第2話 喪失(2)
そこは真っ暗な場所だった。
どちらが前で後ろか検討もつかない。なんならそこに地面と呼べるものが在るのかでさえ定かではない。
何故自分はこんなところにいるのか。これからどうすれば良いのか。甚だ検討もつかない。
ただ独り、暗闇において何が出来ようか。走ってみようか?いずれ出口に辿り着くかもしれない。ここで眠ってみようか?時が過ぎればここから抜け出せるかもしれない。叫んでみようか?他の誰かがここにいるかもしれない。
そうしてただ何もせず思案のみを巡らせていると、訪れた。それが訪れた。
(─────ッ!!)
まず、痛みが襲う。心臓を脳を、体の内から握り潰さんとする衝撃と、激痛。声は出ず、その苦しみを少しでも外に出すことはゆるされなかった。苦悶に耐えきれず頭を殴り、心臓部分を握る。なんの慰めにもなりはしない。
(助けて───誰か───)
次に、指先が霧散する。手の指が、足の先がさながら塵芥のように自身の身体から離れ消えていく。少しずつ消えていく。必死に掴んだ離すまいと握り締めた。でも消えていく。
(やめてくれ、───お願いだから───)
さらに、体温が下がる。消えた箇所がじんわりと熱を失い、次第にそれは体を侵食していった。震えが止まらない。でも体は動かない。
(どうして─────)
そうして、体から自由が消えていく。
動けない。そこに存在を感じるのに、動かせない。苦悶はまだ続いている。感覚は無くなっていくのにそれに反比例して痛んで、苦しんで、少しずつ、少しずつ、───死んでいく。
痛い、苦しい、辛い、寒い、恐い。
そうして、─────。
瞬間、視界が開けた。
驚きから少年は勢いよく飛び起きていた。痛いくらい眩しい日差しが照りつけている。
呼吸は酷く荒く、心臓の鼓動が体を揺らす。
「…手足は、ある。……よかった…夢、か」
消えたはずの手足が、体が、ある。脂汗にまみれて不快さは酷いものだが。そこに確かに自分が存在している。
少年は自分の体を抱き締めたひたすらに強く。霧散しない自己を。
安堵する。心の底から。その気持ち悪さが抜けなくともそこに自分が存在し、四肢を作動させ、安堵できることに、安堵した。
突然、視界の端に人影が映った。そちらの人物の方を見ると、あの灼熱タオルの女性が口を半開きにして座っていた。
「あの、すみま──」
「ビックリしました」
女性は突然話しかけてきた。話を遮られてのこともあり俺もビックリした。
「えっと、すみません…」
ワンテンポ遅れて謝る。
女性は何も言わなかった。光の無い瞳を向けたまま途端に静かになった。何か話そうと次の言葉を探していると、
「何があったんですか?」
質問をされた。一瞬固まったがすぐに理解した。
先程の光景を思い出す。思い出したくないような悪夢。どこまでも陰く暗いあの光景を。
「実は悪夢を見てしまって、それで」
「違います」
「え?」
何故否定されたのだろうか。他に何かしらの出来事があった訳でもないのに。
少しの沈黙とともに冷たい視線が注がれる。
「貴方さっき森を越えて行きましたよね。戻ってきたらいなかったので垂れていた血の跡をおって行ったら倒れている貴方を見つけたんです。一体何があったんですか?」
彼は数刻前の自分のことを思い出した。全て忘れ去ってしまっていることを。欠落した記憶に恐怖し、絶望したあの瞬間を。
説明したところで信じて貰えるか分からない上に、目の前の人物が誰かも彼は知らない。ここは一旦誤魔化しておこうと少年は嘘を吐くことにした。
「ちょっと外が見たくなって、その、途中で寝てしまって」
我ながら酷い嘘だが、彼女は特に何の反応もなかった。納得したのだろうか。
ここで少年はこれまでずっと気になっていた疑問を投げ掛けた。
「あの、失礼ですがお名前を聞いてもよろしいですか?」
ずっと不思議で仕方なかった。この他人行儀ぶりからおそらく知り合いでは無いのだとは思うが。
彼女は少年の質問に「ああ」と思い出したような素振りを見せ、自己紹介をした。
「私は八重垣です。
「こ、こちらこそ」
彼女は軽くお辞儀をした。俺もそれにつられて頭を下げると、彼女の包帯に巻かれた手が目に入る。何かしらの事情が有るのだろうと見なかったふりをした。
頭を上げると今度は彼女が質問を投げ掛けた。
「では今度はあなたの名前を伺ってもよろしいですか?」
どうやら彼女は俺のことを知らないらしい。それなら。
「佐藤です。
名字が「佐藤」なのは、まぁありふれているからなのだが、名前はとっさに考えたものなのでネーミングセンスの酷さが滲み出ている。
ただ空が青かったからそれだけの理由でそう名付けてしまった。もし今日が曇りなら少年の名前は「灰」になっていたことだろう。
「そうなんですか。よろしくお願いしますね佐藤さん」
自己紹介が終わり、記憶を補完するため千代から情報を聞き出すことにした。
「ここって一体どこですか?」
「この里は『
白炉という地名は聞いたことがなかった。自分が無知であるだけならいいが日本の城の存在する場所程度なら大まかに分かる。しかし、白炉という場所でかつ城がある地名には心当たりが無かった。そもそも何県なのか、市の名前も、地域名も、全く検討がつかない。せめてスマホがあれば、とおおよそWi-Fiとは縁のなさそうな場所でそんな事を考えてしまった。
「そういえば、佐藤さんはどちらからいらしたんですか?ここら辺ではあまり見かけないので他の里からの出身だと勝手に思っているのですが…」
当然、佐藤青には答えようがない。気がついたらここにいたのに、どこから来たかなんて分かるはずがない。この人が助けてくれたわけではないのか?じゃあ一体誰が?
そうこう思考を巡らせていると。
ガラッ、と勢い良く襖が開けられた。
「あたしが拾ったんだ。お前さんが
そこには、180cmを越えてるであろう背の高い女性がいた。
髪はボサボサで、どこか
「存外元気そうだな。ちょっとついて来い」
訳が分からずついていく。
まだ体はズキズキと痛むし、さっき枝で切った足から血がまた垂れてきた。精神的にも滅入って仕方がない。元気とは程遠い状態の自分をどうする気なのだろうか。
ついていった先の部屋で女性は足を出すように促した。するとその人は「染みるが我慢しろ」と言って傷口に消毒液をぶちまけた。全身が力んで不意に体が跳ねる。
そうして滅茶苦茶に包帯を巻き、雑すぎる一連の処置を終えると。
「それにしても驚いたさ。昨日の夜、ノックが聞こえたから誰が来たのかと開けてみれば、今にも死にそうな小僧が倒れていたもんだからな」
「俺がノックしたんですか?」
もしそうなら記憶喪失のタイミングが分かるかもと思っていたのだが。
「さあな。だが少なくとも扉を開けたときにはお前の屍しかなかったぞ」
「いや死んでないです。殺さないでください」
何て事を言うんだこの人は。
「さて、なるべく簡潔に済ませようか、青」
壁に寄りかかって女性は告げた。
名前を知っているということはさっきの会話を盗み聞きしてたのか。だが今だけはとてもありがたい。
女性はゆっくりと視線を上げた。
緊張で思わず体が硬直する。
「まずここは、お前の知る日本ではない」
一言目から予想外の事実が飛び出た。思わず唖然とする。理解が追い付かない。色んな可能性が頭に浮かんでは溜まっていき、たった一つの情報で脳がパンクしそうになってしまう。聞きたいことは山ほどあるのにそれを出力することが出来ないでいる。
そんな青に追い討ちをかけるように女性は次なる情報を口にした。
「そしてここはお前のいた世界とは異なる世界だ
「……はあぁぁあ?」
かろうじて捻り出せたのはそんな空気の抜けた風船のようなあきれ声だけだった。
どういうことだ。ここが異世界?
悪い冗談か何かかと思い次の言葉を待つ。しかし静寂以外の何かが訪れることは無かった。女性の目が、表情が、それが真実なのだと語っている。
それでも信じられなかった。あの景色は紛れもなく日本のそれだ。実際に見たことはなくとも日本人のだれしもが容易に想像し、描ける、風景と町並み。タイムスリップしていると言われた方がまだ納得できる。
「嘘……ですよね。エ…エイプリルフールでしたっけ?今日って…」
一筋の希望にすがり付く。どうかそうであってくれと願う。自分の記憶障害を利用した質の悪い悪戯であれと。
「残念ながら事実だ。あたしはそのエイフルルフール、だっけか?それなるものを知らん」
「じゃあここは本当に異世界なんだと?日本ではない別の世界なんだと?………本当に?」
「ああ、ここがどういう場所なのかと言われても説明のしようがない。ここは紛れもなく異世界だ。まぁあれだ、今後どのような事が起こっても『そういう世界なのだ』って割り切れ。そうすりゃ幾分か楽になるぞ」
割り切れと言われても…。
「納得のいかないって顔してるな」
「はい…」
当然出来るわけがない。自分の事で手一杯なのにこんな異世界にいる、なんて説明を飲み込めるものか。
すると、その人は掌を出して見せると、外に向かって勢い良く手を突き出した。
その瞬間外から「ズドン!」と大きな音が響き、その掌の先にあった木に巨大な窪みが出来ていた。確かについさっきまでは無かったはずの窪みが。赤や茶色の枯れ葉がヒラヒラと舞い落ちた。
手品でも科学でもない、魔法。その二文字が脳裏を
あまりにも現実離れしたその所業に言葉を失い俺は混乱していた。
「これで少しは納得してもらえたか?お前の世界でこんな事を出来る人間は居なかったろ?」
ハッと我に帰る。納得はした。しかしそれでもこの現実をまだ想のどこかで受けきれていない。俺は混乱している脳をフル稼働させ言葉を絞りだした。
「正直言うとまだ何が何だか分からないです」
女性は小さく溜め息をついた。
「そうか、そうだろうな。いきなり右も左も分からない所で目覚めてこんな訳も分からないような説明されたらな」
女性は俺と鋭い視線を向けると。
「それで、お前はどこまで覚えているんだ?」
「えっ?」
思わず素っ頓狂な声が漏れる。この人は俺の記憶喪失について何か知ってるのか?
女性の視線がさらに鋭くなる。
「どうなんだ?言っておくが無駄な問答や腹の探り合いなんてするなよ。あたしはある程度の事は知ってんだからよ」
多分この人に嘘はつけない。本能的に察知した。
観念したように俺は全てを説明した。出身地どころか自分の名前さえ思い出せないこと、基礎的な知識だけは何故か残っていること、そしてついさっき八重垣さんに偽名を名乗ったこと。すると女性は安心したように微笑んだ。
「そうか。それじゃあ青、お前はこれからどうする?」
「情報を集めます。ここが異世界でありやって来た以上、帰る方法も存在する…はずですし。その過程であれば記憶を戻す何らかの手掛かりが得られるだろうと思うので」
「なるほど」
それだけ言って女性は立ち上がって襖の方へと歩いた。そして、襖を開けると振り向いて言った。
「お前は今日から
突然のことに驚いて声が出なかった。
続けて女性は言った。
「お前にはここに住んでもらう。介抱してやったんだ少しぐらい恩返ししろ。ちょうど男手が欲しかったんだ。それに拠点があった方が情報収集はしやすいだろう?」
「いいんですか...?」
「ああ。その代わり、ここで生活する上で2つのルールを守ってもらう。1つはあたしの事は師匠と呼ぶこと。2つ目は、あたしに嘘をつかないこと」
淡々としゃべるその女性は誰とも知らない俺に名前と居場所を与えてくれた。俺は何故かとても安心していた。見知らぬ場所で自分さえも分からなかった俺に与えられたその優しさは、あまりにも尊く、その背中はひどく頼もしいものだった。
「いいな」
そう師匠が言うと、俺は
「…はい」
震える声でそう返事をした。
「ありがとう、ございます」
ただひたすらに嬉しかった。思わず涙がこぼれ落ちる。
「頑張れよ」
襖を閉じた音が聞こえ足音が遠ざかっていった。
俺は涙を拭い、外で舞い落ちて行く紅葉を目にした。
一枚の葉に目が止まる。それはいとも容易く風に流され遥か遠くの青へと消えて行った。
俺は必ず思い出してみせる、自分が何者で一体どこから来たのかを。きっと。
そう決心し、俺はゆっくりと立ち上がった。
ボロボロだった足は、もう痛くなかった。
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