宙を泳ぐ声

ポンコツ・サイシン

宙を泳ぐ声 小旅行①



「私、あんたたちの進路に関しては真剣に考えないようにする」

 女性教諭の檜山早苗がきっぱりとそう述べた。

 初夏を迎えた、高校二年の昼休み。

 曽屋駆は、いつもつるんでいる三人の友人たちと、図書室にいた早苗のところに集まり、雑談に興じていた。

 駆は会話の途中で、突然荒くれた台詞を吐いた早苗の顔を密かに見やった。

 栗毛のショートボブに、普通の眼鏡がはみ出して大きく見えるほどの小顔。大きなブラウンアイの瞳と、普段から男女隔てなく話す優しさを持ち合わせているが、今は口を小さく尖らせご立腹の様子だ。

 駆としては美人の部類に入ると思っていたので、そこら辺の不自由はしていなさそうにに思えた。

 英語教師だった早苗は、洋画を好み、映画館には頻繁に行くことがあったらしい。

 その時も映画の話で勇三たちと話し込んでおり、スポーツ刈りの勇三が、早苗に向かって遠慮のない問いかけをしたために、教師らしからぬ一言が出てきたというわけだ。

 勇三の考えの足りない言葉とはこうだ。

「先生は映画見に行くとき、やっぱり一人で行ってるんですよね?」早苗が「悪い?」と聞き返すと、「やっぱり一人なんですね……」というようなやり取りが、早苗の怒りに触れたという経緯だ。

「いきなり何言ってるんですか?」

 髪を中央で分けた浩介が言った。早苗が述べた一言は、教師としてあるまじきことで、浩介の問いかけは必然的だった。

「先生、それ冗談ですよね?」

 細面の劉司が苦笑いを浮かべる。

「冗談じゃないって」

 ええっ、と真顔の早苗に駆が驚く。

 浩介と劉司が顔を見合わせ、浩介の肘が勇三の脇腹をつついた。

「結局就職したって、人間関係が苦しくなれば辞めちゃうものだし」

「いや、まあ、そうですけど……」

 浩介は微かに渋面を浮かべたようだった。

「それはそれで、適当な気がしますけどね」

 勇三も太い眉根を寄せている。

 適当という言葉に反応したのか、早苗は腕を組み、

「人生なんて適当でいいのよ。人間同士適当に鼻唄でも歌いながら、時にやる気を出して、時に怠けて、微妙な量のお金をもらって金持ちに羨ましがれば、気づいたときにはもう三十、四十よ」

 駆はふと頭の隅にあるメロディが浮かんだ。昭和の歌に、シャラララララーと人間のことを歌った楽曲があったような気がしたが、それとこれとは話は別だろうか。

「先生も気づけばもう、そんな歳ですか?」

 勇三がデリケートな部分に触れるようなことを言った。女性に対してはそんなことは聞いてはいけない気がしていた駆だが、こうやって無神経なところが、勇三にはあった。

 早苗は腕を組んだまま、さらに口を尖らせた。

「三十、四十に見えるのか? 私が?」

 あからさまに憤激したように映ったのはこの場にいた浩介と劉司にもわかったようだった。勇三もようやく自分の不躾なところに気づいたのか、いや、まあ……などと言葉を濁す。

「実際、あなたたちは進路決まってる?」

 四人の間で、首肯する者もいれば、首を傾げる者もいた。

 駆は頷いた口だが、述べずとも担任でもある早苗には伝えてあった。

 漫画家になるのだと……。

 そのことで以前、早苗からは指摘があった。漫画家になるためにはどうすればいいのか、ということである。

 投稿か専門学校かという、二つのルートがあるというのは早苗には伝えてあった。小説を書いていた浩介も、東京の専門学校に行きながら、投稿するなどという話は聞いている。

 パソコンが普及していなかった時代。ネット掲載なども現代に比べ、盛んではなかった。

 劉司と勇三は、四人で作品を掲載するノートに、自身の作成したものを載せていた。勇三はミリタリーの類いに精通していたため、よく銃のイラストを描いていた。劉司は浩介と同じように小説を書いていたが、ライトノベルの影響が色濃くあった。

 しかし、早苗からの質問を受け、勇三と劉司は頭を左右に振っていた。

「まだ迷っている人もいるみたいね。ま、大いに考えなさい。自分の将来のことだもの。自分で考えなきゃ自分が損をするわ。もっとも、思い描いた通りの道に進めるかどうかはわからないわよ? 人生は自分の心との葛藤の連続でもあるから……」


 ――先生の言うとおりでしたよ。

 市内のパン工場で働き始めてから、約半年。

 駆は、高校の頃、世話になった早苗の言っていたことに、しみじみと共感を覚えていた。

 昼過ぎの工場内。ピッキング作業を終え、荷台に乗せたパンの入ったプラスチックの箱を、トラックに積む作業だった。トラックが店を回っていくその道順に合わせる形で、荷台の箱を蛇腹状に運んでいかなければならない。

 トラックの荷台の手前で、運ばれてきた箱を順に詰めていく作業を、十年も働いているというベテラン、熊井が行っていた。

「早くしろよ、バカ! 本当に使えねえ!」

 熊井が駆に罵声を浴びせた。

「お前が順番間違えたせいで、俺が苦労する羽目になったんだろ。こんな簡単な事もできねえようじゃ、使えねえって言われたってしょうがねえだろうが!」

 無言で台を押していく駆。先日、作業に手違いがあり、本来駆が行う係だった荷台運びの作業を同じミスを避けるため、熊井と入れ替わったのだった。

 一通り作業を終えると、今度は別室でピッキング作業がある。

「ほら早くしろ! 次の作業に間に合わなくなるだろ!」

 言われるがまま急ごうと、肩に力を入れ荷台を運んで行ったが、高く積まれたパン入りの箱が横へ倒れてしまった。

 中身のパンまでもが放り出され、床に散乱する。

「何やってんだよ、バカ!」

 めんどくさいことになったねえ、と横でぶつぶつ呟いている、中年の女性や、二十代の男性などがしばらく静観していたが、熊井が率先して箱に詰めつつ、倒れる前と同じ順番で箱を積み上げていく。箱に行き先となる店舗名が記載されており、それもトラックが順繰りで品を届けていくための順番になっているため、ただ積んでいけばいいというわけではない。

 他の作業者のこだわりもあって、包装紙の模様も、紙幣の向きを合わせるのと一緒で、同じ方向で並べられている。しかし時間もなく、熊井は仕方なく雑に箱へ放り込んでいく。

「お前、何で黙ってんの?」

 熊井に言われ立ち尽くしていた駆ははっとする。

「お前が倒したせいで、丁寧に箱詰めていったのに結局雑になっちゃったんだろ! みんなに謝れよ!」

 駆は頭を下げた。

「す、すみません」

 忌々しそうに後ろで溜息をつく熊井。

「もういいから、次にやる作業手伝ってこい!」

 は、はい、と別室へと急ぐ傍ら、背後の方で、

「使えねえなあ……」

「あれで三十だって」

「あれじゃ結婚なんてできねえだろ」

「あんな三十路にはなりたくないね」

 鬱陶しく飛び回る羽虫のような声が、駆の背中で蠢く。

 向かった別室では、ピッキング作業が行われていた。

 先ほどと同じく、箱の前面に店舗名のシールが貼られ、袋の模様に合わせて商品を並べていく。商品の入った箱は、それぞれの商品のみのくくりでコンピューターに登録されており、商品の入った箱を荷台に置き、その分の商品を詰め終えると、チェック替わりに詰めた箱の下にある、商品をいくつ入れるかが数字として表示されたスイッチを押していく。

 スピードと正確さが問われる作業だ。駆はその作業に関しては普通にできた。この作業で厄介なのは、川梨という壮年の作業スピードが遅く、熊井に次ぐ第二のお局である和田が、女性らしさのかけらもない凄みのある声で、川梨を急かすことだった。

「早くしろ! おせーし、くせーんだよ、このクソじじい!」

 そんなとき、駆はひたすらに無言で、無表情になるのだった。

 三時には休憩となる。

 昼過ぎの作業をあらかた終えた駆は、他の作業者とは異なる部屋で、休息をとっていた。

 カップに注がれたコーヒーの黒い水面を見つめながら、熊井の声が心で何度も繰り返された。

 ――バカなんだってさ……。使えねえんだってさ……。

 ミスをしたのは明らかに駆の方だ。だが、この時駆は自分を被害者ぶって、悪口を言われたことに腹を立てていた。

 ――俺、こんなところで何やってんだろ……。

 一口コーヒーを含み、紙コップを置く。

 ――仕事できないのは認めますよ。認めてやるよ。でもだからって、あんな言い方しなくてもいいだろ……。

 自分の失態を棚に上げ、悪口を言い放った方に咎があると、あくまで駆は自分を正当化しようとした。

 帰宅しても熊井や安達の乱暴な言葉が頭で繰り返された。

 非正規雇用として雇われ、午前十時から午後八時までのシフトだった。休憩中、作業者たちの憩いの場となる自販機の前のベンチで、会話を楽しんでいるいつもの面子の中に、熊井と和田がいた。熊井から年齢を聞かれ、三十過ぎていることを告げると、普段は気さくに話しかける熊井の穏やかな一面に気を許し、恋愛経験もゼロであることを正直に話すと、作業の合間に童貞だとか、ホモだとかいう声が、駆の耳に入り込んでくるのだった。

 それも熊井の声で聞こえてくるものだから、自然と駆と熊井の間にあった溝は深まっていったということだ。

 そう言われるようになって、駆は同じ部署のスタッフに愛想よく振舞えなくなった。そうすると今度は駆の態度が、周囲への嫌悪感を露呈したことになり、それについても熊井が何かしらの悪口を言っているように感じた。

 そう、言っていた、ではなく、言っているように感じた、のだ。パン工場以前から駆は自分に対しての周囲の評価が悪口となって聞こえ、そのことにいちいち傷ついては、周りと距離を置くようになり、こんなにも耐性がなかったのか、と不思議に感じることが多くなった。

 もっと若いころは、冗談を含めて、それこそホモだとか童貞だとかいう言葉を口にしていた気もする。

 住んでから十二年は立つ、古いアパートの自室のベッドに横になりながら、すでに駆の心持ちは、仕事を続けるか辞めるかの選択を迫られていた。

 無暗に辞めれば、いつの日か味わった、退職後の孤独な黄昏時と、金銭面での不便に苦悩することになる。

 わかっていることなのに……。

 結局辞めても、戦いは終わらない。続けていても更なる試練が待っている。

 悩んだ挙句、翌日から無断欠勤が続いた。

 十一月の徐々に寒さを知る季節に、性懲りもなく駆は人生をさぼった。

 夕方にスマートフォンに電話がかかってくると、ピッキングの作業場の責任者から、こう言わわれた。

「辞めるなら辞めていいよ。どうするんだ?」

 かすれ声で、駆は辞職することを告げた。

 六畳のフローリング、ユニットバス、電気コンロや冷蔵庫が常備された、築四十年のアパートに住み始めてから、十二年。

 薄暗い部屋のベッドで布団に包まりながら、何度も頭の中で繰り返される、工場内の喧騒。

 心に言葉が突き刺さったまま、痛みを無視して毎日工場へ向かった。たったの半年で、新たな就職先を退く形となり駆の心は憂鬱だった。布団の中の闇に身を任せながら、辞職したことが取り返しのつかないことをしてしまったようで、鬱に拍車がかかる。

 自分はどこへ行くのか、何がしたいのか――。

 漫画家の道も、単に絵が上達しないからという問題だけで目指すのを止めたのではなかった。

 面白い話を描き続ける……。それは素人の段階でも、プロになってもずっと付きまとう課題だろう。

 駆はいつしかそれらの言葉が現実味を帯びるようになってきたことで、描くことに向き合わなくなった。

 ベッドから出、便所に行こうとしたとき、スマートフォンが鳴った。

 旧友である勇三からだった。

「久しぶりだね……」

 耳にスマートフォンを当てながら、勇三にそう話しかける。

「久しぶりだね、かっちゃん。最近調子どう?」

「今さっき仕事辞めてきた」

「調子悪そうだね」

「まあな」と言葉を交わしていきながら、駆にある欲求が芽生えた。

 高校の時の恩師、檜山早苗はどうしているのか、と勇三に尋ね、勇三は自分からも連絡してみるよと気を回してくれた。

 そして、数日後。勇三からの連絡で早苗と会うことが決まった。

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