者や危機から逃れる必要もなく、餌や交尾相手を捜すでもなく、物体となったそれは命の残像のようで……。
*
関連エッセイ「ストレス自動製造機」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054896019060/episodes/1177354054898356439
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