第301話 ラガート領に向けて……(カバジェロ)
「先に上がってくれ」
「でも……」
「大丈夫だから、心配すんな」
「分かった」
グラーツ商会の馬車の御者台に上がるルアーナを見守る。
いよいよ、ラガート子爵領へと向かう日が来たのだ。
ルアーナが御者台に上り終えたのを確認して、俺も手すりに飛び付く。
手すりを右手で握って体を引き上げ、前輪のスポークに左足を載せたら、もう一度上に向かって飛ぶ。
御者台の前の手すりを握って、馬車のボディーを軽く蹴って体を引き上げた。
ただでさえ体の小さい猫人が高い御者台に上るのは大変なのに、片手片足だと曲芸みたいな動きを強いられる。
義足の膝関節の固定を緩め、無事に御者台に腰を下ろせた。
「ジェロ、随分身軽になったんじゃない?」
「まぁな、鍛錬を続けた成果だ」
手足を失った頃の俺では、手伝ってもらわなければ御者台に上り下りは出来なかった。
一人で上り下りも出来ない奴が、護衛なんて務まるはずがないし、この程度は健康な人間ならば誰にでも出来る事だ。
「二人とも準備はいいか? 出すぞ」
「はい、よろしくお願いします」
「俺も大丈夫だ」
タールベルクに声を掛けられて、ルアーナは緊張した様子で返事をした。
Aランク冒険者のタールベルクは、キルマヤの街では有名な存在らしい。
ラガート子爵領への同行の話をした時も、ルアーナは自分なんかで大丈夫なのかと心配したくらいだ。
グラーツ商会の会長オイゲンさんが、将来的に奥さんや娘さんの警護を担当する女性を探していて、今回の同行はその見習いみたいなものらしい。
旅の道中でタールベルクが護衛の心得を教えてくれる代わりに報酬は安いと告げたのだが、ルアーナは凄い勢いで参加を希望した。
俺としては、俺と一日中一緒に過ごせることを重視してもらいたかったが……まぁそれは黙っておいた。
キルマヤの街を出て街道を北に向かって進み始めると、ルアーナはせわしなく首を振って景色を眺め始めた。
それは、周囲を警戒しているというよりも、珍しい光景に目を奪われているようだった。
「ルアーナ、ちょっと落ち着け」
「ごめん、でもこんなに街から離れるのは初めてだから……」
キルマヤで生まれ育ったルアーナは、街の近くでの薬草採取などの依頼は受けているが、街から遠く離れる討伐依頼や護衛依頼は受けた事がないし受けられない。
ルアーナのランクでは、別に高ランクの冒険者が同行してくれないと、難易度の高い依頼はまだ受けられないのだ。
冒険者や商人などの仕事をしているなら、違う街に行く機会もあるが、街の中の仕事に就いている者だと、一生街から出ない者も珍しくはないそうだ。
「ジェロは、もうあちこち行ったことがあるんだよね?」
「まぁ、暮らしていた村が廃村になれば、嫌でも違う土地にいかなきゃいけなかったからな」
まぁ、実際には廃村となったロデナ村から別の村へと移住したものの、ダグトゥーレの誘いに乗って廃村のアジトに舞い戻っていたんだけどな。
結局、フロス村での襲撃に失敗して捕まるまで、ロデナ村の外の様子は殆ど知らずに生きて来た。
外の様子を知らずに生きてきたからこそ、ダグトゥーレの話を丸々信じ込んでしまったのだろう。
「外の世界を知った方が良い、自分の常識が他の街や村では非常識だったりするからな」
「そうなんだ。それはジェロの経験?」
「そうだ。ルアーナは俺ほど無知ではないだろうが、それでも外の世界を見ておいた方が良い」
「うん、分かった」
キルマヤの街を出て暫くすると、ルアーナの興奮が収まったのを見たタールベルクが指導を始めた。
「馬車の護衛は、言うまでもなく乗せている人と荷物を守ることだが、その為に優先すべきはなんだ?」
「えっと……敵を早く見つけて、近づかせないこと……ですか?」
「その通りだが、常に頭に置いておくべきなのは、馬車を動ける状態に保つことだ」
「動ける状態……ですか?」
「そうだ。たとえば、この馬車は二頭の馬に引かせているが、最悪一頭になったとしても走らせる事は可能だ。魔物に襲われて、全部を守り切れないと判断したら、一頭を犠牲にしてでももう一頭は守るといった決断も必要になる」
「なるほど……」
「他にも、盗賊の中には足止めのために車輪を狙ってくる連中もいる。そうした手口を知る事で、相手の出方を知り、街道のどこを監視すれば良いのか覚えていけ」
「はい、分かりました」
とはいえ、そうそう頻繁に魔物や盗賊が襲って来る訳ではない。
襲撃が無ければ、長閑な馬車の旅が続くだけだ。
「ジェロ、窮屈じゃない? こっちに寄りかかっていいよ」
「大丈夫だ。護衛中なんだから、くつろいでいられないしな」
「そっか……」
本音を言えば、寄りかかりたい。
隣に座ったルアーナに寄りかかれば、頭は丁度胸の位置だ。
とりわけ大きい訳ではないが、それでも柔らかな膨らみに頭なんて預けてしまったら、眠たくなってしまうか余計な事を考えてしまうだろう。
タールベルクからも、お楽しみなんて無しだと釘を刺されているのだから、鼻の下を伸ばしている場合ではない。
鋼鉄の意志を発揮して街道の監視を続けていると、右手前方に動く影を見つけた。
「タールベルク、ゴブリンだ」
「寄って来そうか?」
「いや、まだ距離があるし、こちらは見ているが動きそうにない」
「ならば監視を続けて、襲ってくる気配が見えたら追い払え」
「了解……」
馬車の上から確認出来たのは三頭だけだが、まだ他にも隠れているかもしれない。
ゴブリン達は、あまり隠れようとせず、木立の間からこちらを見ている。
馬車を襲うほどではない……狙いは徒歩の旅人なのだろう。
ゴブリン達は、ジーっとこちらを監視していたが、馬車が通り過ぎると興味を失ったように目を反らし、キョロキョロと地面を見回し始めた。
恐らくは、昆虫などの餌を探しているのだろう。
昼の休憩では、タールベルクがオイゲンさんと同行する商会幹部二人の護衛。
ルアーナが馬の世話をして、俺は馬車の監視となった。
一旦馬具から外し、水と飼い葉を与え、ボロの始末をする。
小柄なルアーナにとっては重労働ばかりだが、輪をかけて非力な俺では作業の足を引っ張るだけだ。
ルアーナの作業が終わった時には、グラーツ商会の執事さんが持ってきてくれた昼食はすっかり冷めてしまっていた。
「ジェロ、先に食べていれば良かったのに」
「冷めても、ルアーナと一緒に食べた方が美味いよ」
「ジェロったら……」
ルアーナは、俺に小鳥がついばむようなキスをしてから、昼食の包みを開けた。
「美味しそう、もうお腹ペコペコ、いただきます」
「うん、うみゃいな」
差し入れしてもらった昼食は、魚のマリネを挟んだパンだった。
軽くスモークしてあるらしい魚は、ネットリとした舌触りで濃厚な味わいがした。
シャキシャキとした野菜と甘酸っぱいトロっとしたソース、ムッチリとした噛み応えのパンとの相性も抜群だ。
昼食を食べ終えたら、ノンビリと寛ぐ暇もなく出発の準備に取り掛かる。
トイレを済ませ、馬を馬車に繋ぎ、オイゲンさんと一緒にタールベルクが戻ってくれば出発だ。
休息を終えたばかりだから、馬車はゆっくりと走り始める。
「ルアーナ、少し休んでいて良いぞ。ただし、転げ落ちないように気を付けろ」
「はい、その時はジェロも道連れにします」
「ふははは……だとよ、ジェロ、しっかり支えてやれよ」
「分かってる。ルアーナ、俺がちゃんと支えるから安心しろ」
「うん、頼りにしてるね」
そう言ったら、本当にルアーナは俺に寄りかかって寝息を立て始めた。
頭の左側がルアーナの胸に埋もれかけているが、手すりを右手で握って支える。
てか、ルアーナちょっと太ったか?
なんて起きてる時には絶対に言えないからな。
「すまない、昨日からはしゃいでたから」
「構わん、ジェロがしっかり監視してくれればいいだけだ」
「分かった」
とは言ったものの、昼食で空腹が満たされ、ルアーナの柔らかさと温もりを感じ、ゴトゴトと心地よい馬車の振動が加われば、強烈な眠気が襲ってくる。
ルアーナが目を覚ますまでの間は、猫人の俺にとっては拷問のような時間だった。
夕方、その日の宿に到着したら、またルアーナは馬の世話に取り掛かる。
馬車の警備は宿でやってくれるので、俺は商会の荷物の監視役を担った。
宿の部屋は三部屋で、オイゲンさんと執事、商会の幹部二人、そして、タールベルク、俺、ルアーナの組み合わせだ。
俺達は三人でベッド二つになるが、どうせ夜の間も順番で起きて警戒を行うから何も問題無いと思っていたのだが、夕食を終えて商会の人達が部屋に戻った後で問題が起こった。
「ルアーナ、ここで着替えろ」
「えっ……」
宿の風呂場で着替えて来ようとしたルアーナに、タールベルクが突然命令したのだ。
「あの……下着も取り換えてこようと思うので」
「だから、ここで着替えろと言ってる」
「どういうつもりだ、タールベルク!」
「理由が知りたいか?」
「当たり前だ!」
「これから先、ルアーナが商会の護衛を続けていくならば、奥方や御令嬢の身を守るために自分の体を差し出す必要に迫られるかもしれない」
「だから、ルアーナに体を差し出せって言うのか!」
「そうじゃない、それは最後の手段だ。その一歩手前で肌を晒す時が最後の反撃のチャンスだ。そこで羞恥心に囚われて動けないようでは護衛の役目など果たせないぞ」
「だからって……」
「待って、ジェロ」
「ルアーナ」
「私は、これから先もジェロと一緒にいたい。そのためだったら、この程度の事は何ともないわ」
ルアーナは、ベッドに腰を下ろしたタールベルクの正面に歩みより、着ている服を脱ぎ始めた。
シャツがベッドに放り投げられ、ズボンが床に落ち、ルアーナの下着姿がタールベルクの目に晒される。
意図は分かっても、感情が納得してくれない。
爪が手のひらに食い込むほど拳を握り、奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばった俺の前で、ルアーナは迷う素振りも見せずに下着に手を掛けた。
「合格だ、そこまででいい。試してすまなかったな」
「は、はい……」
腰が抜けたようにヘナヘナと座り込んだルアーナの横を通り、タールベルクは廊下へと続くドアに向かった。
「ジェロ、今夜は俺が最初に見張りに立つ、ちゃんとルアーナを慰めておいてやれ」
「分かった」
「ただし、お楽しみは無しだからな!」
「わ、分かってる」
ニヤリと笑ったタールベルクは、ドアを開けて出て行った。
「ルアーナ!」
「ジェロ……」
抱きしめたルアーナは、ガタガタと震えていた。
震えが止まるように強く抱き寄せる。
「護衛って、厳しいね……」
「あぁ、頭が爆発しそうだった」
「ジェロと一緒にいられるなら裸を見られたって構わない。でも、あたしが愛してるのはジェロだけだよ」
「ルアーナ……」
ルアーナと長い長い口づけを交わす。
これでお楽しみがお預けなんて……護衛の仕事は厳しすぎる。
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