小旅行②

 新宿から小田急線に乗り換え、鉄路、三島を目指す。

 早苗は現在、伊豆の国市の実家で親と暮らしているという。

 旅行にしては、ショルダーバック一つを肩から下げるだけという簡素な出で立ちだが、早苗に会いに行くのにそうたいそうな荷物はいらない。

 平日運航なために、電車内は閑散としていた。東京から出てずっとシートに座ったままだ。

 インターネットで検索すると、東京の片田舎から三島までは、三時間ほどかかるようだ。その間電車に乗りっぱなしなのだから、暇つぶしになるようなものを、と思ったが、ソーシャルゲームなどを人目を忍んで遊ぶのは気が引けた。

 電車が駅に停まり、ドアが開く。案内放送が鳴り響く中、駆は何者かからの声を聞き取った。

 ……大丈夫……。

 騒音にも似たけたたましい放送の最中、その厚い音の隙間に聞こえたのは、早苗の声に違いなかった。

 こうした奇妙な現象は、時折感じるときがある。

 ここには早苗の姿一つもないのだから、ある種の幻聴に近い。

 発車のベルが、駅構内で鳴り終わる直前。

 婦人が走り込んできて、隣に座った。

 五十代位の婦人は息を切らしていた。そして大きなため息を一つつくと、急にそわそわし出した。

「あの、すみません……」

 息を喘ぎつつ、婦人が駆に呼び掛ける。

 駆はあからさまに嫌な顔をして、婦人の方を向いた。

「この電車って新宿に行きます?」

 反対方向の電車に乗ってしまったようだ。

 背丈も低く、婦人と呼ぶにはいささか老けた印象があった。しかし着ているものが、パーカーとジーンズというカジュアルな着こなしだったので、老婆というには若い印象を受ける。

 走ってきたところを見るに、駅の時刻表を何度も見返していたところ、発車の放送が聞こえたために、慌てて来てしまったのだろう。

 残念ながら、駆に親切に教えようとするたしなみはなかった。

「どうでしたかね……。よくわかりません……」

 言うと駆はそっぽを向いた。

 向かいに座っていた壮年が気さくに話しかける。

「方向逆です。次の駅で降りて、隣のホームの電車に乗ってもらえれば」

 すみません、と婦人は頭を下げた。

 ――さ迷わせておけばいいのに……。

 駆は胸の奥でそう呟いた。

 そしてすぐ、気持ちの整理が始まった。

 ――俺って冷たいなあ……。

 どうでもいいことだと思いたかった。見ず知らずの女性の手助けなど、自分の役目ではない。

 駆の耳の奥に、再び早苗の言葉が響いてきた。

 ……人には親切でいましょう……。

 明るく話しながら相好を崩す、早苗の顔――。

 高校時代はその言葉に純粋に従っていたように思う。

 しかし三十路を過ぎた今は、現実と格闘していく中で、駆の中の早苗に対する憧憬や尊敬などが薄れていってしまったように感じる。

 その理由の一つとして上げられるのが、幻聴だった。

 中傷するかのような声を耳にし、それが原因で職場での態度が悪化したのだ。

〝自分以外、すべて敵だ〟

 そう思うことは勤務態度を変容させるのに真っ当な理由とは言えないが、知人でも何でもない人間との距離を作る理由には、おおむね該当すると言ってもいいだろう。

 電車が次の駅に停まると、三人ほどの若い男たちが入ってきた。

 乱暴な話し方と、下品な笑い声。中学や高校のときにいた、いわゆる不良という部類に入る人種だろう。

 自分が攻撃される確率は高い。

 駆の出で立ちとしては、カーキ色のミリタリージャケットと、黒いパンツを履いており、流行とはかけ離れていた。

 いや、自分が大抵、悪口を言われる瞬間、流行り廃り関係なく被ることもある。

 男たち三人が談笑する。

 何を話しているかは聞こえないが、笑声を耳にするといやが上にも、自分のことを笑っているように思ってしまう。

 どういう会話なのか、だせえ、キモい、という言葉も所々混ざっている。

 もしや自分のことか、とひやひやさせられる。しかしそうこうしているうちに男たちが降りるより先に、自分が電車を乗り換えることになった。

 小田原から東海道線で三島までの道のりになった。

 外の景色も徐々に自然が多くなってきた気がする。

 ……大丈夫、大丈夫……。

 シートに深く腰を付けていると、柔らかな早苗の声が耳朶にふれてくる。

 トンネルを抜けると、窓から温かな日差しが入り込んできたのと同時に、駆の高校生時代の思い出が閃いた。


 高校二年の六月。

 梅雨時はどこもじめじめして人の心持ちというものを狂わせる。

 衣替えもしたばかりで、制服の白いワイシャツに、スラックス姿で廊下を歩くが、その日は汗ばむほどの陽気ではなく、肌寒かった。

 駆の友達グループは、イラストやショートショートなどを、共有しているノートに書き込み、見せ合う間柄にあった。

 グループ内の面子は、親同士とも繋がりのあったスポーツ刈りの勇三、髪を中央で分けた童顔の浩介、三島方面から通学する、細面の劉司といった友人たちである。

 その日も、勇三がノートに何やら描いていた。勇三が夢中になって描いている後ろで、クラスでも粗野な物言いをする毒島たちが、ひそひそと話す。

「また何か描いてるよ」

「気持ちわりい……」

 クラスのリーダー格だった毒島とその連れ合いたちは、最後尾の席だった勇三に対して陰口というよりは、わざと聞こえるくらいの声量で、口々に罵っていた。

 駆はそんな毒島たちのやり口に、嫌気が差していた。

 元々、中学時代から毒島たちの噂は聞いていた。頻繁に暴力沙汰を起こし、駆の学校の不良たちとも騒ぎを引き起こしたこともあったという。

 毒島にとって駆たちの趣味は、目障りなものとしてしか存在しないのだろう。ただでさえ、クラス全体でも奇異な目で見られていることは知っていたが、毒島たちのそれは顕著だった。

 影響を受けたアニメや漫画の真似事や、文才のある者は短編を書いたりなどし、見せ合っていた。投稿したりコミケなどには参加したりせず、素人同士で気ままに作品を制作することは、駆たちにとっては楽しいことだった。

 しかし、周囲はそれを受け入れがたいものとして見ていた。

 男同士でやることではなく、むしろ女々しいことのように周りには映っていたようだ。

 かといって過度に咎められることなどされなかったために、新学期が始まり知り合ってからは、交換日記じみたやりとりは続いてきていた。

 やがて、描き終えた勇三が駆の元へ持って行こうとしたとき、事件は起きた。

 毒島のグループの一人に足を引っかけられた勇三は、つんのめって転びそうになったが、何とか転ばずに済んだ。

 拍子にノートを落としてしまった勇三は、拾おうと前屈みになるも、その腰を毒島の足の爪先が穿ったのである。

「いてて……。何すんだよ」

 と勇三が食って掛かると、毒島は強く勇三を蹴飛ばした。

 勢い余って床に転倒した勇三は、毒島から数回、殴打と足蹴を食らった。

 その傍ら、見かねた女子が先生に報告するため教室を出ていくのを駆は見届けると、未だ暴力を続ける毒島を止めようと割って入ったのだが、毒島の鉄拳が駆の頬に命中してしまったのである。

 やがて駆けつけた早苗が、場を納め、駆は保健室へ行くよう促された。

 痛む下唇をティッシュで押さえ、駆は保健室へとたどり着いた。

 失礼します、と戸を開け入室すると、白衣をまとった保険の先生が、はーい、と明るく返す。

 普段、保険医は何をやっているのだろう。密室で一人、暇でも持て余しているのだろうか。一瞬で曇天から快晴が到来したかのような今の一声を聞き、こうして生徒が来るのを待ち構えている他にやることがないのだろうかと、邪推する。

「口を切ってしまって……」

「あらあら。もしかして殴られたの?」

 黒髪をうしろで束ねた保険医は、早苗よりも歳は上に感じる。早苗の年齢自体、定かではないが、早苗の印象は、スーツ姿が初々しい大学を卒業したての社会人にも見える。なので、二十代前半と見ていいかもしれない。比較して保険医は、三十そこそこか、二十代後半と見ているが、やはり尋ねることなどできはしない。

 消毒液を塗布したものを患部に当て、絆創膏を貼ってもらうと、保険医は気を回してくれた。

「少し横になってなよ」

「え、でも……」

 昼休みに起きた一悶着は、今頃どうなっているだろう。保健室の時計を見ると、すでに午後の授業は始まっている。

 それを知ってのことか、保険医はお構いなしに、

「いいから、いいから。少し休んでいきなさい」

 言うと、椅子から立ち上がり、カーテンで仕切られた三つのベッドの端へと案内してくれた。

 お言葉に甘えてみるか、と駆はベッドに寝そべり、布団を被った。

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