ドライブ④

 出勤したら、できたばかりの本を棚に並べる作業があったんです。

 僕はその日も本棚に並べるため二階に行って、棚入れをしていました。

 一階とは吹き抜けになっていて、下からの声が聞こえてくることもしばしばありました。

 作業は簡単でしたが、各々スピードに違いが出ていて、僕はよく遅いと注意されました。

 社会人になって最初、ひどく困惑したのはそういった、遠くから言って、対象者を諭すというものでした。

 直接言えばいいものを、距離を開けてそういうことを言うんです。

 こちらは一生懸命作業している訳ですが、そうした声には正直腹が立っていました。

 イライラしながら、本を棚に入れていくと、下から遅いだとか、デブだとか、別に言わなくてもいいことを言われていました。

 しかもそれを言う人が、入って日の浅い後輩で、後輩からも言われてしまう自分に愚かさを感じていたんです。

 それが見えない下の階で、社員と結託して言っているように聞こえるわけです。ストレスが溜まるのも必然的なように思えました。

 それである時言ったんです。

「何でそういう腹が立つことを言うんですか!」

 同じアルバイトの人間には言いにくく、社員にそう言ったんですが、社員は不思議そうな顔をして、

「いや、別に言ってないけどなあ」

 と惚けるわけです。

 僕はこのとき、悟りました。

 そんな質問をして、素直に言いましたという人もいないだろうな、と。

 だから僕は、嘘をついているんだなと思うようにしました。

 当時、人手もあまりなく、働きはじめて一年たった僕も、漫画コーナーの責任者に選ばれていました。しかし、僕の責任者としての身の振り方がなっていなかったのもあって、後輩たちには白い目で見られていました。

 頼られる反面、後輩との微妙な距離感に、ますます働く意欲がなくなっていきました。

 後輩たちの見える位置で仕事をしていても、悪口は聞こえましたし、彼らから僕は全然信頼されていないんだとわかりました。

 僕が辞めれば、憎き彼らがあとを任せられる。僕の仕事の大変さがわかるようにと、腹いせも少し混ざって、退職しました。

 職場で孤立していたようでした。

 僕が二階で本を陳列しているとき、下で悪口を言う。僕が降りてくると、そ知らぬ顔で仕事をする。結果僕はその職場では、誰とも会話しなくなりました。


 駆が二十代に入って間もない時の出来事だった。

 早苗は前方を見つめながら、黙って聞いている様子だ。

 突然、厄介な話を切り出されて、おそらく、早苗も困惑しているだろうと思い、そこで話を止めた。

「すみません。いきなりこんな話をして……」

「いやいや」と早苗はかぶりを小さく振った。

「そりゃ、確かに辞めたくなるというか、続ける気失せるよね。んで、そのあとは? 工場だっけ?」

「はい」と、駆は頷き、次は医療関係の工場で働いていたときのことを話した。


 医療機器の検査をする工場でした。CTスキャンてありますよね? それの動作確認や組み立て、出荷作業などをする工場でした。

 まず困ったのが昼食でした。食べるところは、自分が働く部署のすぐ脇の休憩所でした。窮屈な部屋で、出遅れたりするとすぐに一杯になり、やむなく最上階にある食堂にいくことになりました。

 僕は当時、大勢がいる中で食事をするのを嫌っていました。今もそれは変わりませんが、その食堂の人の多さを見たとき、僕には無理だと悟りました。

 他に食べられる場所はないかと、朝方買ってきた昼食の入ったポリ袋を下げて行き着いた先は、自分の持ち場とは違う部署の休憩所でした。

 人数が少な目だったので、そこで食べていると、たまたま同じ部署の人間が、休憩所の近くにあった、エレベーターから下りてきたのです。

 その時の連中の目ときたら、人を人とは思わない、軽蔑を含めたような視線でした。僕はここでは毎日食べられないなと思い、翌日からどこで食べるか、定時で上がって、工場から出たときに、広いグラウンドがあるのを発見しました。

 僕は今でもそいつのことが嫌いなんですが、悪口が口癖のような人がいまして、名前は岩浪という人物でした。

 入ったばかりの僕が、休憩所で食事を摂っていると、明らかに目の前にいるのに、デブ! キモい! などと突如言い出しました。風船が破裂したみたいに、唐突にそういうことを言うんです。僕はそうした悪口を、長い間言ったことがなかったので、そうした行為をする人を不思議に思っていました。

 自分も昔言ったことがあるのに。

 友人、知人を作れなかった、その数年間のうちに、僕の精神状態はやつれていってしまったのか。今でも友人、知人は少ないですが、そうやって自分に劣等感を抱くようになっていきました。

 休憩所には僕と岩浪の隣に二人いるだけでしたので、僕は、自分が言われているんだなとわかりました。

 そいつの目から逃れるように、外で食べることにしました。外にはグラウンドや芝生、木陰などがあり、最初は一人でも楽しく食べられていたものの、次に困った出来事は、鳩でした。

 食べていると次々に鳩が集まってくるのです。

 敵軍から続々と発射される矢のように鳩は増えていき、僕は窮地に追いやられました。

 何とか早食いして事なきを得ましたが、それでも足元をうろついている鳩が邪魔でした。

 そのときは、派遣会社に登録していました。そこの派遣先がその工場で、無論、同じ派遣会社の人もいました。しかし僕はなるべく人目を避けようとして、一人で食べていました。さすがに便所飯はなかったですが。

 岩浪とは、インターンで入ったとき、一対一で教えてもらうこともありました。その時はお互い笑顔を交わしながら、ゲームの話をしたりしました。仲良くなれた気がしても、日が経つと自分の身体のことを屈辱的な言い方をしてくるので、僕は嫌気が差していました。

 半年が経つと三交代制になり、夜勤をやるようになりました。

 三チームに別れるので、人数は大分絞られましたが、休憩所で皆と一緒に食べるのは同じでした。不運にも岩浪とは同じ班で、彼の悪口を回避しようと、使っていない別の部署の休憩所で食べたりしました。

 そんな風に、時折、自分のことを悪く言う人は岩浪以外にもいました。僕は彼らと接触するのを嫌悪して、距離感を保ちました。彼らが開く飲み会などを断ったりして。

 岩浪が退職するということになったとき、送迎会を開くことになりました。僕はその時も、うまく言い訳をして断りました。八十パーセントは、抵抗や反発を含んでいました。

 そうした、声から始まったような屈折した人間関係もうまくいかず、仕事もやる気がなくなっていき、八ヶ月で辞めました。


「色々と人間関係で苦労してきたんだね」

 坂道はまだ続いていた。

 早苗がそう言葉を投げ掛けたとき、自分の過去の話をすることに夢中になっていた駆は、はっと我に返った。

 窓の外の景色は、民家などは見えず、山道を通過していた。

「声に悩まされるというか、普通の声だよね? 今の話は」

「そうですね。明らかに特定の人から発せられた声だというのはわかりました。ですが、それ以外にも声は聞こえました。幻聴なのか、実際の声なのか、その境目がわからなくなるときもありますし。医師もそれは症状だと言っていました」

「医者には通っているのね。その他に、駆くんを東京で支えている人っているの?」

「親戚くらいですかね?」

 そっか、と早苗は前方を見たまま言った。

「気にしなくていいとは、親戚に話したときにも言われたんです。でもどうしても気になってしまうんです。そう言った何気ない一言に、意識が行ってしまうんですよ」

「高校のときはそんなことなかったもんね?」

「そうですね。自分からどんどん割って入っていきましたし、自分も悪口を言っていました。でも今は、遠くで笑い声が聞こえるだけで、自分の何かが笑われている気になってしまうんです」

「別のことで笑っているって思ってもいいと思うけど……」

「そこら辺、うまく行かなくなってしまいました。気にならないときは、胸の底で浅く気にする程度ですが、気になるときはすごく気になります。どんどん深みにはまっていくというか」

 ドライブし始めてからはずっと晴天だった。その下で車はどんどん山奥を進んでいった。

 ここ数年、都心部に住んでいた駆は、日中こんな山道を通ることに違和感を覚えた。

「どこか行くんですか?」

「むしろそれ私が聞きたい。久しぶりに地元に帰ってきたんだし、どこか寄りたいところある?」

「日帰りの予定ですし、用はもう済んでしまいましたから」

「用って、結局なんの用だったの?」

 それは、と声を詰まらせた。

 この瞬間、駆はここに来た本来の目的を話そうと意気込んだ。

 早苗と二人きりであるなら、今こそあのときの真相を聞き出そうと思ったのである。

「その……」

「どうしたの?」

 早苗が横目で何度か駆の方へ視線を配ったのがみえた。

「田京駅、上京する前、先生、来ようとしませんでしたか?」

 いくらか緊張していたので、しどろもどろな話し方になってしまった。

 早苗は、田京駅、上京する前……と、小声で反復した。

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