ドライブ⑤

 そして、五十音の一番最初の文字を伸ばして言った。

「あー、あのときかあ!」

 どうやら覚えていたようである。

「送っていこうと車で行ったら、誰もいなかったってやつね」

「勇三からは聞いていました?」

「聞いてたよ。駆くんから送迎のキャンセルがあったのでって。それでも私は行きたかったんだけどね」

「それは、どうしてです?」

 ……好き……。

 早苗のあの一言が、脳裏を過った。

 もしその気持ちが今も早苗の心にあったとしたら……。

 胸を締め付けられる思いがした。

 ところが早苗から返ってきた言葉は、ただ素朴な感情を声として表していただけのようなものだった。

「教え子だから」

 ふう、と駆は静かに息を吐いた。胸を締め付けていた緊張感を吐き出したようだった。

「高校生のとき、仲良くしてたから、最後まで面倒を見たかったのよ。実はそのあと、浩介くんや勇三くんの見送りはやったのね」

「そうなんですか?」駆は目を丸くした。

「そう。順番に。最後に勇三くんだったかな」

 四人のグループで見送りの計画に異論したのは、自分だけではなかったはずだが、知らないところで、自分を除外したように各自見送りを行っていたとは……。

 はあ、と先程よりも深めに溜め息をついた。

「だからね、別に謝らなくてもいいことなの。気持ちは大事にしたいけど。わざわざここまで来て、ねえ……。一人暮らしで無職なら、やりくり大変でしょう? 旅費だってただじゃないんだから」

「そうですけどね……」その言葉しか今は出せずにいた。

「いいこと思いついた」早苗は声を張り上げた。

「いいところへ連れてってあげる。紹介したい人がいるから」

 紹介したい人……。どんな人物だろう。まさか付き合っている男性だろうか。

 夢心地で思い描いていた早苗の本心が、何となく垣間見れてしまった現状、追い討ちをかけるようなことは止めてもらいたかった。

「それで?」

 早苗の言葉に、駆は首をかしげた。

「さっきの話の続き。よかったらしてみてよ」

「たいした話じゃないんですけど」駆は苦笑いした。

「いいからいいから。元教え子として、気になるのよ」

 はあ、と釈然としない返事をして、駆は再び語りだした。


 工場のあとはしばらく沈んでいました。

 と言っても、どのみち働かなくてはならないので、すぐに動きたかったのですが。

 一ヶ月くらい無職でした。ずっと家にいると普段気づかないことにも気づいてしまいます。

 上の階の住人が、自分の部屋を監視しているんじゃないかと強く思い始めてしまったんです。

 三交代で不規則な生活から、ストレスや精神的負荷で、そういった症状が起こったのではと、今なら冷静に分析できます。

 自分の仕草を指摘したり、テレビを見ているとその内容を言ってくる、というか、感想が聞こえてきました。

 テレビの音量は、近隣に害がないよう配慮していたつもりでした。なので、テレビへの指摘はまだ目を瞑れました。

 ですが、自分の仕草を指摘されるというのには驚きました。

 自分が服を着替えたときなどに、ダサい、キモいなどと、雑言が聞こえてくるのです。

 一度、外出時に僕のファッションセンスなどを見ていれば、当てずっぽうで言っていたんだと思いますが、そのときはわざわざ言わなくてもいいことを言ってくる、上の階の住人に恨みを抱いていました。

 そして、僕はこうも思いました。

 ――なぜこんなに自分が誹謗中傷を言われなきゃいけないのか……。

 医療機器の工場のときから、すでに僕は自分に対する他者からの悪意ある態度に、気持ちも限界にきていたようです。

 ――自分はそんなにダメなのか……。なぜ自分は他人のように生きられないのか……。

 そう思いながら、僕は監視カメラがないかと、変な行動を起こしました。ベランダを見てもありませんでしたし、天井をくまなく見てみても、カメラのようなものは見当たらず。

 憎悪を募らせた僕は、外に出て叫びました。

〝死ね〟と。

 そしてすぐ親戚に電話し、そのことを話しました。すると、親戚のつてで、家からほど近い市内の精神科に行くことになったのです。

 病院の待合室で座りながら、他の患者の顔を見たりしていると、自分の他にもこうして病んでいる人がいるんだなと思いました。

 番が回って来たので、診察室に入ると、年老いた男の医師がいました。

 声が聞こえたり気になったりするみたいな話をすると、薬を出してもらいました。

 三交代で眠りにくい夜も続いていたので、薬を飲むと安心して眠りにつけました。

 数日後、同じ病院に行くと、精神科の医師と看護師がこんな話をしていたのが聞こえました。

「あの人、病気じゃないんですか?」

 との看護師の問いに、

「病気じゃないんですよ」

「ちゃんと言った方がいいんじゃないですか?」

「いや、まあね。もう少し稼がせてもらいましょう」

 それが幻聴なのか、この瞬間に口からついてでた言葉なのかはわかりません。あの人とはどの人なのか、それすらも……。

 しかし、僕の耳にはそう聞こえましたし、病気であるかどうか半信半疑だったところもあるので、僕は自分のことだろうと思うことにしました。

 その日、診察が終わると通院を止めにしました。


「自分から拒否しちゃったんだ」

 早苗が言った。

 なおも自然に囲まれた道を、銀色に光る軽自動車は走行する。

「はい」と助手席で駆は深く顎を引いた。

「んで、そのあと――」と駆が言いかけると、

「ああ、まだ続くのね。病の話……」

「すみません、やっぱり嫌でしたかね?」

「いや、そういう意味じゃなくてね。色々と大変な目に遭ってるなって」

 駆は精神病院へ通うのを止めたあと、警備員の仕事に就いたことを話した。


 次に入社した警備会社は、大きな工場内に設けられた、保安課という部署の下請けでした。

 工場の一角に団地があり、そこは社員寮でした。警備員の詰め所は、その中の一部屋を借りたものです。

 春山という隊長の元で、僕は警備員の仕事に勤めました。

 工場内は広かったので、その中を社有車が行き交うことがあり、僕たちはその車の荷物チェックや、台数を数えたりなどの出入管理を行っていました。

 春山には散々怒られました。

 しかも自分を疑いたくなるくらい当然のことで。

 ティッシュが切れたとき、取り換えておかないとシフトですぐに犯人が特定され、それが毎回僕だったのです。

 注意されたことはしっかりと受け止めましたが、そんな小さなミスが続くと四人で回していた現場でしたから、すぐに居場所がなくなります。

 他にも、食べ終えたあとテーブルの上を拭く、コーヒーを飲み終えたあとはちゃんとコップを洗う。洗っておかないと、食器置き場の下に敷いてある布巾が汚れてしまうからです。

 そうした初歩的なことを注意するのは、詰め所が雇い主の所有物を借りているということでもありました。

 扱い方が悪いと、それが仕事面に態度として出たり、また、いつ保安課の人間がここへ来るかもわからなかったので、そういう細かなことを注意されました。

 仕事の方でも僕の低能ぶりは際立っていました。

 立哨する際、下を向いたりあくびをしたりするのは、警備員としては論外で、それを注意されているにも関わらず、一向に直す気配がない。これでは自分の立場も危うくなるのは当然です。

 そうして、今回ばかりは春山から、面と向かって怒られました。

 若い頃、あんなに直接言えと、反発していたことが叶ったのです。これは嬉しいことのはずですが、出会った当初は優しかった春山も、険しく眉間に皺を寄せ、僕を叱り飛ばしました。

「曽屋くんはどうして言われたことができないんだろう?」

「すみません……」

「すみませんじゃねえよ!」

 怒られたその場所は、三つある現場の内の一ヶ所でした。そこにも門があり、怒られている最中、出入りする社員の姿もちらほら見かけました。

 恥さらしでした。

「すみませんてなんですか?」

「すみません……」

「すみません以上のことしてください!」

「すみません……」

 そんな調子で、僕は下を向いたまま、謝り続けるしかありませんでした。

 自分に非があることは確かなのに、それを改めようとはせず、謝罪し続ける……。たちが悪かったとは今でも思います。

 それで、僕は異動ということになりました。

 春山は異動先でも迷惑かけるなら、辞めてもらった方がいいと、警備会社の上司にも言っていたようです。

 異動先が決まるまで、三ヶ所の定点のうち、一番人気のない場所へ固定されました。

 そこは、車の出入りも少なく、シフト上で言えば、楽な場所でした。

 少し気を休めることができ、他の隊員のわずかな憩いの場でもあるという、貴重な場所でした。仕事ができないからといって、一人をそこに固定させるというのは、休める場所を減らすことになるので、周りに十分迷惑をかけるということになります。

 僕の内面は、だいぶ陰がかっていました。

 朝からすでに黄昏時が迫っているようでもありました。

〝自分に居場所がない〟

 それはいつどの仕事でもそうだった気がします。

 自分の失態から、自分を追い込み周囲に面倒をかけさせる。

 友人、知人ができないのも当たり前です。

 しんと静まり返った環境で、立哨しているとき、僕は暢気に胸中で歌を歌っていました。

 追いやられているにも違いないのにです。

 鬱憤を晴らすために、クレーマーと成り下がった人よりもたちが悪いと言えるでしょう。

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