第119話 ジェシカ

 ゆらり、ゆらりと揺れている。

 なんだかムカムカするのは、船酔いしているからだろうか。


 いつの間に、俺は船に乗ったのだろう。

 いや、これは船に乗って旅をする夢を見ているのだろう。


 ふにゅんふにゅんと柔らかくて温かなものに頭を預けているようだ。

 なんだろう、ふにゅんふにゅんと気持ち良い。


「そんなに踏み踏みしても、おっぱいは出ませんよ」

「ふにゃ?」


 耳元で聞き覚えのある柔らかな声がする。

 えっと、誰だっけ? 思い出そうとするけど頭が上手く回らない。


 胸がムカムカするのも、頭が回らないのも、みんな船酔いのせいだ。

 このまま、ふにゅんふにゅんに埋まって眠っていれば、船酔いも良くなるだろうか。


「ふふっ、今朝は甘えん坊さんですねぇ……ニャンゴさん」

「みゃっ? ニャンゴ……さん?」


 ようやく少しだけ頭が働き始めた。

 この柔らかな感触は……若干違いはあるけれど覚えがある。


 でも、この状況で『さん』付けで名前を呼ばれるはずはないのだ。

 頭が回り始めると同時に、冷や汗が噴き出して来る。


 とっても良い匂いがするけど、これも覚えのないものだ。

 恐る恐る瞼を開いて、視線を上げてみた。


「おはようございます。ニャンゴさん」

「お、おはようございます……ジェシカさん」

「昨夜はとっても激しかったです……」

「にゃっ! え、えっと……えっと……」

「もしかしてニャンゴさん、覚えていないんですかぁ?」

「えっと……えっと……ごめんなさい!」


 全然思い出せないし、ズボンもパンツもはいてない。

 て言うか、ジェシカさんも何も着ていないような……。


 これは、男として責任を取らなければいけない事態のような……。

 知らない間に大人の階段を上ってしまったような……。


 でも、なんで何にも覚えていないんだ。


「責任……取ってもらえますよね?」

「せ、責任……で、でも……」

「でもじゃありません。ちゃんと、お風呂場は片付けていただきますよ」

「で、でも……って、お風呂場?」

「本当に覚えていないんですね。もう大変だったんですよ」


 ジェシカさんの話よれば、ベリーミルクはワイルドベリーのリキュールを使ったカクテルだそうだ。

 それをジュースと思い込み、うみゃうみゃ、グビグビ飲んだ結果、デレンデレンに酔っぱらっていたらしい。


 そのまま一人で帰らせるのは危ないと、ジェシカさんが自分のアパートまで連れて来たのは良いけれど、風呂場で魔法陣を使って大騒ぎをしたらしい。


「洗濯……とか、ジェットなんとか……とか、言ってお湯を撒き散らして、お風呂場がめちゃめちゃになってます。ちゃんと片付けて下さい」

「はい……ごめんなさい」

「女性の身体を洗うのは、と──っても手馴れていらっしゃいましたが、どこで覚えたんですか?」

「みゃっ、そ、それは……」

「泥酔して、あんなサービスしていたら、本当に責任を取らなきゃいけなくなっちゃいますよ。反省して下さい」

「はい……」


 どうやら風呂場ではしゃぎ過ぎたようで、レイラさんに教え込まれた洗浄テクニックやら、温風の魔法陣やらを披露しまくったようだ。

 てか泥酔状態で、あの洗浄フルコースはマズい……。


 いそいそとベッドから出て、パンツとズボンをはいて風呂場を覗いてみた。

 あぁ……これは酷い、壁から天井まで泡が飛び散った跡が残っている。


「あの、ジェシカさん、雑巾を……ふみゃ! ごめんなさい」


 ジェシカさんは、ベッドから出て下着を着けている最中で、色んなところを拝見してしまった。


「雑巾は、洗面台の下の扉の中ですよ。それと、昨日一緒にお風呂に入ったのに、今更ですよ」

「はい……」


 洗面台の下から雑巾を借りて、風呂場を天井から床まで綺麗に掃除していく。

 そのままでは手が届かないけど、ステップを使えば天井も楽に掃除できる。


 バスタブも、窓枠も、全部綺麗に掃除し終えたところで、ジェシカさんにチェックしてもらった。


「はい、結構です。お疲れ様でした」

「どうも、お騒がせしました」


 盛大に冷や汗をかいて、風呂場を掃除したおかげか、頭がグラグラする感じは抜けていった。

 それと同時に胃袋が、ぐ~きゅるるる……っと、盛大に不平不満を言い立てた。


「うふふふ、お腹空きましたよね。朝ご飯を食べに行きましょうか?」

「はい、ご迷惑をお掛けしたので、ごちそうさせて下さい」


 やはりギルドはシフト勤務となっているそうで、今日はジェシカさんは休みだそうだ。

 今日のジェシカさんは、白いモコモコのセーターとブラウンのニットのスカート、足許は暖かそうなスェードのブーツだ。


 いつものギルドのカッチリとした制服の時よりも、雰囲気が柔らかいせいか若く見える。

 そう言えば、ジェシカさんは何歳……いえ聞かないでおきます。


 ジェシカさんが連れて行ってくれたのはアパート近くのカフェで、ちょっとお洒落で落ち着いた感じの店だ。

 うん、時と場所をわきまえて、いい男として振る舞わなければ……。


「うみゃ! ベーグルはムチムチで、レタスはシャキシャキ、チーズとハムは濃厚で、うみゃ!」

「うふふふ、ベーグルは逃げませんよ、ニャンゴさん」

「みゃ……うん、なかなかうみゃいね、ジェシカさん」

「ふふっ、そうですね」


 大人な男を演じる……じゃなくて、大人としての振る舞いをするつもりだったけど、カルフェはやっぱりブラックじゃ飲めにゃいし、全然ダメダメだ……。


「ニャンゴさん、どの辺りまで覚えていますか?」

「ベリーミルクを飲み始めた辺りは覚えてますが、その後はブツっ、ブツっと途切れてる感じです」

「お酒は、信用できる人が一緒の時じゃないと駄目ですね」

「はい、気を付けます……」


 初めて飲んだお酒で、いきなり失態をやらかすとは、我ながら情けない。


「ニャンゴさんは、これからますます有名になっていくんですから、ホントに気を付けなきゃ駄目ですよ」

「はい……って、そう言えば、昨日もそんな話をしてたような。ラガート子爵家とエスカランテ侯爵がどうとか言ってたような……」

「そこは覚えておいてもらわないと困るので、もう一度説明しますね」


 イブーロのあるラガート子爵領と、先日家具工房の護衛で出掛けたエスカランテ侯爵領は隣り合う領地で、この両家は何かにつけて競い合っているらしい。

 貴族としての身分や、国での役職などは騎士団長を歴任しているエスカランテ家の方が格上だそうだが、そうした身分を超えての意地の張り合いみたいなものらしい。


 例えば、ブロンズウルフ騒動の時に俺が助けを求めに行ったビスレウス峠に、王国騎士団とラガート子爵家の騎士が同数駐在しているのも、意地の張り合いの結果らしい。

 王都を挟んで反対側の国境では、王国騎士団のみで警備を行っている場所もあるそうだ。


 そのラガート子爵領とエスカランテ侯爵領の境にはブーレ山があり、やはりワイバーンが住み着いているらしい。


「もしかして、そのワイバーン討伐を巡って、両家が争うんですか?」

「争うではなく、競い合うですね。おそらくですが、年初の挨拶の際に、どちらが早く討伐出来るか競争だ! みたいな話になると思われます」

「そこにチャリオットも駆り出されるんですか?」

「たぶん……ブロンズウルフの討伐で名を上げてますからね」


 ラガート家とエスカランテ家が競い合い始めたのは、今の領主の時代からではなく、先代、先々代、先々々代、もっと前からという話だ。

 そして、エスカランテ家の先代が元Aランク冒険者のタールベルグから世間の情報を仕入れているように、ラガート家の先代も冒険者の話を仕入れているらしい。


「えっ、もしかして俺の話も……ですか?」

「Fランクでブロンズウルフに止めを刺し、チャリオットのメンバーとして活躍、Cランク、Bランクの冒険者を叩きのめし、学校を占拠した盗賊を一網打尽……話が届いていない訳がないでしょうね」

「うーん……マズいにゃぁ……」

「ニャンゴさん、また何かやらかしたんですか?」

「はい、実は……」


 学校の射撃場で鉄の的を熔かしてしまったと話したら、ジェシカさんに大きな溜息をつかれてしまった。


「ニャンゴさん、チャリオットじゃなく、ニャンゴさん個人にリクエストが来るかもしれませんよ」

「えぇぇ……それって断わっても……」

「無理です。ラガート家への仕官については断われますが、リクエストは余程の理由が無い限りは断れないと思っていて下さい」

「えぇぇぇぇ……1人で行くのは、ちょっと……」

「はぁ、仕方ないですねぇ。もし、ニャンゴさん個人へリクエストが来るようでしたら、チャリオットに依頼するように仕向けて差し上げます」

「ありがとうございます。ジェシカさん」


 さすが、ちょっと怖いけど頼りになるな、ジェシカさん。


「その代わり、またお風呂で洗ってもらいます。今度は、酔っ払っていない時に……」

「えぇぇ……分かりました」

「分かればよろしい……うふふふ」


 真面目なんだか、不真面目なんだか、段々ジェシカさんという人が分からなくなってきたけど、魅力が増していることだけは間違いない。

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