第290話 貧民街のその後

「うにゅぅ……パンが、しっとりフカフカにゃ……」


 これは西洋のパンというよりも、中華まんのような手触りだろうか。

 まだ蒸かしたてのようで、人肌ぐらいの温もりがある。


「パンじゃないから齧らないでね」

「みゃっ? みゃみゃっ……いや、これは、その……」

「甘えん坊のニャンゴは可愛いわね」

「ふみゅぅぅ……」


 ギルドの酒場で打ち上げを終えた後、拠点に戻って丸洗いして丸洗いされ、別々の布団で眠りについたはずなのに、レイラに抱えられて踏み踏みしていた。

 本当に焼きたて、いや蒸したてのパンの柔らかさを確かめる夢を見ていただけで、意図して踏み踏みした訳ではない……と言っても信じてもらえないだろうな。


 イブーロの街は東京のようにアスファルトでガチガチに固められていないから、昼間は暑くても夕方になれば涼しい風が吹く。

 窓を網戸にして開けておけば、寝苦しさを感じたりはしないのだが、それでも俺を抱え込んでいるレイラの肌はしっとりと汗で湿っていた。


 除湿と冷却の魔法陣を組み合わせたエアコンを設置した方が良いのだろうか。


「と言うか、アパートと違ってパーティーのみんなと共同生活なんだから、寝巻きぐらいは着た方が良くない?」

「やーよ、依頼に出て野営をするようになれば、着替えもしないで仮眠するだけの生活になるんだから、オフの時間ぐらいは自由でなくちゃ」

「いや、自由すぎる気がするけどにゃぁ……」

「あら、どうせ踏み踏みするなら直接の方が良いんじゃない?」

「いや、それはまぁ……そうかもしれないけど……」


 ゴニョゴニョと言い訳をしながらレイラの腕の中から抜け出そうとして、抱え直され……を三回ほど繰り返して、ようやく解放してもらえた。

 拠点の前庭で手合せ……と思ったのだが、レイラもシューレも打ち上げの翌朝だからまだ起きて来ない。


 仕方がないから一人で素振りでもしていようと外に出ると、風属性の探知魔法の練習をするミリアムの姿があった。


「おはよう、早いね」

「誰かさんみたいに鼻の下を伸ばして寝ていないからね」

「にゃっ、そんにゃことは……なくもにゃいけど……」


 俺と会話を交わしながらも、ミリアムは探知魔法を使い続けている。

 相当シューレに扱かれたのだろうが、これだけの高い集中力を持続出来るのは、ミリアム本人の意思の力があってこそだ。


 トローザ村での依頼を経て、心境に変化があったのかもしれないが、根掘り葉掘り聞くのも無粋な気がする。

 ミリアムの自主練習を邪魔しないように、少し離れたところで素振りをした。


 打つ、突く、薙ぐ、払う……ゼオルさんから教わった型を無心で繰り返す。

 魔物が増えている理由をあれこれ考えると悪い予感に囚われそうになるので、頭を空っぽにして素振りに没頭した。


 汗を流して朝食を済ませた後、貧民街の跡地を訪れてみた。

 トローザ村で、ミリアムと弟のリカルドが話しているのを聞いて、崩落した後の貧民街がどうなっているのか気になったのだ。


 倉庫街の近くのマーケットまで買い出しに行くが、貧民街は倉庫の陰になっているので見ていない。

 新しい街区が作られるという話は聞いているが、具体的にどうなるのかまでは知らされていない。


 貧民街に暮らしていた者達は、トモロス湖の畔に建てられた訓練施設へと送られたはずだが、そちらもどうなっているのか聞いていない。

 イブーロの政治にまで関わろうなどとは思っていないが、リカルドのような猫人は今後も出て来るだろうし、そうした者達の受け皿がどうなっているのかも気になる。


 ステップを使って屋根伝いに移動し、倉庫街の上から貧民街のあった場所を眺めて驚いた。


「えっ? もうこんなに区画整備が進んでいるの?」


 ここを最後に見たのは、貧民街の崩落に関わった裏社会の連中や、それに手を貸していた冒険者達が処刑された日だった。

 あの日も真っ平に整地が完了していたのに驚いたが、今は基本となる大きさの敷地に区切られ、道路となる部分の地下には下水道の整備が進められていた。


 かつての貧民街の中心部では、既にいくつかの建物の建設も進められている。

 おそらく、何らかの公共機関の建物なのだろう。


 街区は五十坪ほどの大きさに仕切られていて、貸し出すのか、分譲するのかまでは分からないが、既に土地を見に来ている人もいる。

 話している内容までは聞こえないが、身振り手振りの感じからすると、いくつかの区画をまとめて入手したいようだ。


 前世日本で例えるならば、再開発事業で出来た新しい土地を分譲しているようなものなのだろう。

 土地を見に来ている人は他にも何組もいるようで、興味を持っている人は少なくないようだ。


 それと、上から眺めていて気付いたのだが、官憲や騎士団の制服に身を包んだ者達が、二人一組になって巡回を行っていた。

 どうやら官憲と騎士団では、違う順路で巡回を行っているようだ。


 あちこちで、すれ違いざまに敬礼を交わしている姿が見られた。

 どうせ同じ街を守るのだから、共同で行えば良いと思うのだが、こちらの世界にも縦割り行政の弊害みたいなものがあるのだろう。


 巡回の様子を観察していたら、街区の外周にそって巡回をしながら近付いてくる一団に気付いた。

 三人組の騎士団員の一人は、貧民街の手入れの際に行動を共にした三番隊の隊長バジーリオだった。


「バジーリオさん!」

「お久しぶりです、エルメール卿、コスカの討伐以来ですね」

「はい、ご無沙汰してます」


 倉庫の屋根から下りながら声を掛けると、バジーリオは満面の笑みで迎えてくれた。


「順調に工事が進められているみたいですね」

「はい、今のところは……ですけどね」

「と言いますと、何か懸念があるのですか?」

「はい、これだけの規模で新しい街区が出来るとなれば、当然大きな金が動きますからね」

「甘い汁を吸おうとする奴がいる……?」

「その通りです」


 立ち止まっているとバジーリオの仕事の邪魔になりそうなので、巡回に同行しながら話を聞かせてもらった。


「貧民街が崩落して、ガウジョが率いていた組織は瓦解して逃亡しましたが、裏社会の者達が全滅した訳ではありません」

「それは、歓楽街を仕切っている連中ですか?」

「そうです、エンシオという男が中心になっている組織ですが、いわゆる昔ながらのやり方だけあって、巧妙でしつこいのが特徴です」


 ガウジョ達が麻薬や魔銃を使った手っ取り早く荒っぽい手法だったのに対して、エンシオ達は金で巧妙に縛る方法だそうです。

 半グレと昔気質のヤクザみたいな感じでしょうかね。


「でも、確か個人に対する貸付けは、借金まみれにならないように限度額を制限したのでは?」

「おっしゃる通りです。個人に対する担保なしの貸付けには新たな制限が設けられましたが、担保がある場合や商会、工房などに対する貸付けは従来通りです」


 今でも、商会や工房を守るため、担保物件を処分しても残る借金の返済のために、身売りさせられる人はいるそうです。


「なにも対策は行われていないのですか?」

「勿論、そうした事案の解決のための法整備なども進めていますが、あまり締め上げると経済活動に悪影響が出ますし、強引に身柄を拘束するのではなく、それ以外の道は無いと思わせるように追い込んでいるので、なかなか犯罪として取り締まるのが難しいのです」


 バジーリオ達が巡回を強化しているのは、エンシオ達が違法な貸付けや用心棒代の要求などの目的で入り込まないようにするためだそうだ。


「ここには、商工ギルドの出張所の他に、官憲の分署や騎士団の宿舎なども作られる予定です。制服を着た者達が頻繁に巡回していれば、それだけ奴らは入り込みにくくなります」

「そういえば、騎士団と官憲は巡回ルートが違っていたように見えましたが」

「さすがはエルメール卿、良く見ていらっしゃいますね。同じルートだと見落としや巡回のパターンを読まれたりするので、あえて別々の順路で回っています」

「なるほど、そういう理由があった……どうかされましたか?」


 隣を歩いていたバジーリオは不意に足を止めると、同行していた部下に手振りで指示を出した。

 指示に頷いた二人は足を速め、再開発が進む敷地を囲む柵に手を掛けて中を覗いている男に歩み寄っていった。


「ちょっと挙動不審に見えたのですが、どうやら見物人みたいです」


 バジーリオの部下達に声を掛けられた男は、腰を抜かさんばかりに驚いていたが、言葉を交わしているうちに胸を撫で下ろして笑顔を浮かべていた。

 その様子からは裏社会の構成員という感じは微塵も感じられず、仮に演技だったとしたら相当な役者ぶりだ。


「間違いでも構わないんです。きちんと声を掛けた理由は説明していますし、我々が巡回して目を光らせているのを見てもらうだけでも意味があるのです」

「なるほど、相当な気合の入れようですね」

「勿論、多くの仲間たちが命を落としましたから、中途半端な仕事をして、ここがまた裏社会の巣窟になるようでは、彼らに顔向けできませんからね」


 部下たちの仕事ぶりを見守るバジーリオの瞳には、揺るぎない決意が込められているように感じた。

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