小旅行③

 蛍光灯の点いていない天井。窓から漏れる薄い光が、カーテンを閉め切ったベッドに降り注ぐ。

 眠るには支障のない明るさだ。

 日頃から夜更かしなどで睡眠不足気味の駆は、うとうとと眠りに入りかかった。

 少々寒さのある梅雨の保健室は、耳に届くエアコンの音からして、除湿モードにでもなっているのだろう。エアコンから漏れる風の音が、合間に静かになるのだ。白い布団をかけていても暑くはならなかったので、できあがったほどよい温度に、駆は眠りへと誘われた。

 カーテンの向こうの保険医の存在も次第にぼやけていき、気付けば寝息を立てていた。

 自分の鼻呼吸だけが、耳に入り込んでくる。

 最中、甘い香りを嗅ぎ付けた。

 この香水の匂いは誰のものか。

 耳元で囁きかけるかのようにその声は聞こえた。

「大丈夫……」

 聞き間違いなどではなく、その声は早苗のものだった。

 じんと痛む頬のみならず、自分の体そのものを優しく包んでくれるかのような、柔らかくて甘い感覚が、駆の眠りを深くしていった。

 

 三島に着いた。

 ここからは、伊豆箱根鉄道に乗って、早苗の住む家の最寄り駅にまで乗ることになる。

 三島駅周辺は、幼い頃と変わらず、電車に乗っていてもたまに過る町の様子から、賑やかであることが窺える。

 色んな場所に人は住む。

 東京で散々目にした人ごみや、ここまで来る途上見かけた、山々の景色の中に誰が住んでいるであろう、家屋の建ち並ぶ景色が違和感なく視界に入った。

 それだけで、駆は世界の広さを知った気がした。

 そうした光景は日本という国のほんの一部分でしかなく、人は世界中どこにでもいる生き物なのだと教えられたようだった。

 その中の自分一人が、どんな服を着て、何をしていようが何てことはないはずなのに、とやかく言う人はいる。電車のシートに座っていると、途中で乗り合わせた女性二人が、少し離れた場所で会話をしているのを聞いただけで、自分に悪口を言っているような気がしてしまう。

 デブという言葉や、ダサいという言葉が、時々心をつつくのである。

 それで、の「で」という言葉を日本人はよく使うが、駆の耳にはそれが「デブ」に聞こえてしまう時もあった。

 ダサいの「さい」というのも心で予測変換してしまうことがある。よく耳にするのは、後方二文字の〝さい〟だが、くさいのさいでは、と考えてしまう。

 クサいのかダサいのかわからなくなるときもあり、そういうときはどのみち、自分への悪罵のようなので、受け入れるしか他に方法がなかった。

 駆はこれまでそうした出来事を繰り返してきたために、声が聞こえ、傷つくと自分に冗談を言って、予防線を張ることがあった。

 その予防線とは、「空耳アワーだ」とふざけたことを思って、ワンクッション置くというものだ。

 そのまま傷ついてしまうことの方が多いが、空耳アワーと思い余裕をかました方がまだ傷口は浅い気がした。

 そうは言っても、相変わらず声は聞こえてしまう。

 いつ頃からだっただろうか。

 十九歳の頃に上京し、三十二歳の現在に至るまで、おおむね退職する理由は、この「声が聞こえる」ことによっての、周囲への憎悪や嫌悪からだった。無論、辞職の際、口頭や文面で伝える時には、一身上の都合ということで誤魔化したが、駆の精神状態としては、あまり芳しくなかった。

 ある時、東京にいた親戚を頼り、親戚の知人の紹介で心療内科を案内された。

 国分寺の雑居ビルにあった、メンタルクリニックである。

 内装は病院のような白を基調とした、無機的なものとは違い、どこか慣れ親しんだ住まいの一室のようだった。

 焦げ茶色のテーブルと椅子、椅子の前に座る、白髪混じりの医師も白衣などは着ておらず、セーターの下にシャツとスラックスという格好である。

 医師との診察は、幼少期から現在に至るまでの、大雑把な記憶を説明するところから始まった。

「子供の頃は、よくいじめられました。自分と仲のいいグループもいましたけど、基本、弱い立場だったと言うか……。弱いくせに逆らうんですよ。無謀って言いますか、自分の立場がわかっていなかったんですかね」

 医師は、カルテのようなものに書き込みながら質問をする。

「スポーツとかはされてましたか?」

「サッカーをやってました」

「ポジションとかは?」

「どこだか、名称を忘れました。ただ、補欠だったのは間違いなかったです」

「やろうと思ったきっかけは?」

「周りがやっていたから、というような理由です」

 ネガティブ寄りの言葉で駆は語っていった。

 やがて中学、高校と話は変わっていった。

「中学の頃は卓球部でした。そこでも補欠要員だった気がします。いじめとかはあまりなかったですが、中二の頃が一番乗っていたように思えます」

「乗っていた、というのは?」

「一番楽しかったと言うか、輝いていたと言うか。仲の良い友達と同じクラスになったりしたからですかね」

「声とかはどうでしたか?」

「そのときはあまり気にしてなかったような……。ああ、服のことで悩んでましたかね。ファッションのことがわからなくて、あまり外にも出掛けたりしませんでした」

 これまで生きてきて、どこから異変に気付いたのか、そのことを考えてみると、すでに中学二年生の頃から、自分の容姿を気にしていたと思うに至った。高校の頃になると、その気持ちは増していったようにも思う。

「高校の時なんて特にそうでしたね。私服で遠足行くってなったときに、すごく嫌でしたから」

「周りに見られるのがですか?」

「はい。きっと、と言うか、間違いなく言われるだろうなと。プールの時も嫌でしたね。毛深かったので、周囲と比べると、みんな腕や足の毛がなかったりしたので、コンプレックスは大きかったです」

 宗仁は身を乗り出した。

「やっぱり弱いですかね。こんな小さなことで悩むなんて……」

 医師は破顔一笑し、

「いえいえ、思春期なんて誰でもそうでしょう。そんなに気になさらない方がいいですよ。……将来の夢とかありましたか?」

「漫画家目指して上京しました。専門学校に入って、そのときは調子に乗ってました。漫画が好きなはずなのに、漫画の批判ばかりするんで、友達はいましたけど、ひんしゅくを買うときもありましたね……」

 上京し始めた頃は、町を歩くときに、雑踏の中で色々と心が圧迫されたような気分に陥ったことがあったと述懐した。

 当時は、武蔵境の学生寮に住んでいたが、そこから駅へと往復する際、商店街を歩いていく。その時の雑踏に混ざると、否応なしに、自分の着ている衣服に関しての〝感想〟が聞こえてくるのだ。

 誉め言葉ではなく、けなす言葉である。

 診察室の窓が空いているのか、外から車の大きなエンジン音が聞こえた。カーテンは締め切られ、ここは三階でもあったので、誰かに聞かれる恐れはなさそうだと、少し安心する。

 たいしたことのない自分の人生を誰かが聞いても、損得勘定の欠片すらお互いにないはずだが、エンジン音を聞いて、自分のことを話していた駆はそれが外に聞こえてしまわないか気にするのだった。

 そうして駆は、専門学校時代のことを話すと、現在までのいきさつを説明していった。

 駆は他者に対して初めてそうした事柄を伝えた。

 医師は顔色ひとつ変えずじっと耳を傾けてくれた。

「描いた漫画をパソコンの取り込んだりすることもあるんですが。単なる趣味なんですけどね。その時同じアパートの住人が他の部屋から、自分のパソコンやスマホを覗いてくるような声が聞こえまして……」

「例えばどのような?」

「絵が下手だとか、展開が乏しいとか……」

「昔はラジオやテレビが自分を見ているっていうのがありましたね。パソコンやスマホとなると、時代によって聞こえてくる物が変わってくるってことでしょうね」

「何か周りから見られているような気がしまして……。本当に誰かから盗撮盗聴されてるように感じるんですよ……」

「あなたがたいそうな人間だったら、盗聴などする価値はあるのでしょうが……」

 確かに普通に考えて、一般人の自分のプライベートを、密かに閲覧するという行為はおかしいと駆は思った。だが、

「明確に声が聞こえてくるんです。幻聴なのか本当の現実の声なのか、境目がわからなくなるんですよ」

 そうして、駆は自分の身に起きていることを、淡々と話していった。

 一時間以上は話したかもしれない。

 駆は速やかに自分の病名を知りたくなり、医師に確かめた。

「病名としては、統合失調症や、自律神経失調症などがあげられますが、病名よりもまず、治すことから始めましょう」

 こうして、薬を処方され服用するようになった。

 幻聴が聞こえるという病気があるとは以前から知っていたが、まさか自分がそれにかかるとは……。

 病気だと納得するまで、駆の中では時間がかかった。

 自分に対しての中傷、大部分が着ている服や顔、体格を蔑むものだが、だとして、自分はどうしていけばいいのか。

 町中を歩くとき、そんな声が聞こえた瞬間、自分はどう受け止めるべきなのか。

 幻聴にしては、その声は町の喧騒に混じって、あたかも他者が言い放った声に聞こえるのだ。

 誰からどこへ向かって放たれたものか。駆には自分が被ったという思い込みがあったものの、実際、誰が誰に向けて放った言葉なのか、わかるよしもない。

 それは、自分以外にも、着ている衣服が流行やセンスのよさから逸脱した人間を見かけたことがあるからで、一様に自分に向けての攻撃であると思うことは避けねばならなかった。

 とは言え、理不尽に声は聞こえてくる。

 よくそれで生きてこれたわ。

 等と言われたこともある。

 だから駆は、開き直りに近い気分で、声が聞こえると心で冗談めいて空耳アワーだと言い聞かせるのだった。

 テレパシー能力などという戯言さえも、信じ込んでしまう自分がおり、冷静になってインターネットで検索すると、そう思うこと自体が症状の一つであるとの記載があった。

 その時駆は我にかえるのだ。

〝やはり自分は病気なのだ〟と。


 目的の駅につくと、冬なのにいささか体が熱を帯びているのを感じた。

 久方の故郷なので、ある種の興奮でも覚えたのだろうか。

 事前に教えられた住所を、スマートフォンの地図アプリに登録し、案内に従って歩く。

 早苗とは卒業以来会ってはいない。今どういう生活をしているのだろう。

 それに加え、駆は友人たちの現状が気になった。せっかく地元に戻ってきたのだから、彼らの現在を訪問するなどして確かめるのも友人としてありだろうと思った。

 勇三にしてみてもそうである。仕事だから、と今回は早苗の住所と早苗に駆が会いに行くという旨を彼女に伝えてくれただけで、同行することはなかった。

 勇三とも近況を語り合いたいものだが、それは叶わずにいた。

 真っ先に、早苗に会いに行きたいという衝動の方が強かった。

 会って、あの時のことを謝罪しようと、心に決めていた。

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