第71話 貧民街

 拠点に戻って夕食を済ませると、シューレとの熾烈な交渉が待ち構えていた。

 俺が学校に行っている間に、シューレは石鹸を仕入れて来ていた。


「大人しく私とお風呂に入るの……」

「お断りします。俺は一人でノンビリ浸かりたいんです」

「良い香りの石鹸があるわよ。泡々できるわよ……」

「うっ……そ、それでも俺は一人で入るんです」

「一緒に良い香りに包まれて眠りたくない?」

「今日は自分の布団で眠るので結構です。もうフカフカに仕上げてありますので」

「むぅ、そうはさせない……」


 実力行使に訴えようと両手をワキワキさせながら迫って来るシューレの魔の手から、ステップを使った立体機動で逃げ回る。


「ドタバタうるせぇな! 表でやれ!」

「隙あり!」

「ふにゃ! にゃぁぁぁ……」


 セルージョに怒鳴られて怯んだ隙にシューレに捕獲され、風呂場に引きずり込まれてしまった。

 この日ばかりは、風呂を嫌がる猫の気持ちが少しだけ分かった気がする。


 まぁ、レイラさんの所とは違う爽やかな良い匂いになったし、素晴らしい眺めとか乳枕とか堪能したけど、明日は絶対に一人で入ってやる。

 寝巻を用意するからと言って屋根裏部屋へと上がり、階段と窓をシールドで封鎖した。


「ニャンゴ、騙したわね……大人しくフワフワな毛並みを堪能させなさい」

「嫌ですよ。自分の尻尾で我慢して下さい」

「我慢できない。大人しく出て来なさい、ニャンゴは完全に包囲されている……」

「じゃあ、その包囲の中でヌクヌクします。おやすみなさい」

「むぅ、明日の手合せは覚悟しておきなさい……」


 今日買ってきた新しい布団は、念の為のダニ退治モードでフカフカに乾燥してあるし、新しいシーツの手触りも申し分ない。

 布団に潜り込んで朝までヌクヌク……と行きたいところだが、階下の気配に耳を澄ませた後で、静かに布団から抜け出す。


 今俺が身に着けているのは、寝巻ではなく学校の帰り道に買ってきた黒いシャツと黒いハーフパンツだ。

 あまり高価な品物ではないので、生地に光沢が無いのは有難い。


 毎朝毎晩ブラッシングを欠かさない、俺の艶々の毛並みも隠してくれる。

 暗闇にうずくまって目を閉じていれば、身体強化で視力をアップさせている人でも存在を見落とすと思うほど全身黒ずくめだ。


 空属性の探知魔法を使って閉じてある窓の外を探り、誰もいないのを確認したら音を立てないようにそーっと窓を開けて屋根の上に出る。

 屋根が軋んで音がしないようにステップも使っておいた。


 見上げた夜空には薄い雲が掛かっていて、細く欠けた月が朧に見える。

 屋根の上にしゃがみ込み、耳を澄ませて周囲の様子を窺った。


 まだ夜更けと言うほど遅い時間ではないので、遠くから人の喧騒が聞こえてくるが、チャリオットメンバーはそれぞれの部屋にいるらしく話し声は聞こえてこない。

 そーっと立ち上がり、ステップを使って屋根伝いに移動を始めた。


 向かっているのは貧民街がある方向だ。

 セルージョは絶対に近付くなと言っていたが、やっぱり気になって仕方がないのだ。


 まともな服装の者が足を踏み入れれば、身ぐるみ剥がれて命すら失う危険があるそうだが、それならば存在を悟られなければ良い。

 メンデス先生やレンボルト先生、服を買った店の人にも、それとなく貧民街の話を聞いたが、みんな口を揃えて近付いてはいけないと言っていた。


 そんな危険な場所で田舎育ちの猫人の兄貴が、まともな暮らしが出来るとは到底思えない。

 危険は覚悟の上だが、せめてどんな街なのか自分の目で確かめておきたい。


 倉庫街を抜けて貧民街へと近付くと、街の様子が一変した。

 倉庫街には、数こそ多くはないが街灯が点されていて、手元に明かりが無くても何とか歩くことは出来る。


 だが、貧民街とされるエリアは、そこだけ闇が固まっているかのように暗く、饐えた嫌な匂いの空気が澱んでいた。

 街の境にある倉庫の屋根から貧民街の方向を見渡すと、寄せ集まったバラックがまるで迷宮のように広がっている。


 貧民街の中心は、周りよりも低い窪地になっているらしい。

 嘘か本当か、ただでさえ低い窪地の中心を更に深く掘り進め、貧民街を牛耳る者たちは地下深くに身を潜めているという噂もある。


 街の境に沿って移動してみると、薄暗いながらも明かりの点った場所があった。

 安っぽい香水とタバコの匂いが鼻につく。どうやら売春婦の集まる場所らしい。


 壁に寄り掛かり、タバコをふかしながら、様々な人種の女性が道行く男に声を掛けている。

 レイラさんが夜に咲き誇るバラだとしたら、さながらここは食虫植物の群生地といったところだろう。


 倉庫の屋根に蹲り、周囲に探知の魔法を張り巡らしながら通りの様子を窺うが、見えるのは身体を売る女と下心丸出しの男、それに時々強面の虎人や狼人の男が見回りに来るばかりだ。

 こちら側から眺めているだけでは、あまり有用な情報は得られそうもないが、通りは思っていたよりも明るく、目が慣れている人ならば黒ずくめであっても俺の姿を捉えてしまうだろう。


 遠回りをして、もっと暗い場所から潜入しようかと思っていたら、少し離れた場所にも明かりが見えたので、そちらへと移動してみた。

 明かりは点っていたが、先程の場所よりも遥かに薄暗く、道に立っている顔ぶれも違っている。


 先程の場所にいたのは、羊人や山羊人、牛人など、いわゆる人の姿に近い人種の女性達だったが、こちらに居るのは兎人、猫人など獣に近い姿の人種の女性と男娼だった。

 どうやら、明るい場所にいる者ほど値段が高く、暗い場所にいる者ほど僅かな金で身体を売っているらしい。


 兎人の女性がブクブクに太った豚人の男に抱えられ、貧民街の闇の中へと消えていった。

 今の自分にどうこう出来る問題ではないと分かっているのだが、胸の中に貧民街の闇の様などす黒い怒りが渦を巻き始める。


 ふと思いついて貧民街の闇の中に空属性魔法で集音マイクを作ってみたが、すぐに後悔する事になった。

 聞こえてきたのは下品な男の笑い声と悲鳴のような女の声で、僅かばかりの金を払って好き放題に女をなぶっているらしい。


 集音マイクを消して、苛立ちを抑えるために静かに呼吸を整える。

 このまま観察していても意味が無さそうなので、出直して来ようかと思っていたら、通りを歩く男に視線を引き寄せられた。


 チャラそうな馬人で、いかにもその通りをうろついていそうな男だ。

 どこかで見たような記憶があるのだが、すぐには思い出せなかった。


「んー……あっ、あの時の……」


 ライオスと初めて会った時、ギルドの買い取りの列に並んでいた俺を投げ飛ばした奴だ。

 ギルドを出た後に襲い掛かってきたから、叩きのめしてやったのを思い出した。


 馬人の男は、意地の悪そうな笑みを浮かべ、街娼を眺めながら歩いて来る。

 俺がいる倉庫の前を通りすぎると、更に暗がり向かって歩いていたが、不意に足を止めて壁際へと近付いていった。


「あっ……」


 思わず声を洩らしてしまいそうになり、慌てて自分の口を手の平で塞いだ。

 馬人の男が近付いていったのは、マーケットからパンを盗んだ泥棒猫人だった。


 身体強化で視力を高めて顔を確かめると、薄汚れてやつれてはいるが、間違いなく二番目の兄貴だった。

 素早く二人の頭上に集音マイクを作って、会話を盗み聞きする。


「いくらだ、にゃんころ」

「ぎ、銀貨三枚……」

「あぁん? お前みたいな薄汚れたにゃんころが銀貨三枚だと、舐めてんのか?」


 馬人の男が声を荒げると、兄貴はビクリと身体を震わせて耳を伏せた。

 毛並みの悪い尻尾が縮こまっているのが分かる。


「銀貨二枚でいい……」

「はぁ? 銀貨一枚に銅貨五枚だ。嫌ならやめるぞ」

「分かった、こっち……」


 兄貴が馬人をバラックの迷宮へと招き入れる。

 飛び出して行って兄貴を取っ捕まえて、引き摺って連れて帰ろうと思ったのだが、二人と入れ違うように狼人の男が通りに顔を出した。


 左の頬に大きな傷跡があり、通りを見回した直後に俺の方へと視線を向けながら腕を振った。

 念のために作っておいたシールドが、カツーンと高い音を立てる。


 何かを投げつけられたようだが、視力の強化をしていたのに全く見えなかった。

 素早く身を引いて、そのまま倉庫街の方向へと全力で逃走したが、背中に嫌な汗が流れている。


 何者かは全く分からないが、ゼオルさんクラスの強者であるのは間違いない。

 あんな奴がウロウロしているのでは、やはり迂闊には近付けなさそうだ。


 あの後、兄貴がどうなるのか考えると腸が煮えくり返るが、戻ったところで居場所を見つけることすら困難だろう。

 倉庫街から一旦街に出て、尾行されていないのを確かめた後で拠点に戻る。


 ステップを使って屋根の上まで辿り着くと、どっと疲れを感じた。

 とりあえず、泥棒猫人が二番目の兄貴で、貧民街に暮らしているのを確かめられただけでも収穫はあった。


 天窓をそーっと開けて屋根裏部屋へと入り、布団に潜り込もうとして持ち上げられた。


「ふみゃ!」

「夜遊びニャンゴ、捕まえた……」

「いや、これには事情が……」

「問答無用」

「みゃ、離して、俺は一人でぇぇ……」


 結局シューレのベッドに連行され、一晩抱き枕にされてしまった。

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