ドライブ①

 平坦な道を進みながら、そういえば昼食を摂らなかったなと思った。

 アプリの地図上には、近くに店などは表示されておらず、駅前にあったコンビニでおにぎりでも買えば良かったと後悔の念を抱く。

 しかし、空腹と早苗を秤にかけても、早苗の方を優先した。

 民家の並立する町並みは、駅を背に歩いて行くと、前方に緑樹の生い茂る山肌が見えてきていた。

 地図のカーソルも、山の麓から少し入ったところを指している。

 途上、急な坂に差し掛かった。

 小中高とこことは離れた場所に住んでいた駆だったが、この山に踏み入るのは初めてに近い。

 道は舗装されており、地図を見やると目的地まであと少しだった。

 十分くらいは登っていっただろうか。道の左側は歩道で、道を隔てた右側は木々の繁った崖だった。崖崩れ防止のコンクリートが嵌め込まれ、特に分かれ道などもなく、そのまま道を進んでいくと、高い木が目立ち始め、陰がかるようになった。

 スマートフォンを食い入るように見つめる。

 目的の場所まですでに目と鼻の先である。

 辺りを見回すと、右側に続いていた崖に、丸太で作った階段があるのを目にした。視線を下方へずらしていくと、表札とポストがあった。

 表札には檜山の文字が記されている。

 ――ここかあ。

 崖の下から見上げると、階段が上の方まで続き、家屋などの影かたちは見えなかった。

 崖の上方には樹木がうっそうと繁り、その隙間に少し青空が垣間見れるくらいである。

 ポストと表札の脇に小さな門がある。そこにインターフォンもあったので、駆は手をそっと伸ばした。

 ――先生いるかな……。

 一応、この日に来訪することは、メールで知らせていた。ラインでのやり取りではなく、メールという古くさいやり取りなのも、双方のIDを交換していないからである。

 もしいなかったら、諦めて帰ろう……。

 そう思うと、自然とインターフォンを押していた。

 数秒が経ち、インターフォンから聞こえてきたのは、はーい、という女性の張りのある声だった。

 一瞬だけ息を吸い、駆はこう声に出した。

「すみません。檜山早苗さんに高校の頃お世話になった、曽屋という者です。檜山先生はいますか?」

 あらそう、と甲高い声が返ってきた。

「早苗の教え子だった人ね。早苗ならいるわよ」

 しばらく間が置かれると、早苗の母らしき女性は、

「どうぞ。ちょっとめんどくさいかもしれないけど、入ってください」

 はい、と返答すると門を開け、丸太の階段を上がっていく。

 まっすぐに上にはいかず、ジグザグした段の造りだった。

 登頂部に来ると、視界の半分を埋め尽くしていた木立の群れはなく、一軒の家が建った開放的な空間へと変わった。

 二階建ての少々古めかしい家である。

 屋根は赤いが、眺めていると所々黒ずんでいるように見える。それは、家の壁もそうだった。ベージュの壁には、水垢のような黒ずみが、そこかしこにあった。

 登りきった場所から見て、真正面には小さな畑を挟んで、カーテンの締め切られた窓がある。右側に物置が、左側には洗濯物が干してあった。

 ――入口? 畑を迂回すれば入れそうかな……。

 一見すると裏手のようだった。右側から遠回りしていくと、物置の向こうに、少量の草木が生え、さらにその奥へと道が続いている。

 小さめの畑を通り、物置の前までくると、見えていた窓が突如開けられた。

 突然のことに少しばかり驚きながら、家の中から出てきた人物を食い入るように見つめた。

 ダークグレイのスエットを着た長髪の女性である。

 長髪と言っても後ろで結われていた。白い肌に、痩せ細った顎のラインと、眼鏡をかけたレンズの奥には、興味津々と駆に視線を注ぐブラウンアイがあった。

「檜山先生ですよね……」

「ごめん、表から入って。こんな格好で申し訳なかったね」

 言ってすぐに窓を閉めた。

 表というのはやはり、物置の奥にあった茂みの先のことだろうか。

 要領を得ないまま、物置を通りすぎて茂った道を行き、少し開けた場所に出る。

 その際、明らかに玄関と見られるガラス戸を横目で確認し、なるほど、一般的にはこちらの方が表口として認識しやすいと思った。家の前は細くも舗装された道で、左側は下り坂になっていた。

 丸太の階段を登らずに、道なりに進んでいけば、この道と分岐していたという仕組みだろうか。

 納得がいき、後ろを振り返るとガラス戸をノックした。

 どうぞ、と中から声がし、扉を開ける。

「お邪魔します……」

 あらあ、と気前良さそうに声を張り上げたのは、早苗の母とおぼしき女性だった。

 エプロンをしながら、赤いフリースを着て、下はジーパンという出で立ちで、黒い髪は短い。早苗のスエット姿を見た時の違和感はこの女性にはなく、年相応な容姿に駆には思えた。

 快く迎え入れてくれたこの女性の雰囲気は、目を細め、緩く曲げられた口許を見ると、親しみやすさを感じさせる。

「すみません。突然お邪魔してしまって……」

 駆は小さく頭を下げた。

「いえいえ、早苗からは聞いていたわ。あの子ったらあんな格好でねえ、ごめんなさいね」

 いえいえ、と何度もお辞儀した。

「さ、どうぞ入って。ご飯用意したから」

 促されるまま靴を脱ぎ、板敷きの床を踏みしめる。

「すみません。食べて来ようか迷ったんですが……」

「いいのいいの。遠慮なく食べてって」

 居間のような場所へと案内された。

 三十二インチくらいの横長テレビが、部屋の隅に鎮座し、大きなテーブルの前に用意された座布団に腰を下ろすと、天井際の壁には早苗の祖父や祖母らしき写真が飾られているのが目についた。

 壁にかけられた時計は止まっており、今は十二時過ぎのようだが、七時半辺りで停止していた。

 早苗の母が台所で何かやっているらしく、駆は一人で待たされることになった。畳の上にショルダーバッグを下ろし、MA‐1を脱いで軽く畳むと、開けられた襖の向こうに白いレースカーテンを見つけた。先ほど畑の手前で見た窓だろう。

「これでちっとはましになったかな」

 言いながら、駆の座る部屋へ入ってきたのは、早苗だった。

 眼鏡をコンタクトにしたらしく、二重瞼でくっきりとした瞳が駆を見つめている。高校の時と同じ瞳だった。髪型は高校時代の時のショートボブよりも、背中まで伸ばしているようだ。

 ケーブル編みが施された白いタートルネックに、細い足のラインがはっきりと見える黒いスキニーパンツ姿だった。

 別段、駆は自分のことと同様、衣服には疎いので、休日をだらだらと過ごしたような、よれたスエットでもよかったのだが、早苗なりに気を使ってくれたらしい。

「勇三くんづてで、私の連絡先聞いたみたいだけど、何かあったの?」

 早苗は言いながら、駆の向かいに座った。

 駆はここへ来た事情を説明しようと語句を選ぼうとしたが、早苗は話し続ける。

「何か、深刻な悩み事? それとも懐古的な気分に浸りたくなった?」

 早苗だって、これまで駆の他に多くの生徒の相手をしてきたはずだ。だから、駆が一人特別ということはなく、こうして大人になった自分が訪問してきてしまうのも、厚かましいものがあるに違いなかった。

 例えそれが、過去に犯した、ごくごく小さな過ちへの贖罪のためだとしても、早苗という女性に会いに来てしまったのは、間違いだったのかもしれない。

 しかしそれでも、駆はこの故郷の空気を吸いながら、早苗に一言言っておきたいことがあった。

 早苗の顔は、高校生のときから少しも変わっていない。しゃべり方も、ちょっとした仕草も、多少は老けていたって構わないのに、そこにあのときの早苗はいたのだ。

 早苗の問い掛けに、駆はこうはっきりと返した。

「先生……」そして、深く頭を下げた。

「あのときはすみませんでした……」

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