ドライブ③

 寂しそうに、えー、と受話器の向こうで勇三が呻く。

「そんなあ。いいじゃん。旅立ちを邪魔するわけじゃないんだぜ?」

 早苗が来てしまう懸念もあった。この計画自体をなかったことにすれば、勇三たちも早苗も来ることはなくなる。

「いや、何て言うかさ。浩ちゃんも言ってたけど、やっぱりバランスがよくないんだよ。俺だけ全員に見送られるってのも不自然じゃん?」

 うーん、と勇三は声を唸らせる。

「実は最初から、俺も違和感感じててさ。何となく後のことを考えると、見送られにくいっていうかさ」

 そうかあ、と勇三もようやく折れたようだった。

「わかったよ。ちょっと寂しい、いや、ずいぶんと寂しいところだが、仕方ないか」

「浩ちゃんとりゅうさんへは、俺から連絡しとくよ」

「いや、いいよ。俺がやっとく。元々は俺が言い出したことだし」

 いいのか? と、勇三からの要望を無碍にしたり、こちらのわがままを聞いてもらってばかりだが、最後に勇三はこう言って電話を切った。

「また会える日を楽しみにしてるよ。東京でも会えれば会いたいし。あ、ちなみに早苗先生にも伝えておくから」


 翌日、三島行きの伊豆箱根鉄道に乗るため、田京駅へと母親が運転する車で辿り着いた。

 母からも、なんやかや言伝があった。駆はそのとき、母と話すこの状況すら恥ずかしがって、適当に話を聞くと早々に母を帰らせた。

 残念そうに口を尖らせ、母の車は故郷の町並みへと消えていった。

 急に胸の辺りが、締め付けられたような感覚になる。

 母に甲斐甲斐しく見送られる自分も、どこか子供臭く、周囲の視線を極端に気にし、母の心配を少しも気にかけない冷血漢を振る舞ったが、いざ一人、地元の駅で立ち尽くしていると寂しいものを感じる。

 同時に東京への憧憬も沸いてくる。

 大都会で、ビルディングに見下ろされながら、そこで出会う友はいるのか? どんな顔で、どんな話し方をするのか? あわよくば美しい女性とめぐり合い、充実した人生を送れれば……。

 ふと、早苗の眼鏡に収まった顔を思い浮かべる。

 ――まさか、来ないよな……。

 思いつつ、生まれ故郷の薫りに浸るのを止め、その芳しさに余韻を感じつつも、足早に改札をくぐりホームへと立つ。

 電車がきた。

 さらば、我が故郷……。

 ドアが開き乗り込むと、アナウンスのあとドアは閉まり電車は動いた。

 田京駅には小さな駐車場があった。駆は遅刻しかけたりすると、母にどやされながら渋々車で送ってもらい、その小さな駐車場へ停めてもらう前の道ばたで、下ろしてもらった。

 駅を行き交う同級生たちに、母親に送ってもらった自分の姿を目撃されないためである。

 動き出した電車が、その駐車場を過ろうとしたときだった。

 見覚えのある軽自動車が、田京駅の小さな駐車場に停車したのだ。

 早苗先生……、と声に出そうになった。確かにそれは、学校の駐車場でも見かける早苗の白い軽自動車だった。

 運転席のドアが開き、出てきた長い黒髪と、眼鏡をかけた白い肌の女性――。

 駆は最後までその姿を目にすることはできなかった。

 田京駅を過ぎると、ドアに背を預け頭の中で整理しようとする。

 勇三ははちゃんと全員に連絡したのか? 

 早苗は連絡を知らされた上で来たのか、それとも、知らなかったからこそ来たのか……。


 駆が早苗の元へ訪問したのには、そうした経緯があった。

 あのとき見かけた車も女性も、間違いなく早苗であれば、自分の態度は何とも失礼なものだったと思ったからだ。

 そして、早苗が自分に対する好意らしきものを抱いていたとするなら、あの時の自分の態度は厚顔無恥というか、早苗の思いを棒にふってしまっている。

 だから、こうして一言謝ったのだが――、

「なんでいきなり謝ってるの?」

 突然の謝罪に、早苗は目を丸くしながら笑いかけてきた。

「いや、その……」

 もしや、自分の病はあのときから発症しており、早苗の台詞も症状だったのでは……。

「昔、よくお世話になったので、色々と申し訳ありません、と……」

 駆はそう言って誤魔化した。苦しい言い訳にも聞こえなくはなかった。

 何よ、それー、と苦笑する早苗に、肩を軽く叩かれた。


 昼食はチャーハンをご馳走になった。

 大きな皿に盛られた香ばしい香りのするチャーハンは、大きな具が特徴的で、食べごたえがあった。一人暮らしで中華屋へ行くこともあまりなく、コンビニのものをよく食す駆には、チャーハンの味よりも、大きな海老や野菜の方に満足感があった。

 平らげると、早苗の母を尻目に、台所にまで皿を運ぶ。早苗の母は駆のそうした所作に、「別にいいのよお」と声をかけた。

 シンクに置き、水につけ居間へ戻ると、早苗の母は横になって目を閉じていた。

「檜山家の習わしみたいなものよ」早苗が小声で言う。

「私が子供の頃も、昼食のあとはこうやってよく昼寝したものだけど……」

「時間を気にせず昼寝となると、夕方までずっと眠れそうですけどね」

「それじゃ昼寝って言わないわよ」言って、早苗は目を眇める。

「若い頃はいいかもしれないけど、大人になると仕事に合わせようとするから、自然と短い時間で済ませようとするわ。母さんも十五分くらいで起きると思う」

 早苗は、壁にかかっていた車のキーを手にし、母さん、と側臥する母親を呼んだ。ちょっと車使うからね、と断りを入れ、駆の方を向き、

「少しドライブしましょう」


 檜山宅の横にあったシルバーの軽自動車に乗り込み、駆と早苗はドライブを楽しんだ。

 カーステレオを聴きながら、坂道を登っていく。

「駆くん、今仕事何してるの?」

 早苗の質問に即答するのは避けたかった。どんな職種に就いていたか、答えるのを煩わしく感じたのは、ある事情があったからだった。

「一週間くらい前まで、パン工場でピッキングしてました」

「今は?」

「現役で無職です」

「無職っていう職業はないわよ?」

「わかってますって」

 十二月の上旬は、まだどこか温かさがあった。

 陽気に包まれたこの日、車に乗っていても寒さを感じず、むしろジャンパーを脱いでも良かったように思えるが、多少の暑さにも似た温かさに準じようと駆はフライトジャンパーを着たまま、過ぎ行く景色を横目にドライブを堪能した。

 車内のエアコンも点けられてはいないが、早苗は白いコートを着たまま運転している。

「無職って、職場で何かあったの?」

 再度、早苗の質問に遭ったが、駆は辞めた理由を伝えるのをはばかった。

 辞職した大まかな理由となるのは、駆を悩ませている〝声〟だった。空を掴むような駆の病の症状を第三者に伝えても、理解してもらえるか難儀なものがあるような気がした。

 早苗ならあるいは大丈夫だろうか……。

 もはや、教師と生徒の間柄ではないが、駆は恩師として意識している早苗に、少し甘んじてみようと、自分の過去を語りだした。

「パン工場の前は、警備員でした」

 早苗の問いかけに答えようとする内容ではなかった。この会話の出だしは、ともすれば誤りだったのかもしれない。それでも、最終的に無職である理由を語るための機会を作ったつもりだった。

「工場の前は古本屋でしたね」

「その前は?」会話の流れに沿ってはいなかったかに思えたが、早苗は親切にその話に便乗してくれた。

「専門学校に行ってました」

「友達はできた?」

「少し前まで、つるんでいた人はいましたが、今はもう音信不通です。僕からも連絡はしてません」

「どうして連絡しないの?」

「何でなんすかね。よく映画を観に行ったりしてましたけど。僕が映画を観なくなってしまったからじゃないかと」

「あんなに好きだったのに……」

 高校時代、友人たちと映画の話で盛り上がり、その中に早苗の姿もあった。早苗の今の台詞もそんな駆の一面を知っていたからである。

「ほとんど見なくなってしまいました」

 ふうむ、と早苗は相槌を打つと、

「聞く限り職を転々としてきたみたいじゃない?」

「その理由は……」

 うん、と興味を抱いてくれているような早苗の雰囲気に、駆は思いきってこう述べた。

「声が聞こえるんですよ」

「声? どんな?」

「主に中傷というか、耳障りな声です」

「古本屋のときから?」

「はい」と一度頷いてから、駆は当時のことを話した。

「漫画家の夢は、諦めたというか……。働かないと食っていけないので、古本屋でバイトしだしたんです。給料はそんな多くなかったですが、漫画家目指すなら、職場の環境が情報集めに適してると思ったんです。それで……その古本屋は一階と二階に分かれてまして、下にカウンターがありました」

 話ながら当時のことを思い浮かべる。

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