ドライブ②

 発端は、毒島に殴られたあの日。

 保健室で眠りに至ろうというときのことだった。

 眠りかけの駆は、うとうとと梅雨時の涼しさと湿気の混同した中で、微かにベッドの横で誰かの気配を感じ取っていた。

「大丈夫、大丈夫……」

 早苗の声だった。その声は、まるで早苗そのもののように感じた。女性の優しいぬくもりを伴い、殴打された頬だけでなく身体全体を抱いてくれるかのような。

 早苗が様子を見に来てくれたことに安心したものの、クラスの、主に毒島と勇三のことが気になった。

 うかうかと寝てはいられない。

 駆は瞼を開けようとしたが、そこにこんな言葉が駆の耳に響いてきた。

 ……好き……。

 果たしてこの言葉は早苗が言ったもののような気がしたが、瞼を開けようと思った矢先のことだったので、目を閉じたまま駆は様子を窺った。

 香水の甘い香りが、嗅覚を刺激する。

 思春期真っ盛りの自分がこのとき、ある行動を起こしたことは、思春期からくる異性への好奇心からだったと思えた。

 眠ったままやり過ごせばいいものを、駆は突然目を見開き、傍らにいた早苗を凝視したのだ。

「怪我したとこ大丈夫?」

 眼鏡をした早苗の瞳が、レンズの奥で丸くなっていた。

「先生、今……」

 早苗を横目で見たまま、駆はそう言いかけた。

 好きって言いませんでしたか?

 そう聞こうとしたが、どことなく早苗が言ったような気がしただけで、自分の勘違いかもしれないと思ったのは、半分睡眠状態にあったからである。

「なに?」と早苗は惚けたような表情さえせず、首を少し傾げただけだった。

「いえ、何でもありません……」

「どうしたのー」早苗は駆の言い淀むさまを見て不思議がった。

 駆は話をそらすための手段として、勇三と毒島のことを尋ねた。

「勇三くんは親御さんが迎えに来たわ。毒島くんは、悪いけどしばらく学校へはこられないでしょうね」

 暴力沙汰を起こしたのだ。毒島が停学処分になるということだろう。

「嫌ですね。あんなことがあると……。かといってあの連中の悪口すら言うのも気が引けるというか」

「別に変に気を使う必要もないと思うんだけど……。ちなみにそれって優しさ?」

「優しさじゃないっすよ。臆病なだけです。だって、どこで誰が聞いてるかわからないじゃないですか」

「ここは保健室で、私と保健の先生くらいしかいないんだから、別にいいんじゃないの?」

「悪い人を悪いって言うのが、僕にはやりにくいことなんだと思います。友達が殴られましたし、僕も怪我したんで、あいつらが悪いことは確かなんですが」

「それ、悪いって言ってるようなものよ」

「そうですかね……」

「駆くんは、何も悪いことしてないんだから、もうちょっと胸張っていいと思うんだけどね」

「何でですかね」

 駆は今の言い様が突拍子もないとはわかっていたが、持論を述べようときっかけを作った。

 変な聞き返し方に、早苗は、えっ? と返答した。

「何でああいう連中がいるんですかね? 強さを見せびらかしたつもりなんでしょうか?」

「不快に思う気持ちもわかるわ。でも私にとっては教え子の一人なのよ。あんなことがあると公平にとまではいかないけど。罰を受けるのは、当然のことだし……それなら、勇三くんや駆くんだって少しは報われると私は思うんだけど」

「将来結婚して子供が産まれて、その子供が同じ目に遭ったら、ああいった人たちってどういう態度を取るんですかね?」

「同じよ」早苗はきっぱりと言った。

「いじめた方が悪い、学校が悪いって言うのよ」

「何か色々間違ってるような気がします。僕はそんなこと自体にムカつきますよ」

 ベッドに寝そべったまま、早苗との時間は過ぎていった。

 その後、無事授業に戻り、数日後勇三が登校してきた。

 相も変わらず、ノートに各々の作品を掲載する遊びは続けていた。

 毒島がいなかったからこそできたというのもあったが、駆とは小学校からの付き合いであるクラスメイトから、こんなことを言われた。

「そのノートに書くやつ、やめろよ。そのせいで毒島は怒ったようなもんなんだからさ」


 早苗との記憶を思い出そうとすると、帯を引いたようにそんな出来事まで回想する。

 早苗の妙な台詞は、回顧するとまだあった。


 高校二年生の秋だっただろうか。

 英語の書き取りの宿題が出ており、駆は職員室に届けることになった。

 昼休みに職員室へノートを提出しようと赴いたが、早苗の姿はなく、机の場所は知っていたので置いてくると、職員室から出た際、早苗と遭遇した。

「何の用だったの?」早苗の声がけに駆は「宿題出しておきました」と述べると、

「ああ、いなかったからね私。ありがとー」

 と礼を言われると、駆は会釈しつつ、廊下を歩き出した。

 背後で引き戸を閉める音と共に、

 ……好き……。

 という言葉が聞こえてきた。

 そのときからか、駆はそうした早苗の態度に少し悩み始めた。

 好意として受け取ってもいいとは思う反面、生徒と教師の間柄である。

 常識的に考えて、恋愛はあり得ないだろう。

 何にしても、駆は自分が未熟であるような気がした。女性をいざというときに守ったり、大事にしたりすることが自分にできるだろうか、そんなことも悩みの種の一つだった。

 いや、まだ自分には受け入れられる器はない。

 訓導と一生徒という関係性は、世間体的にも危うい感じがする。

 そこに強い愛があれば、テレビドラマのような恋愛を繰り広げることもできるのだろうが、駆にはまだそんな情熱すらなかった。

 声だけを頼りにしているのでは、恋人同士という形も成り立たないのでは?


 やがて一年が経った。

 駆と勇三、そして浩介は上京することになった。劉司はこの伊豆の地で就職することになり、卒業シーズンであるこの春先の時期に、四人の仲間たちは、先に東京へ行く駆を駅で見送ろうという計画を立てていた。

 四人それぞれ、やることがあっただろう。駆も当初は自分を見送ることは遠慮して断っていたが、当時は集まって何かするということが四人にとっては当たり前だった。

 この三ヶ月ほど前に早苗がこんなことを言っていた。

「そっかあ、あなたたちほとんどが東京に行っちゃうのね。もし旅立つ日が来たら、私にも見送らせてよ」

 駆たちのグループは、早苗とはよく話をした。映画の話で盛り上がったが、モデルガンに精通していた勇三が、劇中に登場する銃のことを、得々しく話すことが多かった。

 勇三も早苗を意識していたのか、それとも過去、早苗の言っていたことを尊重したかったからか、見送りが決まったとき、早苗も誘おうと言い出した。

「俺、早苗先生も誘ってみる。俺たちも含め、もう会う回数がどんどん減っていくだろうから」

 ある日の昼休みの教室で、勇三はそう言った。

 駆としては喜ばしくもあり、また、面倒を掛けてしまうことに後ろめたさもあったが、早苗との心の距離は高二の六月からあまり縮んではいなかった。

 一年以上の間、あの告白染みたような早苗の声は、しばしば聞こえてきていた。しかし、駆としては未だ教員と高校生であることの立場は変わっていなかったために、早苗が来るというのはいたたまれなさがあった。勇三にはこう伝えた。

「いや、先生には伝えなくていいだろう」

 スポーツ刈りの頭を掻きながら、勇三は、何で? と言った。

「先生も忙しいと思う。色々用事があるだろうし、あまり無理させない方がいいんじゃないか?」

 その意見に、横で昼寝をしていた浩介も、そうだ、と腕に埋めていた頭を上げ賛同してくれた。

「俺たちの中での話だからな。先生だって興味ないだろう」

 そうかなあ、と勇三は頭を傾げ、

「多数決で決めるとして、りゅうさんはなんて言ってるんだ?」

 勇三は劉司から肯定的な意見を聞きたかったようだが、劉司は現在、図書室に出掛けていた。眠たげな言い方で浩介がこう述べた。

「りゅうの奴も最初、お見送りする計画自体を否定していたからな。きっと良好な意見は聞けないと思うぞ」

 それを聞いて、勇三は腑に落ちないような顔をしていた。

 駆は早苗を来させない代わりの条件のつもりとして、こう言った。

「まあまた、ゴールデンウィークには帰ってくるつもりだし。専門学校だから、夏や冬にも休みはあるだろ。そんときに同窓会みたいな感じで先生も呼べばいいんじゃないか?」

 うーん、そうかあ、と勇三はいささか不満げに顔をしかめた。

 浩介は丸くしていた背を伸ばし、あくびをすると、

「だいたい不公平に思えるんだよ。かっちゃんだけ全員で見送って、最終的に見送られるのって、お前だろ?」

 勇三は、ああ、と頷いた。浩介は続ける。

「見送るの、りゅうさんしかいないじゃん。バランス悪いよ」

「俺は構わないんだけどね」

 勇三のアイデアを持ち上げたかったのもあったが、やはり浩介の言う通りアンバランスである。

 このときから、駆は当日の見送りを断るつもりでいた。


 卒業式を終え、春休みの半ばに、駆は勇三に連絡した。東京への出立を明日に控えており、かねてから見送ることをキャンセルするためである。

「ごめん、やっぱり見送りしなくていいよ」

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