回生する咎

冬蜜柑

第1話 喪失

 ザアザアと雨粒が葉をしきりに打ち付ける音、身体を上下に揺らされている感覚。これが、彼に伝わった最初の情報だった。

 

 目を開けようにも、瞼に重石でも乗っかっているかのような重量感が邪魔をして上手くいかない。

 

 ピンぼけした視界と、微睡んだ意識を以て今彼は何者かにお姫様抱っこで運ばれていることを認識できた。

 

 顔を見ようとしたが、目が霞み、その人物が男であるということしか分からない。

 

 動こうにも手足が全く言うことをきかない。寒さのせいかはたまた脳が覚醒していないせいか感覚がほとんど無い。


 彼は諦めてその男に身を委ねることにした。

 

 そして直後、異常なまでの倦怠感と眠気が再び意識を奪っていく。

 




      鈴の音が、聞こえた。





━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 額に微かに違和感を感じる。その違和感は徐々に鮮明になっていき、少しずつ意識を取り戻している少年は、その感覚が「熱い」であると認識するまで少しの時間を要した。

 そして、その額にある物の温度が人間が許容できるものではないと脳が警告を出したことで少年は目覚め、叫んだ。

 

「熱っつ!!」

 

 即座に額の上にあった物を払いのけ、額を掌で押さえる。少し額が火傷していた。ヒリヒリと刺すような痛みを負った額を抑えながら、ある程度冷静になった少年は辺りを見回した。

 

 そこは畳に襖、壁掛けと言ったいかにも古風な物で囲まれた日本家屋だった。そこでまず目に入ったのは、湯気を放つタオルだった。

 恐らくあれが先程まで自分の額に乗っていた物だろう。正直どうしたらあんな、灼熱そのものの様な物体を人の額に置こうと思ったのかそれはそれは不思議でしかたがなかった。

 

 次に視界に入ったのは、半分程開いた襖から桶を持ってこちらを眺める女性だった。漆黒の髪と瞳、それとは対照的なシルクの如き白い肌。彼女は着物とは違う、袖口を紐で絞った動きやすそうな和装に身を包んでいた。落ち着いた所作が安心感を呼び覚ます。


 だが少なくとも、俺はこの人を知らない。


 そして彼女は、ありえないほど湯気の立った水桶を抱えながら話しかけてきた。

 

「目が覚めたのですね」


「それは…まぁ…」

 

 むしろあれで目覚めないとでも思ったのだろうかと。呆れ顔で返答してみせる。

 そして、彼女は床に落ちているタオルを視認すると、それを素手で拾い上げ「熱かったですか?」と首を傾げた。短い闇色の髪が揺れる。

 

 この人の温度を感じる神経は死んでいるのか?

 

 あまりにも信じられない様子に暫く呆然としていると、彼女が突然口を開いた。

 

「傷の方は大丈夫ですか?」


「傷?」


 そう問われて初めて自分の身体を見ると、そこには夥しい包帯を巻かれた体があった。


 「え?何で…」

  

 それを意識した途端、体が悲鳴を上げた。


 「あ、え?あぁ、うわあぁぁぁあ!」


 視界が点滅し、全身を刺すような鋭い痛みが全身をかけ巡る。俺は体を丸め込み必死にもがいた。


 痛い…痛い、いたい、いたい、イタイ


 あまりにも唐突に襲い掛かってきたその感覚に脳が危険信号を発し、パニックを引き起こす。


「落ち着いて」


 先程の彼女が背中を擦り抑揚のない声で静かに宥める。


「深呼吸して。大丈夫、大丈夫ですから。」


 震える体で息を吸って、吐く。数回の深呼吸の末、冷静さを取り戻した脳が、自分が体の傷に過剰に反応していたことを教えてくれた。


「ありがとう、ございます」


 礼を言うと、彼女はゆっくりと頷き。


「タオルを変えてきますね。今度はちゃんと冷ましてから来ます」


 と言って彼女は襖の奥に消えた。


 もう一度自分の体を見てみる。ヒリヒリと肌を焼くような痛みと刃物で切られたような感覚が尚残っている。


 そして、ふいに右手が痛む。拳を思っていたよりも強く握り過ぎたらしい。


 ここである疑問が頭をよぎった。冷静になり、周りを観察したことで、少年の脳内にあらゆる疑問が波のように押し寄せる。


 周囲を見回してみると障子の向こうから光が差していた。


 床に手をついて立ち上がる。外に続く障子を開け地面に一歩を踏み出した。その行動に躊躇はなく、裸足であることなんて気にもとめなかった。


 視界には夕焼けのような鮮やかな色に身を染まった木々が繁り、その隙間から先に開けた場所を見ることができた。少年はそちらに向かって歩きだす。そっと秋風が吹いて、紅葉の雨が降り注ぐ。徐々に空を切る感覚が強くなっていく。風が強くなったのではなく、少年の進む速度が速くなったのだ。彼の中の焦燥感が肥大化しているが故に。


 足元に散りばめられた落ち葉や枝が音をたててバラバラになる。


 少年を突き動かしていたのはある種の恐怖心だった。ずっと心の奥底にある“一番重要な”疑問を、見てみぬふりをしながらただがむしゃらに見知らぬ土地を駆ける。


 呼吸が速くなり、重苦しくなっていく肺が酸素をむさぼっていく。


 足取りは覚束なく、何度も転けた。その度に手足の痛みが加速し包帯を赤く染めた。


 どのくらい走っただろうか。無我夢中で走り続けたせいか、酸欠で頭がぼんやりする。


 そして、最後であろう大木を通り抜けた。

 眼下の急斜面に怖じけて一歩下がった。

 山の中腹の崖の上に少年は居た。


 絶え絶えになった息を整え、視界が鮮明になったところで、彼は顔を上げた。


 目の前にあったのは相も変わらず広がる紅葉と、京都を思わせる時代錯誤の知らない町並み。木造家屋と田んぼが点在し遠目には人の営みがあった。そしてずっと向こうには、自分達日本人が一度は見たであろう荘厳な日本特有の城が建っていた。


 この光景を見て一切安堵できなかった。既視感さえありそうなこの場所を知らないから。


 否。


 思い出せないのだ。何も。


 彼女は誰だ?

 此処は何処だ?

 この傷は何だ?


 そして、







 「─────俺は誰だ」


 





 その疑問に気づいてしまった。少年の呼吸が再び速くなる。先程の比ではないほどに。


 ショックなのでも悲しいのでもなく、ただ気持ち悪かった。


 何も知らず、何も分からず、ただ全てを失ったという感覚が取り残されたこの状態が、まるで脳味噌を一部切り取られたような感覚が、ひたすらに気持ち悪かった。


 少年は頭を掻きむしる。声にならない叫びが呻き声となって口から溢れ出た。


(なぜ?どうして?俺は、一体……)

 

 貪るように答えを求めた。


 吐き気、飢餓、酸欠、痛み、そして、恐怖。あらゆるものが襲い掛かる。


 誰でもいいから助けて。そう心の中で願ったその時、背後から声が聞こえた。冬を前借りしたような冷たい足音と共に。

  

 「──見つけた」

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