第237話 いつもと違う酒場

 おかしい……それは確かに、ジェシカさんを踏み踏みするシチュを頭の片隅で想像し、気を取られていたのは否定しない。

 それでも、コボルトにやられて潰れていた左目が復活して死角は大幅に減っているし、何かと絡まれる要素も増えているから油断はしていなかった。


 なのに気付けば、スッポリとレイラさんの腕の中に納まってしまっている。


「えっと……レイラさん、依頼完了の報告に行かなきゃいけないんですけど……」

「あらそうなの? じゃあ行きましょうか」

「はぁ……」


 そうだ、俺の後にはトラッカーの三人がいたはずなのだ。

 俺の背後を預けていたのに、まったく頼りにならない三人だ。


 現在、イブーロの冒険者ギルドは、貧民街の崩落騒動に関連して通常の依頼が殆ど停止している状態だ。

 そのため、カウンターの業務は大幅に減っているのだが、その向こう側では職員達が忙しそうに動き回っている。


 それでも、レイラさんに抱えられた俺に気付くと、多くの職員が手を止めて暫し眺めた後で、くすっと笑いを漏らして仕事に戻っていく。

 うん、かなり恥ずかしいぞ。


 そんな職員の中から、ジェシカさんが笑顔で迎えてくれたのだが、目が全然笑っていない気がする。

 てか、こめかみの辺りがピクピクしているのは、俺の見間違えじゃないと思う。


「お疲れ様です、エルメール卿。我々冒険者ギルド職員一同が忙殺されている中、優雅に依頼をこなしていただいたようで、心から感謝申し上げます」


 うわぁ……言葉に氷の棘が生えているみたいだよ。


「いや、レイラさんに遭遇したのは、ついさっきの話ですし……」

「それでエルメール卿、依頼は何件処理していただけましたか?」

「えっと……全部で二十七件ですね」

「はっ? 二十……?」

「はい、二十七件です。あぁ、途中からトラッカーの三人と合流して手伝ってもらったので、依頼の報酬は四等分して下さい」


 渡された依頼の控えは、その倍以上の数なので、とても今日一日では終わりそうもない。

 明日もトラッカーの三人と一緒に依頼を片付けるつもりだと話ながら、完了した分の依頼の控えをカウンターに載せると、ジェシカさんは目を丸くした後で今度こそ微笑んでくれた。


「さすがはエルメール卿ですね。本来、ネズミ退治のような依頼はAランク冒険者にはお願いしないものですし、依頼しても受けていただけないのですが、ここまで熱心に取り組んでいただけるとは思っておりませんでした」

「いえ、思っていたよりもネズミの数が多くて市民生活にも悪影響が出そうですし、放置する訳にはいきませんよ」

「ありがとうございます。そんなに多かったんですか?」

「そうですね、一番大きな倉庫では五十匹以上は捕まえましたし、殺したネズミの片付けはカルロッテとフラーエにやってもらったので……」


 一緒に報告に来ている二人に視線を向けたのだが、カルロッテとフラーエは肩を竦めてみせた。


「何匹いたかなんて数えてられないよ。あっと言う間に、大量のネズミが出て来たかと思うとバタバタ倒れてそれっきりさ」

「俺も三百匹までは数えていたけど、その後は面倒になって止めた。軽く倍以上、三倍ぐらいは捕まえたんじゃないかな」


 カルロッテもフラーエも、もうネズミは見たくないという顔をしているけど、少なくとも明日一日は付き合ってもらうよ。

 ウンザリしていた二人だが、今日の報酬額を聞いた途端に満面の笑みを浮かべた。


 ネズミ退治とはいえ、七件弱の報酬ともなるとかなりの金額だ。

 実際、トラッカーの三人だけで依頼を受けていたら、一人一件分の報酬が得られたどうかも怪しいところだ。


「残りの依頼は、明日の朝からトラッカーのみんなと回る予定ですので、明日中には片付くと思います」

「ありがとうございます、エルメール卿。本当に助かります、これならお約束通りに、後でいっぱい踏み踏みしていいですよ」

「あら、ジェシカとそんな約束をしていたの?」


 やった……と思った次の瞬間に、レイラさんのヒンヤリとした声が耳元で響いた。


「い、いや……あれは僕をからかっているだけで……」

「からかうなんて、名誉騎士様にそんな失礼な真似は出来ません」

「エルメール卿、私は踏み踏みしてくれないのかしら?」

「い、いや……それはですね……」

「ジェシカ、酒場で待ってるわよ」

「はい、レイラさん。急いで仕事を終わらせていきますから」


 いっぱいネズミ退治の依頼をこなしてきたのに、踏み踏みが二倍になるのではなく、ご奉仕が二倍になりそうな気がする。

 せめて酒場にはトラッカーの三人も一緒に……と思ったのだが、空属性の魔法を使っただけの俺とは違い、壁の穴を塞いだり、死んだネズミを片付けて汚れていたので、レイラさんに追い払われてしまった。


 それなら汗を流して着替えた後で酒場に戻ってきて……と思ったのに、三人は地元のドカ盛りの店に行くらしい。

 そうだよね、俺らの年では酒よりも飯だもんね。


 かくして、いつものごとくレイラさんに抱えられて酒場に入ると、いつものごとく怨嗟の視線が突き刺さってくる……と思いきや、今日は何だか雰囲気が違っていた。


「手前、もう一度ぬかしやがったら、ぶっとばすぞ!」

「はぁ? おもしれぇ、何度でも言ってやるよ。淫売が一匹死んだだけだろう……」

「この野郎!」


 二十代前半ぐらいに見える馬人の男が、三十代ぐらいに見える犬人の男に殴り掛かって行った。

 まだ酔ってはいないのだろう、犬人の男は軽くバックステップを踏んで馬人の右フックを躱すと、左のジャブを顔面に叩き込んだ。


「ぐぅ……」


 こちらは既にかなり酔っ払っているのか、馬人の若い男はジャブを一発食らっただけで腰砕けになって倒れ込んだ。


「口先だけの小僧が、イキってんじゃねぇぞ!」


 素早く踏み込んだ犬人の前蹴りが、座り込んだままの馬人の顔面をまともに捉えた。


「がはっ……」


 馬人の男は、折れた前歯を吐き出しながら倒れ込み、床に頭を打ち付けて昏倒した。

 酔っぱらいと素面の違いもあるのだろうが、素の実力差もかなりあるように見える。


 犬人の男は馬人の足首を掴むと、床を引き摺っていき酒場の外へと放り出した。

 ギルドの酒場では珍しくない光景だが、馬人の若い男は頭を強く打ったようだったので少々心配だ。


「貧民街に馴染みの娘でもいたんでしょうね」

「なるほど……」


 冒険者という職業は、子供……特に男の子にとっては憧れの職業だが、はっきり言って成人女性には人気が無い。

 給料を貰う職業のように生活は安定していないし、魔物の討伐には危険を伴う。


 そこで若い冒険者の多くは、満たされない性欲を娼館で発散するのだが、稼ぎが良くない者達は歓楽街ではなく貧民街に足を運ぶ。


「周辺の村から出て来て冒険者をやっていると、貧民街で同郷の女の子、顔見知りの女の子に出会うこともあるみたいよ」


 貧民街で出会ったとしても、稼ぎの少ない冒険者には身受けするほどの財力は無い。

 せめて一時お客としての時間を買い、余分に金を置いていくぐらいしか出来ないらしい。


「うわぁ、それはちょっと……」

「と思うでしょうけど、それも現実なのよね……貧民街が無くなったとしても、場所が歓楽街に変わるだけかもしれないし……」

「貧民街を解体するだけじゃなくて、トモロス湖畔の施設で職業訓練にも力を入れるって言っていたから、少しは変わってくれるといいな」


 貧民街が崩落したことで、当初の計画からは大幅に軌道修正が求められるのだろうが、職業訓練施設については予定通りに計画を進めてもらいたい。

 裏社会の構成員に対する矯正施設も作られる予定だったようだが、こちらは計画が白紙に戻されたようだ。


 幹部を含めて、多くの構成員が行方を眩ませている。

 その多くはイブーロを離れて、近郊の村や集落に潜伏していると思われ、次に摘発を試みる時には戦争に近い形になると予想されている。


 勿論、俺も参加するつもりでいるが、粉砕の魔法陣が使われたということは、砲撃や地雷攻撃も考慮しておいた方が良いだろう。

 レイラさんは、いつもの奥の席には行かず、カウンターに腰を落ち着けた。


「奥には行かないんですか?」

「今夜は埃っぽくって……」

「あぁ、確かに……」


 酒場にいる人の殆どが、貧民街の崩落現場で瓦礫の撤去作業に携わっていたようで、頭も服も埃だらけだ。

 顏まで泥だらけの人もいて、さすがに俺でも近寄りたくない。

 

 眺めてみると、賑やかに話をしている一団もいれば、沈痛な面持ちで酒を酌み交わしている一団もいて、いつもよりは静かに感じる。

 先程、馬人の男と揉めていた犬人の男は、賑やかなグループに加わっている。


 一緒にいる連中も含めて、小綺麗な身なりをしている所を見ると貧民街の作業には加わっていないのだろう。


「あれは、また揉めそうね……」

「止めますか?」

「ううん、不満は溜め込むよりも、どこかで発散しておいた方がいいわ」

「そんなものなんですか?」

「そんなものよ……それよりも、ジェシカが来るまで、うみゃうみゃしながら待っていましょう」

「うーん……あんまり、うみゃうみゃ騒ぐのも気が引けますね」

「それじゃあ、私にだけ聞こえるように小声で、うみゃうみゃすればいいわ」

「考えときます……」


 今夜も遅くなりそうだし、ジェシカさんが来るまでレイラさんの乳枕でゆっくりさせてもらおう。

 頼んでいないのに、マスターが出してくれた冷たいミルクを一口飲んで大きく息を吐き、体の力を抜いた。


「うみゃ……」

「ふふっ……」


 レイラさんは、果実酒の入ったグラスを口許へと運ぶ。

 胸の深い谷間には、赤い宝石が嵌め込まれたフューレィの花をモチーフにしたネックレスが光っていた。

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